池のほとりにネムノキが2本。
夜になると葉が合わさって閉じて(「就眠運動」)眠るように見えることに由来。漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられた。小枝の先に、淡紅色の花が10 - 20個集まって皿状などに広がり、多数密生する(「頭状花序」。
普通は、夕方に開き、翌日にはしぼむ花ですが、ここでは昼間も咲いています。
かつて、家の小さな庭に植えてありましたので、懐かしく、まずお目当てに。相変わらず素敵な花です。
京成押上線「曳舟駅」近くにある墨田区の「曳舟図書館」に行ったついでに、「向島百花園」に立ち寄ってみました。
しばらく来ないうちに、いろいろな花が咲き乱れています。
門前の梅の実が鈴なり。
さて、入り口には、
「寺島なす」の鉢植え。葉の陰に小ぶりのナス。
かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688〜1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村であったが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。
享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」として、江戸近郊の名産であることが記され、また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」とナスの産地だったことを示しています。
農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ッ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。
(「」HPより)
江戸東京・伝統野菜研究会の大竹道茂氏により地元の白鬚神社に説明板が設置され、地域に知られるようになった「寺島なす」は、創立130周年を迎える第一寺島小学校(一寺小)の創立記念事業として、郷土愛に燃える卒業生の皆さんの熱い思いとともに、復活の話は地元に広がっていきました。そして、寺島ナスの生産者である三鷹市の星野氏の指導協力も得て、校内での栽培がはじまりました。校舎裏の子ども広場では、1年生と地域のお年寄りが一緒に水やりをするなど微笑ましい交流も生まれ、収穫したナスは給食でも食べられました。学校長は「子供たちによるナスの栽培の復活は、郷土の歴史を学び、学年に応じた観察や栽培体験ができる初めての試みです。」と話しています。
・・・「江戸ナス」とも呼ばれる古い品種の"蔓細千成(つるぼそせんなり)"が江戸東部・寺島地区で盛んに生産されていたことから、「寺島なす」と呼ばれるようになりました。鶏卵くらいの大きさのものが美味しいとされ、なす特有の香りが強く、光沢のある黒紫色した実が特徴です。
(「」HPより)
他にも、「うつぼぐさ」。
円筒形の花穂の形、もしくは花穂につく小花の形が、弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ていることに由来する。
「はなしのぶ」。
日本固有種。 環境省のレッドデータリスト(2007)では、「ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種」である絶滅危惧ⅠA類(CR)に登録されている。 和名は葉の形をシダ植物の忍(シノブ)にたとえたものである。
「せんじゅがんび(千手岩菲)」。
は、ナデシコ科センノウ属の多年草。 本州(東北~中部地方以北)の山地~亜高山帯の林縁や森林に生える。高さ30~100cm。花期は7~8月、花は白色で直径2cmほど、花弁の縁がギザギザになっている。名前は、日光の千手ヶ浜で発見された中国原産の岩菲(センノウのこと)に似た花から付けられた、といわれている。(「Wikipdeia」より)
園内にも「ナデシコ」の花が。「かわらなでしこ」。
秋の七草の一つ。カワラナデシコには、ナデシコ、ヤマトナデシコの異名もある。これはセキチク (D. chinensis L.) を古くは唐撫子(カラナデシコ)といったことに対する。ナデシコは古くは「常夏(とこなつ)」ともいった。これは花期が夏から秋に渡ることにちなむ。
※「常夏」といえば、『源氏物語』第26帖の巻名。
光源氏:太政大臣、36歳のとき。玉鬘(22歳)との歌の応答。
撫子の とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人や尋ねむ
山賤の 垣ほに生ひし 撫子の もとの根ざしを 誰れか尋ねむ
「ハギのトンネル」に、これも「秋の七草」の一つ、咲き始めたハギ。
園内のハギも。
そして、園内の梅の実は?
ザクロの花も満開。
花菖蒲やヤマユリも見頃でした。カルガモが二羽、池で泳いでいました。
四季を通じて楽しめる「向島百花園」です。