おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その4。「泉沢寺と門前市」・世田谷ボロ市。井田堀。武蔵中原駅。川崎市高津区。巌川(いわがわ)橋。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-28 20:46:04 | 中原街道

「泉沢寺と門前市」。  

室町末期、世田谷からここに泉沢寺を移した吉良氏は税を免除して居住を促し、また門前市を開き、この地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。

※世田谷ボロ市

毎年1月15・16日、12月15・16日の4日間、世田谷駅と上町駅の間で開催されている「世田谷ボロ市」。開催日には約20万人以上が訪れるという、東京を代表する伝統のイベント 。

ボロ市の始まりは、遠く安土桃山時代まで遡ります。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政は、天正6年(1578年)世田谷新宿に楽市を開きました。楽市とは市場税を一切免除して自由な行商販売を認められた市です。当時は毎月一の日と六の日に6回開いていたので、六斎市(ろくさいいち)とも呼ばれていました。その後、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城が廃止されると、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い急速に衰えていきました。六斎市は自然消滅して姿を変え、何時のころからか年に1回、年の暮れに開かれる歳の市(市町)になっていきました。明治の世になって新暦が使われてから正月15日に開かれ、やがて12月15日・16日の両日、正月にも15日・16日の両日開かれるようになり現在に至ってます。

戦国時代に楽市として世田谷新宿に開かれた市は、徳川時代になって市町(いちまち)という名のもとに歳の市として開かれていましたが、明治20年代になって古着やボロ布の扱いが主流となっていき、いつしか農機具や正月用品が主だった「歳の市」は、その実態に合わせて「ボロ市」と呼ばれるようになりました。正式な名称となったのは第二次世界大戦後からですが、既に明治の終わり頃には世田谷の「ボロ市」が定着していました。

東京都世田谷区世田谷1丁目「ボロ市通り」とその周辺 「世田谷線」世田谷駅・上町駅、徒歩3分

(この項、「世田谷区」HPより)

「街道と地蔵尊」。

中原街道沿いに多く残る石仏、石碑は、特に細道や用水支流との交差点に目立つ。ここは、井田堀と交わるところ。この地蔵尊は歳の市や地元の祭の拠り所として大切な存在であった。

かつて、横には二ヶ領用水が流れており、「井田堀」として親しまれていたという。建立の目的は、「用水に落ちて亡くなった子の供養のため」「街道で行き倒れた旅人のため」など様々な言い伝えが残っている。付近にもいくつかの石像が残っている。

路上には、「井田堀」の絵柄。

JR南武線「武蔵中原駅」。左に行くと、「等々力緑地」。

先に進みます。 バス停「中原」。

「中原街道」の「中原」はここの地名には由来しません。

中原街道もしくは橘樹郡中原町の名称から採っている。既に省線長崎本線中原駅(なかばる-)が存在するため、省線と連絡運輸を行う南武鉄道側が配慮して、旧国名である「武蔵」を冠称した。なお、中原町の前身である中原村が成立する前には、駅周辺に「中原」と言う地名は存在しなかった。

広い農地が残っている。

ここから「川崎市高津区」。

この手前は、「中原区」。

「巌川(いわがわ)橋」。

「江川せせらぎ遊歩道」。

元二ヶ領用水支川である江川を整備して作られた遊歩道。 巌川橋近くは桜並木になっていて、桜の時期は楽しませてくれる。


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