(12:20)相変わらずアップダウンが続きますが、車はぐっと少なくなります。この辺も台風被害あり。
住宅地に入っていきます。
道路上にトタン屋根などが。屋根瓦も壊れています。
(12:34)広大な北総台地。農作物の被害も多いようです。
やがて前方に斜度14%という表示のある急坂が見えてきます。「馬渡しの険」と呼ばれたところで、一気に下って、一気に上る。
(12:37)その坂の途中に「上砂(かみいさご)の一里塚跡」碑。
八街市指定文化財(史跡)御成街道の一里塚
この塚は、慶長18年(1613)に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた御成街道の一里塚である。
一里塚とは、街道沿いに一里ごとに設けられた里程標で、江戸時代には徳川幕府による街道整備政策の一環として全国の主要街道に設置された。塚上には松や榎が植えられ、寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった。
船橋から東金にいたる御成街道には8カ所の一里塚があったとされるが、現存するものは、ここ上砂と千葉市千城台東、富田町の3カ所のみである。
これらの一里塚は、まっすぐに街道を結ぶための目印として築かれたと考えられており、それぞれの塚の距離は約4.7kmである。
江戸時代初期に築かれ、ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されているこの一里塚は、江戸時代の交通文化や、徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財である。
※この一里塚は、土地所有者が長い間守り続けてきな貴重な文化財です。塚に登ると土が崩れてしまいますので、絶対に登らないでください。
来た道を振り返る。
何回も上り下りを繰り返す街道。
こうして広大な田園地帯へ。
この辺りは、太郎坊(たらんぼう)という地名。
天正十年(1582)東金城主酒井小太郎定隆・土気城主酒井胤治父子が椎崎(しいなざき)(山武郡山武町)城主椎崎三郎と争った小間子(おまご)・吉田の原の戦い跡で、勝者の酒井小太郎定隆の小太郎の名を取り、「太郎防」のち「太郎坊」となったといいます。
(12:54)途中の民家の脇に「御成街道」の解説板。
「御成街道」
御成街道は、慶長18年(1613年)、徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、近隣九十数ケ村の農民を動員し、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜を問わず突貫工事で一晩のうちに、または三日三晩で完成したという伝承があり、別名「一夜街道」や「提灯街道」、また家康にちなんで「権現道」などとも呼ばれている。
この街道は、将軍の鷹狩りのために使用され、家康、秀忠、家光の三代将軍が鷹狩りに興じた記録がある。しかし、単に鷹狩りのための道ではなく、軍事等の政策上の意図があったとも言われている。
街道は船橋-東金間約40kmをほぼ一直線に結んでいたが、今では大部分が拡幅舗装や耕地整理等により姿を変えたり消滅してしまい、旧街道の面影を残す場所は八街市沖地区(一部市指定史跡)と東金市滝地区の山林の中のみとなってしまった。
なお、ここから西へ約1kmの場所に「一里塚」が残り、東へ約500mの場所に鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」がある。
(「今昔マップ」より)
直線が「御成街道」。○のところに解説板あり。旧道の上が新道としての「東金街道」。
(13:00)しばらく進むと、鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」。
周囲を森に囲まれた静かな趣。
この付近一帯は、南北に連なる低湿地帯で、田んぼや沼地が続いていたようです。現在のように池として整備されたのは、近年のこと?
1880年代のようす。旧道は破線の道で少し曲がっています。池の表示はありません。「今昔マップ」には地名として「ビンダライ」とあります。
2010年代のようす。池の形から谷津(谷戸)の一部を形成しているようです。街道の北側にも池があった? 街道も直線化されています。
住宅地に入っていきます。
道路上にトタン屋根などが。屋根瓦も壊れています。
(12:34)広大な北総台地。農作物の被害も多いようです。
やがて前方に斜度14%という表示のある急坂が見えてきます。「馬渡しの険」と呼ばれたところで、一気に下って、一気に上る。
(12:37)その坂の途中に「上砂(かみいさご)の一里塚跡」碑。
八街市指定文化財(史跡)御成街道の一里塚
この塚は、慶長18年(1613)に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた御成街道の一里塚である。
一里塚とは、街道沿いに一里ごとに設けられた里程標で、江戸時代には徳川幕府による街道整備政策の一環として全国の主要街道に設置された。塚上には松や榎が植えられ、寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった。
船橋から東金にいたる御成街道には8カ所の一里塚があったとされるが、現存するものは、ここ上砂と千葉市千城台東、富田町の3カ所のみである。
これらの一里塚は、まっすぐに街道を結ぶための目印として築かれたと考えられており、それぞれの塚の距離は約4.7kmである。
江戸時代初期に築かれ、ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されているこの一里塚は、江戸時代の交通文化や、徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財である。
※この一里塚は、土地所有者が長い間守り続けてきな貴重な文化財です。塚に登ると土が崩れてしまいますので、絶対に登らないでください。
来た道を振り返る。
何回も上り下りを繰り返す街道。
こうして広大な田園地帯へ。
この辺りは、太郎坊(たらんぼう)という地名。
天正十年(1582)東金城主酒井小太郎定隆・土気城主酒井胤治父子が椎崎(しいなざき)(山武郡山武町)城主椎崎三郎と争った小間子(おまご)・吉田の原の戦い跡で、勝者の酒井小太郎定隆の小太郎の名を取り、「太郎防」のち「太郎坊」となったといいます。
(12:54)途中の民家の脇に「御成街道」の解説板。
「御成街道」
御成街道は、慶長18年(1613年)、徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、近隣九十数ケ村の農民を動員し、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜を問わず突貫工事で一晩のうちに、または三日三晩で完成したという伝承があり、別名「一夜街道」や「提灯街道」、また家康にちなんで「権現道」などとも呼ばれている。
この街道は、将軍の鷹狩りのために使用され、家康、秀忠、家光の三代将軍が鷹狩りに興じた記録がある。しかし、単に鷹狩りのための道ではなく、軍事等の政策上の意図があったとも言われている。
街道は船橋-東金間約40kmをほぼ一直線に結んでいたが、今では大部分が拡幅舗装や耕地整理等により姿を変えたり消滅してしまい、旧街道の面影を残す場所は八街市沖地区(一部市指定史跡)と東金市滝地区の山林の中のみとなってしまった。
なお、ここから西へ約1kmの場所に「一里塚」が残り、東へ約500mの場所に鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」がある。
(「今昔マップ」より)
直線が「御成街道」。○のところに解説板あり。旧道の上が新道としての「東金街道」。
(13:00)しばらく進むと、鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」。
周囲を森に囲まれた静かな趣。
この付近一帯は、南北に連なる低湿地帯で、田んぼや沼地が続いていたようです。現在のように池として整備されたのは、近年のこと?
1880年代のようす。旧道は破線の道で少し曲がっています。池の表示はありません。「今昔マップ」には地名として「ビンダライ」とあります。
2010年代のようす。池の形から谷津(谷戸)の一部を形成しているようです。街道の北側にも池があった? 街道も直線化されています。
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