橋を渡り、左岸を歩くことにします。
右手に、
「うなぎ割烹 髙橋屋」。
私共は、川のほとりで、室町三井家の流れを汲んでおります。
かつて多くの旅籠で賑わった宿場町「杉戸宿」。その川沿いで明治より続く、百五十年の歴史を持つのが当店「うなぎ割烹・髙橋屋」です。
古き良き荘厳な佇まいの暖簾をくぐると、庭園を含めた五百坪の広大な敷地がお出迎えいたします。各界の著名人も足繁く通う、髙橋屋ならではの絶品のお料理とおもてなしをご堪能ください。
(「髙橋屋」HPより)
八九間 空で雨ふる 柳哉 はせ越(松尾芭蕉)
※季語は柳で春。
元禄7年春。51歳。『続猿蓑』中の句。8、9間の柳には春雨が降っている。
※8、9間は柳の高さなのか、幅なのか? 1間は約1.8㍍。
春雨は、降ったり止んだり、しっとりと降る雨で、「来ぬか雨」(小糠雨)とも。
「河原橋」。
左岸の東側は旧「杉戸宿」。
杉戸宿
現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。
宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、杉戸宿の距離1里21町、町並8町20間、道幅5間、人数1663人(男789人、女874人)、家数365人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒(大4・中7)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的よく残り、旧宿場街の面影を感じさせる。(以上、「Wikipedia」より)
1880年代のようす。日光道中に沿っての街並み。
現在のようす。道筋は変わらない。
日光道中歩きの時の写真を紹介。
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宿場の出口・入口にある曲尺手(桝形)に、
角穀跡/小島定右衛門邸
宿場の特徴のひとつでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。
かつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続きさらなる他の蔵三つが連なっていました。敷地を囲む外壁にも収納空間があったといいます。屋内では大木を使った梁や柱が木材の美しさを際立たせています。また、母屋二階から見晴らす街道のほぼ全景には、ここからでしか味わえない爽快さが感じられます。
創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡型の通りの「角」にある「米穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。
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東武日光線鉄橋。
特急スペーシアが通過中。
「南側用水の碑」。
戦後使われていた、巨大なポンプが産業遺跡として設置されている。
「杉戸宿」の時、用水路跡が遊歩道になっていました。その解説板に、
杉戸町を9.5kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係りながら、身近な水辺として親しまれてきたという。
だが、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに亘る用水路としての役割を終えた。