県道を横断して「若柴排水場」前のY字路で左の細い道を進みます。
(12:36)分岐点に道標。
地元の青年団によって大正時代に建てられたもののようです。
旧道は緩やかに上り下りがあり、見通しが悪く、車同士のすれ違いも大変。そんな細い道に車がひっきりなしに行き交います。ちょっと怖い感じ。のんびりと歩けるような雰囲気ではありません。こういう状態がほぼ牛久宿への道まで続きます。
(12:49)しばらく進み、前方が明るく開けたところに「成井一里塚」があります。
成井一里塚
一里塚は、主要な街道に一里(約4㎞)ごとに築かれた塚である。
1604(慶長9)年、徳川幕府により江戸の日本橋を起点とし、全国的に主な街道には一里塚が築かれた。これは、里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。
由良国繁を城主とする「牛久城絵図」にも、成井の一里塚は描かれており、右に記すように徳川幕府によって築造されたものと想われる。
江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現龍ケ崎市の須藤堀、紅葉内、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは15番目、水戸街道の起点である千住からは13番目にあたる。
平成13年6月22日指定 牛久市教育委員会
右の塚は植樹こそないものの上部が平らのまま残っていますが、左の方ははっきりしません。
来た道を振り返って望む。
右手には田んぼが広がります。
この先、県道との信号を過ぎると、道路の拡幅・整備のために旧道は消滅? したようで、しばらく広くて新しい道路を進みます。
(13:01)「牛久宿」への旧道は緩やかな坂を過ぎてから左手に入る道。わかりにくいですが、進むと、旧道らしい道になります。
木々に囲まれ、緩やかな上り坂。
しかし、常磐線を越えて「国道6号線」へ向かう抜道になっているのでしょうか、車がひっきりなしに通過します。ここも歩行者には危険なところ。車の方でもまさか人が歩いているとは思えないようすです。
途中、左に大きくカーブする付近の右手に旧道が残っていますが、立ち入り禁止となっています。。
(13:11)そこで、旧道からは離れて、道なりに常磐線の踏切を渡り、「国道6号線」と合流、しばらく進み、残っている旧道(左手)に入ります。
常磐線と「国道6号線」で寸断された旧道。
この付近から「牛久宿」に入ります。
牛久宿
水戸街道千住宿から8つ目の宿場町。現在の茨城県牛久市牛久町付近。
宿場町は南北に1キロ弱の範囲で広がっている。牛久沼の北東岸の台地上に「く」の字型に旧街道が残っている。江戸寄りが下町、水戸寄りが上町と呼ばれる。水戸街道の道中絵図には、牛久宿の家並みは本陣と15の旅籠を含む124軒が描かれている。現在の国道6号は、その屈曲部を迂回して走っており、宿場内の道幅は7から8メートルのままになっている。古建築はほとんど残されていないが、道路脇の所々に井戸址を見る事ができる。
牛久宿は、戦国末期に描かれた絵図(龍ヶ崎市史別編2)に牛久宿が描かれており、牛久城主岡見氏の城下町であったものと思われる。
(「Wikipedia」より)
1880年代のようす。
現在のようす。街道の東側を国道6号線と常磐線が通り、市街地が広がっています。
(12:36)分岐点に道標。
地元の青年団によって大正時代に建てられたもののようです。
旧道は緩やかに上り下りがあり、見通しが悪く、車同士のすれ違いも大変。そんな細い道に車がひっきりなしに行き交います。ちょっと怖い感じ。のんびりと歩けるような雰囲気ではありません。こういう状態がほぼ牛久宿への道まで続きます。
(12:49)しばらく進み、前方が明るく開けたところに「成井一里塚」があります。
成井一里塚
一里塚は、主要な街道に一里(約4㎞)ごとに築かれた塚である。
1604(慶長9)年、徳川幕府により江戸の日本橋を起点とし、全国的に主な街道には一里塚が築かれた。これは、里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。
由良国繁を城主とする「牛久城絵図」にも、成井の一里塚は描かれており、右に記すように徳川幕府によって築造されたものと想われる。
江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現龍ケ崎市の須藤堀、紅葉内、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは15番目、水戸街道の起点である千住からは13番目にあたる。
平成13年6月22日指定 牛久市教育委員会
右の塚は植樹こそないものの上部が平らのまま残っていますが、左の方ははっきりしません。
来た道を振り返って望む。
右手には田んぼが広がります。
この先、県道との信号を過ぎると、道路の拡幅・整備のために旧道は消滅? したようで、しばらく広くて新しい道路を進みます。
(13:01)「牛久宿」への旧道は緩やかな坂を過ぎてから左手に入る道。わかりにくいですが、進むと、旧道らしい道になります。
木々に囲まれ、緩やかな上り坂。
しかし、常磐線を越えて「国道6号線」へ向かう抜道になっているのでしょうか、車がひっきりなしに通過します。ここも歩行者には危険なところ。車の方でもまさか人が歩いているとは思えないようすです。
途中、左に大きくカーブする付近の右手に旧道が残っていますが、立ち入り禁止となっています。。
(13:11)そこで、旧道からは離れて、道なりに常磐線の踏切を渡り、「国道6号線」と合流、しばらく進み、残っている旧道(左手)に入ります。
常磐線と「国道6号線」で寸断された旧道。
この付近から「牛久宿」に入ります。
牛久宿
水戸街道千住宿から8つ目の宿場町。現在の茨城県牛久市牛久町付近。
宿場町は南北に1キロ弱の範囲で広がっている。牛久沼の北東岸の台地上に「く」の字型に旧街道が残っている。江戸寄りが下町、水戸寄りが上町と呼ばれる。水戸街道の道中絵図には、牛久宿の家並みは本陣と15の旅籠を含む124軒が描かれている。現在の国道6号は、その屈曲部を迂回して走っており、宿場内の道幅は7から8メートルのままになっている。古建築はほとんど残されていないが、道路脇の所々に井戸址を見る事ができる。
牛久宿は、戦国末期に描かれた絵図(龍ヶ崎市史別編2)に牛久宿が描かれており、牛久城主岡見氏の城下町であったものと思われる。
(「Wikipedia」より)
1880年代のようす。
現在のようす。街道の東側を国道6号線と常磐線が通り、市街地が広がっています。