おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小笠原村からの一時帰還。(じじばばがゆく。驚き編。)

2016-12-25 17:52:00 | じじばばがゆく

 久しぶりだね、どう、向こうでの生活は? 半年経ったけれど。馴れましたか?

 元気そうでなにより。ちょっとスリムになったかなァ。

 往復10万円か、それに行って帰ってくるまで、6日間。そのうち、24時間×2は、船旅。けっこう行くには勇気がいる感じだがね。

 夏にはご両親も行ったんだ。それで2日目には飽きちゃったって。マリンスポーツとか海に興味がないと、たしかにつまらないかもしれない。親ってこっちよりも少し若いくらいだろ、偉いよな、行くだけでも。

 でも、息子の働きぶりが心配で、心配で、という親心でしょ。へえ、昨日は竹芝まで迎えに来てくれたなんて、たいしたもんだよ。

 メールで「内地」っていう言い方には驚いたけれど、ピッタリという感じなんだ、まさに海外という感じかな。


 《東京都の職員で今年4月から小笠原で勤務している男と塾講で働く男と飲み会。飲んでしまっていい気分の聞き取り。》


 4月に赴任したときは、八丈を過ぎると話には聞いていたけれど、10時間は島影もまったく見えず、いったいホントに島に着くのかなって思ったって、そうかもしれんな。

 帰ってくるときは、八丈が見えてくるともう都内って感じます、なるほどね。

 江戸時代でしょ、あそこが日本の領有権を主張するようになったのは? 私もちょっと調べてみたけど。

 1675年(延宝3年)に、江戸幕府が島の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置したんだって。

 1727年(享保12年)になると、小笠原貞頼の子孫と称する浪人の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、幕府に訴え出て、その訴状には父島、母島、兄島などの島名が記されていた。そして、「小笠原島」と呼ばれるのはこれ以降のことだとか。

 平成28年の「住民基本台帳登録者数(3/1)」だと2,606 人が住んでいるって、さすがプロ。数字をすぐ出せるなんて。父島2,134人 母島472人、世帯は 二島で1,470。

 ということは1世帯当たりの人数は少ないじゃない。そっちみたいに単身者が多いのかなあ。

 もともとの住民はあまりいないんだ、戦争中に全員強制疎開させて、日本に返還されたときには元の島民はあまり戻らなかったのか。

 公務関係や建築関係、それも土木、港湾関係に従事している人はけっこう多いというわけか。 

 ところで、そちらさんは本州から出たことがない、修学旅行で京都に行ったのが一番遠いって。いまどき、そんな人もいるんだ、驚いた。

 でも、小笠原で塾が開けないかしらね。本土の高校の中高一貫校に合格させますって。でも寄宿舎がないから現実的ではないかな。昔は、秋川高校という全寮制の高校があったけれど。

 一生に一度は行ってみたいね、東京人として。

 やっぱり小笠原っていうと、マリンスポーツって感じだけど、もちろん海は澄んでいるし、最高か。

 でも、実は星空が最高です、か。へえ~、星が☆の数ほどあるって。なにしろ周囲は真っ暗で何も灯りがないから。想像しただけでも素晴らしいや。

 それに山登りも楽しめるのか、へえ。山がけっこうあるんだ。

 それに戦跡巡りも、か。たしかにこの間の戦争で激戦地だったからね。かつての日本軍の要塞やらがあちこちにに残っているのか。それは痕跡巡り人間にはたまらない魅力だわ。

 島でもし重病人が出たらどうするの? そういうときは自衛隊の水上飛行艇が出動するんだ。船だと丸一日かかる道のりも、飛行機なら数時間ですからって。ふ~ん。

 東京都小笠原村なわけだね。そこでの都職員ということか。

 父島には高校もありますよ。高校時代の同級生が小笠原高校で教えていますよって、彼はもう2年目になるのか。

 クルマのナンバーはなんと品川ナンバーですから。足立ナンバーとは違いますから。あなたはオートバイでしょ。ほとんどが黄色ナンバーか。なるほど。

 エスカレータはありません、エレベータは二個所くらいにあるらしいって、そうなんだ。

 ここで改めて「小笠原」の基礎知識

小笠原諸島

 小笠原・父島は東京から南に約1000㎞のところにある。(※東京から西へ1000㎞というと、九州の「種子島」付近に当たる。)

 北緯27度・東経142度に位置する。(※沖縄とほぼ同じ緯度)。

 南に50㎞のところに母島があり、父島から北に50㎞以上離れて聟島がある。

 父島は伊豆諸島の八丈島から700㎞も南にある。

 気候は亜熱帯気候。同じ小笠原諸島でも父島や母島の南に位置する火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島では熱帯に属す。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。「台風シーズン」というものはなく、年中来る
 梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無い。

 小笠原諸島は生命が地球に誕生して以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げている。そのため、東洋のガラパゴスとも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。

《戦後の主な歴史》

1945年(昭和20年)2月19日 ~ 3月26日 - 硫黄島の戦いが行われ、日本兵18,375名と米兵6,821名が戦死する。
1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍の指令により日本の小笠原諸島への施政権が停止される。
1946年(昭和21年)10月 - 連合軍総司令部が欧米系の旧島民とその家族135人のみに帰島を許可する。
1946年(昭和21年) - 小笠原支庁・村役場が東京都下谷区下谷小学校に移転する。
1947年(昭和22年)7月 - 旧・島民たちによって、小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟が設立される。
1952年(昭和27年)4月28日 - サンフランシスコ講和条約の発効により、小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれる。
1965年(昭和40年) 5月 - 第 1回墓参団が渡島する。
1967年(昭和42年)11月16日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決まる。
1968年(昭和43年)6月26日 - 協定が発効し、日本に返還される。東京都小笠原支庁設置。小笠原諸島全域を領域とする小笠原村が設置される。
戦前の旧・大村、旧・扇村、袋沢村、旧・北村、旧・沖村および旧・硫黄島村は、小笠原村となる。かつて小笠原支庁直轄だった北硫黄島、南鳥島、沖ノ鳥島および西之島も小笠原村の区域となる。

・・・

 もう年だし、道中で何かあっても心配だし、迷惑掛けるし・・・。一人で行くのも何だし、かといって一緒に行こうなんて人はいないし・・・。誰かいないかな?

 でも、楽しい話、ありがとう。そう、正月の3日には帰るんだ。それまで内地の気分を味わって下さい。新鮮な野菜と肉をたくさん食べて。

 えっ、ウミガメが島民には重要な動物性タンパク源なんだ、初めて知ったさ。

 機会を作って行くことにするから。連絡したときに、「江東区にいます」なんてことは無しにしてよ。八丈島で懲りたから。

(写真、資料はHP及び「Wikipedia」より。)  
コメント
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