つくばりんりんロード
土浦と岩瀬を結ぶ全長40㎞のサイクリングロード。もともとは関東鉄道筑波線(注:茨城県土浦市の土浦駅と茨城県西茨城郡岩瀬町―現・桜川市―の岩瀬駅とを結んでいた鉄道路線)が走っていましたが、昭和62年(1987)3月31日に廃線となり、その後、サイクリングロードとして生まれ変わりました。旧ホームを利用した休憩所もあり、田園を渡る風が身体と心を健康にしてくれます。(以上、「桜川市」公式HPより)
その後、2016年には、霞ヶ浦までぐるりと全長180㎞以上の長いサイクリングロード(県道)として開通しました。名称は、「つくば霞ヶ浦りんりんロード」。「つくばりんりんロード」と「霞ヶ浦自転車道」など総延長約180kmのサイクリングコースとして安全・快適に走行できる全国屈指のコースとなっています。
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「筑波山」方向に少し歩いてみました。
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国道を渡ると、田園地帯が広がっていきます。自転車はもちろん、歩いている方もけっこういます。
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10分ほど歩いて戻って来たらレールの一部が何本か立っています。
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(12:41)さっきは気づきませんでしたが、ホームが残っています。そこで、おにぎりを食べて休憩します。
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当時の「新土浦」駅の跡のようです。
機会があったら徒歩で踏破してみよう、と。先に進みます。街道筋らしい建物がいくつかあります。
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「真鍋坂」を上って行きます。
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(13:02)急坂を上りきる右手にある建物。「藤本蠶業株式会社土浦支店」。「蠶」は蚕のこと。どういう会社なのだろうか?
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以下、「蚕都上田だより」HPより
蚕糸業で栄えた信州上田は蚕都(さんと)上田と呼ばれました。蚕都上田の歴史・文化は今も豊かに残っています。そうした蚕都上田の話題をお伝えします。
2016年01月24日 佐藤勇二さんに聞く 藤本蚕業土浦支店の記憶
上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」があります。この建物は1931年(昭和6年)に建てられた旧藤本蚕業の社屋です。現在もこのように残っています。現在は藤本工業が管理をしています。その一室で、佐藤勇二さんに旧藤本蚕業の土浦支店についてお話をお聞きしました。
蚕都上田の最大の特色は、地域・上田小県が蚕種製造の一大中心地であったということです。一にも蚕種、二にも蚕種、三にも蚕種。蚕種生産高は長野県が他県を圧倒して多く、その中でも上田小県が圧倒的に多い。その中心地が上田市塩尻地区です。上塩尻の藤本蚕業はこの地域を代表する蚕種製造業者でした。大正時代末から昭和にかけては茨城県土浦市に支店を置き、関東方面に蚕種を販売していました。「蚕種製造」とは、「蚕糸業」の中で蚕種製造→養蚕→製糸という蚕糸業の一番の大元になるものです。蚕種をとり、蚕種を販売する。全国で行われていた養蚕の原資が蚕種です。
上塩尻の佐藤一族が藤本蚕業合名会社を設立したのは1908年(明治41年)3月のこと。1924年(大正13年)1月、蚕種製造経営を合名会社から藤本蚕業株式会社に分離独立、1924年2月、土浦に宅地を購入し、支店を設置しました。(参考文献:松村敏著『戦間期日本蚕糸業史研究 片倉製糸を中心に』1992、東京大学出版会)
驚くことに、藤本蚕業土浦支店の建物、敷地が今も残っています。ちなみに「藤本蚕業」は、第二次大戦中、国の政策により日本蚕種に統合されます。戦後は上田社、上田蚕種協同組合、藤本蚕種…と変遷をしました。土浦支店の建物には「藤本蚕業株式会社土浦支店」と記されていることからも、これが戦前の状態のまま現在に至ったことがわかります。
佐藤勇二さんは藤本蚕業の戦後の企業体(上田社、上田蚕種協同組合、藤本蚕種、藤本工業)を支えた佐藤一族のお一人です。
佐藤勇二さんが土浦支店で仕事をしたのは1951年(昭和26年)頃の約1年間です。現存している旧土浦支店の現在の写真を目にして「まだ残っていたの」と驚かれていました。
・・・
「真鍋宿」方向を振り返る。
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坂を上がると「国道125号線」に出ます。右手に「県立土浦一高」。本館がゴシック建築で重要文化財に指定されてというので、見学したいと思いましたが、工事中のフェンスで入れず。今の正門を写しただけ。
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(13:17)しばらく国道を進んで「水戸街道松並木」という案内標に従って、右の道に入ります。
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約1.2㎞に「松並木」が残っています。ここ板谷地区には「水戸街道」で唯一残っているそうです。
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市指定史跡 水戸街道松並木
江戸時代のはじめ、徳川幕府は全国の主要道路整備の一環として、水戸街道をつくった。
水戸街道は五街道につぐ重要などうろであった。
この街道は、千住から土浦を通り、水戸までの約30里の長さである。街道筋には一里塚が築かれ、宿場が設けられた。
街道には、通行人を暑さ寒さから守るために、松が植えられた。現在はわずかにこの板谷地区に残るのみとなった。
平成16年(2004)3月 土浦市教育委員会
(13:30)「厚生病院」の先のところに「板谷の一里塚」が残っています。
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板谷の一里塚
一里塚は、慶長9年(1604)に江戸幕府が全国の主要街道の両側に築いたもので、江戸日本橋を起点として1里ごとに設けられた。塚の上には榎を植えて旅人の憩いの場とし、道のりを測る目安ともなった。1里は36町を指し、現在の約4㎞に当たる。
この板谷の一里塚は、日本橋から布川(ふかわ)を経て20里の位置にある。かつて土浦市内には、南から荒川沖、葉の前、大町、板谷の4ヶ所に一里塚があった。板谷に次いでは千代田の一里塚と稲吉宿に続く。
現在、旧水戸街道の一里塚の多くが失われている中で、街道の両側に残る一里塚としてこの史跡は極めて貴重である。
平成18年(2006)2月 土浦市教育委員会
その先、松並木の終わる地点で「松並木」の解説板と現代版の道標。
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「道標」には、「水戸まで約44粁(㎞)、東京まで約76粁(㎞)」とあります。