遠くに筑波山が頭だけのぞかせています。
我孫子市方向。
この付近の今昔。
1880年代のようす。一帯は湿地・沼地でした。
2010年代のようす。整然とした田畑。
上部に「田中調整池越流堤」。
前方左手に「新大利根橋」が見えてきます。
砂利道に。
利根川が河川敷の向こうに。
ハウス栽培。
前方左が柏市方向。
ラジコン飛行機を飛ばす準備。
「海から89㎞」。
足もとの土手には菜の花がさきはじめています。この先、斜面には菜の花(もしかしたら「セイヨウカラシナ」? )が群生しています。本格的な開花にはまだ先のようですが。
満開には見事な菜の花の群生に。
菜の花を見ようと、少年達の歓声が聞こえる河川敷の野球場の手前で土手を下ります。
前方に「新大利根橋」。
荒川を遡る。熊谷桜堤は、ちょうど菜の花とサクラの共演のときでした。
4月3日(土)。
今回はどの付近の歩きで見ることが出来るか?
ハウスが並んでいます。
この付近は水没しない? と思っていましたが、この付近も「田中調節池」の一部のようで、台風・豪雨の時には冠水してしまう場所です。
新大利根橋。
橋のたもとに。
七里ヶ渡跡
七里ヶ渡は、布施と戸頭(取手市)との間に設けられていました。
江戸幕府は元和2年(1616)8月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。当時の渡船地点は明治13年作成の迅速測図、昭和31年頃の写真や当時の利用者の話等からこのあたりであったと推測されます。
幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかたこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝としてこの七里ヶ渡は栄え、布施村には5軒の旅籠があって宿場町的な繁栄も見られました。また水戸街道の脇往還としての役割も果たしていたことから往来が多かったようです。
七里ヶ渡には布施河岸が併設されていました。当時、東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり、関宿を迂回して江戸に向かうのが常でした。それが上流に洲ができて船の往来が困難になったため、布施河岸で荷を下ろし、陸路で江戸川の加村河岸(流山市)へ運ぶようになりました。
明治23年に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、利根運河を通じて江戸川に出るようになり、布施河岸の役目は終わりましたが、七里ヶ渡は昭和30年頃まで続けられました。
利根川上流河川事務所
・・・今、このあたりは広々とした田園風景に包まれていますが、その昔は七里ヶ渡しといって、とてもにぎわったと渡船場でした。
なにしろ、ここ布施には、関東三弁天のひとつといわれる有名な弁天様がまつられているのですから、近郷近在はもちろんのこと、遠く関宿や江戸の方からまでも、信者が参詣に集まってくるのでした。
「お客さん、目が悪いようだが、弁天参りかね。」
「ああ、ここの弁天さんはご利益があると聞いたもんでね。」
「福をさずけてくださるだけでなく、目の病気もなおしてくださるんか。」
「ありがたい。ありがたい。」
今日は丑の日、丑の越し番(補足)の船頭と、船に乗るお客たちが、お茶を飲んだり、たばこをすったりしながら、いろいろ世間話をして船の出るのを待っていました。
「船が出るよう。」
船頭の呼び声に外に出てみますと、回船問屋の若い衆たちが、威勢よく船荷を陸揚げしています。七里ヶ渡しは、こんな場所でしたので、回船問屋や宿が十数軒ありました。また、旅人や、若い衆相手の茶店も軒を並べ、それは栄えたものでした。
しかし、のどかで平和な日々だけが続いたわけではありません。
秋の長雨の季節になりました。今日も雨がふり続いています。
「よくふるなあ。そろそろやんでくれねえと、大変なことになるぞ。」
「今日でもう三日もふってるもんな。白馬がこなければいいが。」
村人は、利根川の増水を心配して、見回りに出かけました。このあたりは、今までに何度も何度も、この白馬におそわれています。
上流から濁流が二メートル余の高さで押し寄せるその荒れ狂う波のようすはあたかも白い暴れ馬がおそって来るようだったので、村人は『白馬が来るぞっ』といって、恐れおののいたのです。今では、広さ11.8平方キロメートルもの田中遊水地で守られていますが、このようなもののまったくなかったその昔は、どんなにおそろしかったことでしょう。
(補足)
丑の越し番 子・丑・寅・・・の十二支に合わせ、十二軒の家がそれぞれの日を受けもって、その日の越し番をしました。
(この項、「柏市」HPより)
1880年代のようす。「七里ヶ渡」とある。
2010年代のようす。
南にある自然堤防(利根川の氾濫原)の先まで橋脚が続く。
対岸を望む。
河川敷の舗装道路は管理用道路で立入禁止となっています。