おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その6。上平井橋。外谷汐入庭園。平和橋・本奥戸橋・奥戸橋。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-06-01 20:44:28 | 中川を遡る

             いよいよ現中川を遡ることに。

中川に架かる上平井橋。

        頭上は首都高環状線「かつしかハープ橋」。荒川の対岸に旧中川。

上平井水門。

中川が荒川放水路によって分断される前、この付近には渡船場がありました。

1880年代のようす。↓が渡船場。    

2010年代のようす。上が上平井橋。

  左に見えるのが綾瀬川。隅田川に流れていた綾瀬川も分断されています。

「外谷汐入庭園」(上平井橋の右手)。ここは、訪問したことがあります。

中川の流れを引き入れて潮の満ち干に合わせる趣向を凝らした庭園。昭和の初めにできた、中川の左岸・上平井橋付近にあるあまり目立たない庭園。しかし、木立に囲まれ、池も緑もよく整えられています。

庭石などは自然石を用いている。

           中川からの引き込み口跡。

  

・・・

葛飾区に入っても、旧中川と同じように曲がりくねっています。

                     1880年代のようす。曲がり方が並ではない。

                     2010年代のようす。右の川は、「新中川」。 

今でも蛇行している「中川」は、かつては流路が幅広く、氾濫原や入り込む流水もありました。環七「青砥橋」の手前のようす。

赤く囲ったところ。黄色い線は「環七」。(「今昔マップ」より加工)
そこを埋め立てて整地して葛飾区運動施設がつくられています。かつての中川に流れ込んでいた水路跡がその周辺道路として残っています。 

    

土手と地面との落差が大きい。住宅は眼下に。洪水に見舞われたらオオゴト。護岸工事が進められています。

かつては、台風などの度に浸水被害が出ていました。

次の橋が「平和橋」。

初代の橋は終戦間もない1947年 (昭和22年) 6月開通、橋長144.2 m、幅員6 mの仮設木製であった

架橋からわずか3カ月後の1947年 (昭和22年) 9月14日から15日にかけて関東地方カスリーン台風 の通過に伴う豪雨に見舞われた。その後、天候は回復しても中川の水位は上昇し続け9月19日には葛飾区長による避難命令が下される状況になり 最終的に橋の本田川端町側(現在の東立石、東四つ木)、約二分の一が落下した。 このとき平和橋同様に上流の奥戸橋、下流の上平井橋という木橋がともに落下しているが、これらの橋がしばらく手つかずの状態にある中、平和橋だけは10月中には復旧工事に取りかかっており、1947年 (昭和22年) 12月30日に復旧している
1957年、仮設橋から永久橋への架け替えが決定し、1960年 (昭和35年) 5月、竣工した。(「Wikipedia」参照)

平和橋付近は、流れに沿ってテラスが整備され、遊歩道になっています。

            

中川は、かつては綾瀬川と並んで、川の汚染度が高いことで全国に悪名を馳せていましたが、かなり改善されてきているようです。

魚なども戻ってきている、とか。もう少し上流に行くと、釣りを楽しむ人がけっこういます。

遠くにスカイツリー。出発点からずいぶん歩いてきました。

東立石緑地公園。

工場の跡地を整備して大きな公園にしたもの。緑も多く、芝生広場や長い滑り台などがあります。

そこで、小休止。

「本奥戸橋」。

江戸時代から明治時代にかけて現在の本奥戸橋西詰は江戸市中の人々が柴又帝釈天への参詣路として利用していたことで、人々の往来があり1755年宝暦5年)に道しるべが建てられている 。また付近には「奥戸の渡し」と呼ばれる中川の渡船場があった名称は、その上流に1914年(大正3年)4月に架橋された「奥戸橋」が既に存在したため、これに対して名付けられたという

1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風によって、上流の奥戸橋や下流の平和橋上平井橋といった木橋が中川の増水によって相次いで破損、流出する中、本奥戸橋は鋼橋ということもあり大きな被害を免れたとみられる。その後、本奥戸橋の周辺は花火大会寒中水泳大会など地域のイベントの場としてしばらくの間利用されていた。

1988年(昭和63年)、現在の橋に架け替えられた。 (「Wikipedia」参照)
 
 
橋のたもとにある地蔵尊と道標。
 
          道標には、「右江戸みち、左おくとみち、まかりかね道 渡し場道」と刻まれている。
 
※「まかりかね(曲金)」は、現在の高砂の旧地名。中川の曲がりくねったところを示している。
 
護岸工事用の監視船。 
 
昔ながらの家。  
 
「奥戸橋」。 
 

奥戸橋付近は下総国府に続く古代東海道の推定路にあたり、同時に江戸時代以降の"立石道"のルート上に位置していたため、古くより人々の往来があったと考えられる。一方、中川のうち奥戸橋の架かる付近は享保年間に新たに開削された部分である。そしてこの箇所には「奥戸新田の渡し」または「新渡」と呼ばれる渡船が明治時代に存在した

東京府南葛飾郡奥戸村は東京都心方面である西方の村境が中川になっていた。そしてこの中川を渡る手段は5箇所の渡船曲金の渡し、諏訪野の渡し、奥戸新田の渡し奥戸の渡し上平井の渡し)しかなく 不便だったため、1912年 (大正元年) 10月、奥戸村大字奥戸新田の石井源治ほか19人によって私設による橋梁架設の出願が行われ、翌1913年 (大正2年) 6月、竣工日より15年間は所定の賃料を徴収する賃取橋として認可された。架設は当時の奥戸村長 関根保太郎を理事長とする「奥戸村中川架橋協会」によって7月より開始され、翌1914年 (大正3年) 3月竣工、4月1日に開通した。橋は木造で長さ77間、幅2間半(長さ140 m、幅4.5 m)であり、経費15,500円のうち、2,800円は影響を受ける渡船への損害賠償に充てられたという。私設の賃取橋だった奥戸橋はその後、東京府によって買収、管理されることになった。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

「歴史的農業環境閲覧システム」によると、1880年代には「本奥戸橋」、「奥戸橋」付近では3ヶ所の渡し場が記されている。

                                     1880年代のようす。

前方に「環七・青砥橋」が見えてきたところで、今回は終了。

振り返る。

                         
コメント
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