のどかな田園風景。
もう少し利根川寄りの道もあるようですが、バス通りを進みます。
右に曲がると、いきなり前方が開けてきて、利根川の土手になります。正面に筑波山。
左がスポーツ公園、右がゴルフ場とグランド。
ゴルフ場は「野田市開発協会」の管理施設で、隣接する「野田市スポーツ公園」の施設として運営されています。
「市民特割」、「市民デー」、「レディース&シニアデー」などが「パブリック」という趣旨に沿った催しがあるようです。
河川敷の「ひばりコース」、丘陵の「けやきコース」の二つがあります。
「ひばりコース」。
「けやきコース」。
左側に「スポーツ公園」広場。
土手を望む。
「海から100.0K」。
河口(銚子港)からようやく「100㎞地点」に到達しました。もう少し感動深い標識かと思いましたが、・・・。
下流方向を望む。
少し先まで歩こうと思いましたが、強風にあおられてここで断念。
「海から100.5㎞」。
「スポーツ公園」に戻りましたが、風をよけるような施設はなし。親子連れは元気に遊び回っています。テントがいくつか張られ、風よけには抜群、でも小生は、・・・。
こうして「まめバス」をひたすら待ち続けました。
ところで、
この付近、利根川をはさんで対岸も野田市になっています。かつての流れに沿ったかたちです。
2010年代のようす。右側の三日月状の部分が旧利根川の流路で、現在も野田市になっています。
1880年代のようす。大きく右に迂回している。
点線が「北相馬郡」(現茨城県常総市)と「東葛飾郡」(現千葉県野田市)との境。
長い時間待って、午後4時半過ぎのまめバスに乗り、ようやく東武線「野田市駅」まで。
駅の周囲は「キッコーマン醤油」の工場や関連施設。
遠くに見えるのは、「もりのゆうえんち」の観覧車。
野田市といえば、醤油。醤油と言えば、
キッコーマンしょうゆの歴史
しょうゆの郷(ふるさと)で生まれたキッコーマン
そして1917年、野田のしょうゆ醸造家一族が合同して設立したのが「野田醤油株式会社」。キッコーマンの前身となる会社です。
野田醤油株式会社は、恵まれた地の利に安住せず、各醸造家の秘伝の技と知恵を結集し、その技術力と団結によって、より高品質で安定したしょうゆの供給をめざしました。設立当時は200以上あったしょうゆの商標も、1940年までに「キッコーマン」に統一され、現在に至るまで、六角形に「萬」の字のマークは「キッコーマン」ブランドのおいしさと品質の象徴として受け継がれています。
![](/jp/img/corporate_img_history_01.jpg)
妥協なき品質の追求
日本の伝統調味料として、食卓にすっかりとけ込んでいるしょうゆ。だからこそ、キッコーマンは、その品質を大切に守り続け、一方で、さらなる品質の向上にも努めてきました。
第二次世界大戦とその混乱期には、著しい食糧難から、従来の高品質な本醸造しょうゆをつくることが困難になりました。そうした中でも、変わらぬ品質へのこだわりをもち続けたキッコーマンは、国内の需要をまかなえる新しい技術を開発し、日本の食文化の伝統である本醸造しょうゆを守り抜いたのです。日本が豊かになり、しょうゆ市場も成熟しつつあった1980年代後半、市場を活性化すべく、キッコーマンは新たなしょうゆの開発に乗り出します。
めざしたのは、「特選しょうゆの品質を超えるしょうゆ」でした。そこで、原料に丸のままの大豆を使う伝統的な醸造方法が採用されたのですが、大量生産がむずかしく、高コストという課題がありました。しょうゆのトップメーカーとしてキッコーマンは、品質がよいのはもちろんのこと、多くの方に納得いただける適正な価格でなければならないという考えのもと、高品質と生産性の両立をめざして、何度も技術改良を重ねました。そして1990年、より深みのある味わいがリーズナブルな価格でお求めいただける『特選丸大豆しょうゆ』が発売されました。家庭用しょうゆに新たな定番を送り出したのです。・・・
(この項、「」HPより)
もう一社忘れてはならないのは、「キノエネ醤油」。
時代を遡ること、190年。キノエネの歴史は、天保の時代の幕明けとともにはじまりました。以来、一世紀半の歩み。社会の変動、環境の変化、予期せぬ天災、幾多の障害を乗り越え、一筋に貫いてきたことはしょうゆづくりにかける一途な情熱と信念、そして努力。現在も変わらず守り続けるその姿勢。育て、守り続けているところに伝統の心があるのです。
’この項、「キノエネ醤油株式会社」HPより)
こうして、銚子、野田と醤油醸造の二大拠点を訪れました。
あと2回で栗橋(上流編で歩き始めたところ)に着けそうです。