おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

取手~藤代~若柴~牛久。その3。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-14 20:33:33 | 水戸街道

 「文巻橋」は左側に歩行者専用の橋があります。渡ったあとで道路の向こう側に行きます。が、行き交う車が絶えないため、なかなか大変。近くに横断歩道もなさそう。やっとの思いで向こう側に。しばらく進んで旧道に復帰します。途中右手に「慈眼院」。対岸の藤代側の「熊野神社(八坂神社)」と対応しているようです。

(11:22)正面の細い道が旧道の一部? 

地域的には「龍ケ崎市」に属します。

 しばらくすると旧道は「牛久沼」からの水路で途切れてしまうので、右に曲がり、常磐線の踏切を越えます。「竜ヶ崎街道」という名前の踏切になっています。
    

 右手奥に牛久沼排水機場」が見え、一帯はお花畑になってのどかな雰囲気の川辺になります。
    

 (11:28)その先に「往還橋」(旧街道に関わるネーミングです。橋そのものは少し下流につけ替えられているようですが)。
 

    

 「水神神社」付近で旧道に復帰、県道まで静かな住宅地を歩きます。
    

 (11:41)県道に合流した後、「馴柴小入口」で左折します。右手角に小さな屋根に覆われた道標があります。摩滅していて判読不能。資料によると「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」とあるようです。
    

 その先、「関東鉄道竜ヶ崎線」の踏切を越えます。
    

 少し進むと、モダンな校舎の「馴柴小学校」脇に出ます。学校先のT字路に「道標」と「解説板」(11:48)。
    

市指定文化財 道標
 江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。
 初期の水戸街道は我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に来る街道(布川道)と取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り、小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの道の合流点に現在の市立馴柴小学校の北東東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里 江戸十三里 布川三里と通じる方角とそれぞれの里程が刻まれている。裏面には「この若柴駅街道の碑は文政9年(一千八百二十六)12月に建立した。三叉路で旅人が迷いやすいので若柴宿の老人が相謀り、普門本を読と彫誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた(意訳)」とあり、15名の村人の姓名が記されている。
 明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼淵の道路が開通した、そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(「宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)の碑として、往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである。
    






「若柴宿」方向。

 (12:00)強風に煽られそうになりながら、田んぼの中の道を進みます。
    

一面に枯れススキ。

 (12:06)「大坂」を越えると、いよいよ「若柴宿」。
    
                           「大坂 これより旧若柴宿」。

左手に「椿の小径」という案内板。
    
コメント
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