しばらく「房総往還」歩きの記事。
3月22日(日)。晴れ。今回は「富津岬」へ行くので、駅は一つしか進みません。左上のところ。
「国道16号線」を進みます。
今まで各所でしばしば通過した、車の行き来の激しい広い「16号線」とは思えないほどの通り。
元あった学校の敷地? 遊ぶ姿は、なし。
すぐお隣に「青堀小」。かなりごつい校舎。
かつての商家風のおうち。
国道16号線。「横浜まで218㎞」ポスト。
神社脇に「青堀南部漁業協同組合解散記念碑」。
その隣に芭蕉の句碑。
ほとゝきす 啼(く)や 黒戸の濱ひさし はせを 秋巖書 〈明治3年(1670)に建立〉
注:「芭蕉句集」中には存在しない、存疑の句。
「黒戸の濱」は、「更級日記」にある地名。
その夜は、くろとのはまといふ所にとまる。
かたつかたはひろ山なる所の、すなごはるばるとしろきに、松原しげりて、 月いみじうあかきに、風のをともいみ じう心ぼそし。
人々おかしがりてうたよみなどするに、
まどろまじこよひならではいつか見む くろとのはまの秋のよの月
注:「黒戸の濱」は、通説では、千葉市登戸から稲毛の間にある「黒砂」付近のようです。木更津あるいは富津では、帰京する旅筋からは離れてしまいます(一行は、下総から武蔵に進む)。
しかし、この地に句碑があることは、この地には何人か有力な俳人がいたことを意味しているのでしょう。江戸後期の小林一茶も滞在して句会があったようです。そうした伝統が受け継がれていた、と。
その先、左の道が旧道のようです。
すぐ国道に復帰します。
右に小道があるので、そちらへ。足下には貝殻が敷き詰められています。漁師町らしい雰囲気。
木陰にいくつか漁船が。
時折、車が通過しますが、のどかな国道16号線。
「ひろ寿司」この先、右折すると、「富津埋立記念館」へ。
ここにも小型漁船が。
田んぼ際にうち捨てられた漁船も(○)。
「横浜まで220㎞」ポスト。
「新井」交差点の角に「イタリア料理 Rocco」。
菜の花畑。
新井の交差点のすぐ先を右に曲がると、大乗寺があります。このお寺には小林一茶とも交流のあった女流俳人の織本花嬌のお墓があります。
参道左手に「俳人小林一茶曽遊の地」碑。
一茶は、地元の女流俳人織本花嬌らと親交が深かったようだ。本堂左手の墓地には、その織本花嬌の墓がある。
「千葉県指定史跡 織本花嬌の墓」解説板。
織本花嬌は、江戸中期~後期の女流俳人である。花嬌は、西川村(現在富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生れ、本名を園といったが、長じて富津村の名主織本嘉右衛門に嫁いだ。花嬌は夫(俳号は、砂明(さみょう))ともに江戸の大島蓼太(雪中庵蓼太)の下で俳諧を学び、「花嬌」の俳号も蓼太から与えられた。天明7年(1787)に蓼太が没した後には小林一茶との交流が始まり、夫砂明が寛政6年(1794)に死去すると、隠居して別邸の「対潮庵」に暮らし、しばしば句会を開いた。
・・・
文化3年(1809)3月、富津村を訪れた一茶を囲んで富津連の俳人達が句会を開いた記録がある。
文化6年(1809)には貞印(富津村の尼僧)とともに旅をして紀行文『すみれの袖』を残している。文化7年(1810)4月3日に逝去し、大乗寺で法要が営まれ、同寺に葬られた。その後、花嬌の遺句は玄孫の織本泰によって、『花嬌遺稿』として編纂された。
《花嬌の句》
用のない髪と思へば暑さ哉
名月や乳房くはえて指さして
若草やいとしき人のむかし道
注:生前における一茶との親交は、一茶の『七番日記』など多くの記録があり、花嬌の百カ日忌に富津を来訪した一茶は「草花やいふもかたるも秋の風」と追悼の句を詠んでいる、とのこと。
艸花やいふもかたるも秋の風
蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉
(『七番日記』より)
境内にある「遭難者追悼之碑」。
海堡(海上に築造した砲台)建設に携わった人が明治30年の事故で犠牲になったのを追悼するもののようです。
「富津」交差点。
ここで、「国道16号線(東京環状道路)」は終了。横浜から約220.5㎞の地点。
その先、直線道路も左折道路もどちらも県道となります。特にそれらしい標識はありませんが、陸上道路としての国道16号線は終了となるわけです。
当初の計画では、東京湾に三浦半島と房総半島を結ぶ道路を建設し、「国道16号線」を文字通り、「東京(湾)環状道路」として完結させる予定でしたが、「アクアライン」などの状況を鑑み、計画は頓挫しています(破棄された? )。
金谷から久里浜までのフェリー路線が海上道路としての「国道16号線」の代替ルートとなっています。
環状路線であるものの、東京湾の海上区間があるため「東京環状道路」の別名に反して完全な環状道路となっておらず、また神奈川県横須賀市と千葉県富津市の端部はいずれも東京湾の港湾とも接続していない。法令上の起終点は横浜市になっているが、事実上の道路末端は、東側は富津市富津交差点で、西側は横須賀市走水で終わっている。
(この項、「Wikipedia」参照)
3月22日(日)。晴れ。今回は「富津岬」へ行くので、駅は一つしか進みません。左上のところ。
「国道16号線」を進みます。
今まで各所でしばしば通過した、車の行き来の激しい広い「16号線」とは思えないほどの通り。
元あった学校の敷地? 遊ぶ姿は、なし。
すぐお隣に「青堀小」。かなりごつい校舎。
かつての商家風のおうち。
国道16号線。「横浜まで218㎞」ポスト。
神社脇に「青堀南部漁業協同組合解散記念碑」。
その隣に芭蕉の句碑。
ほとゝきす 啼(く)や 黒戸の濱ひさし はせを 秋巖書 〈明治3年(1670)に建立〉
注:「芭蕉句集」中には存在しない、存疑の句。
「黒戸の濱」は、「更級日記」にある地名。
その夜は、くろとのはまといふ所にとまる。
かたつかたはひろ山なる所の、すなごはるばるとしろきに、松原しげりて、 月いみじうあかきに、風のをともいみ じう心ぼそし。
人々おかしがりてうたよみなどするに、
まどろまじこよひならではいつか見む くろとのはまの秋のよの月
注:「黒戸の濱」は、通説では、千葉市登戸から稲毛の間にある「黒砂」付近のようです。木更津あるいは富津では、帰京する旅筋からは離れてしまいます(一行は、下総から武蔵に進む)。
しかし、この地に句碑があることは、この地には何人か有力な俳人がいたことを意味しているのでしょう。江戸後期の小林一茶も滞在して句会があったようです。そうした伝統が受け継がれていた、と。
その先、左の道が旧道のようです。
すぐ国道に復帰します。
右に小道があるので、そちらへ。足下には貝殻が敷き詰められています。漁師町らしい雰囲気。
木陰にいくつか漁船が。
時折、車が通過しますが、のどかな国道16号線。
「ひろ寿司」この先、右折すると、「富津埋立記念館」へ。
ここにも小型漁船が。
田んぼ際にうち捨てられた漁船も(○)。
「横浜まで220㎞」ポスト。
「新井」交差点の角に「イタリア料理 Rocco」。
菜の花畑。
新井の交差点のすぐ先を右に曲がると、大乗寺があります。このお寺には小林一茶とも交流のあった女流俳人の織本花嬌のお墓があります。
参道左手に「俳人小林一茶曽遊の地」碑。
一茶は、地元の女流俳人織本花嬌らと親交が深かったようだ。本堂左手の墓地には、その織本花嬌の墓がある。
「千葉県指定史跡 織本花嬌の墓」解説板。
織本花嬌は、江戸中期~後期の女流俳人である。花嬌は、西川村(現在富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生れ、本名を園といったが、長じて富津村の名主織本嘉右衛門に嫁いだ。花嬌は夫(俳号は、砂明(さみょう))ともに江戸の大島蓼太(雪中庵蓼太)の下で俳諧を学び、「花嬌」の俳号も蓼太から与えられた。天明7年(1787)に蓼太が没した後には小林一茶との交流が始まり、夫砂明が寛政6年(1794)に死去すると、隠居して別邸の「対潮庵」に暮らし、しばしば句会を開いた。
・・・
文化3年(1809)3月、富津村を訪れた一茶を囲んで富津連の俳人達が句会を開いた記録がある。
文化6年(1809)には貞印(富津村の尼僧)とともに旅をして紀行文『すみれの袖』を残している。文化7年(1810)4月3日に逝去し、大乗寺で法要が営まれ、同寺に葬られた。その後、花嬌の遺句は玄孫の織本泰によって、『花嬌遺稿』として編纂された。
《花嬌の句》
用のない髪と思へば暑さ哉
名月や乳房くはえて指さして
若草やいとしき人のむかし道
注:生前における一茶との親交は、一茶の『七番日記』など多くの記録があり、花嬌の百カ日忌に富津を来訪した一茶は「草花やいふもかたるも秋の風」と追悼の句を詠んでいる、とのこと。
艸花やいふもかたるも秋の風
蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉
(『七番日記』より)
境内にある「遭難者追悼之碑」。
海堡(海上に築造した砲台)建設に携わった人が明治30年の事故で犠牲になったのを追悼するもののようです。
「富津」交差点。
ここで、「国道16号線(東京環状道路)」は終了。横浜から約220.5㎞の地点。
その先、直線道路も左折道路もどちらも県道となります。特にそれらしい標識はありませんが、陸上道路としての国道16号線は終了となるわけです。
当初の計画では、東京湾に三浦半島と房総半島を結ぶ道路を建設し、「国道16号線」を文字通り、「東京(湾)環状道路」として完結させる予定でしたが、「アクアライン」などの状況を鑑み、計画は頓挫しています(破棄された? )。
金谷から久里浜までのフェリー路線が海上道路としての「国道16号線」の代替ルートとなっています。
環状路線であるものの、東京湾の海上区間があるため「東京環状道路」の別名に反して完全な環状道路となっておらず、また神奈川県横須賀市と千葉県富津市の端部はいずれも東京湾の港湾とも接続していない。法令上の起終点は横浜市になっているが、事実上の道路末端は、東側は富津市富津交差点で、西側は横須賀市走水で終わっている。
(この項、「Wikipedia」参照)