隅田川以東の掘り割りには、どこも材木が浮かんでいた。昭和30年代のことである。
gooの航空写真。1947(昭和22)年では、戦災の爪痕も生々しく、大きな建物はほとんどなく、空き地の状態。運河も木材一つ浮かんでいない。
ところが、1963(昭和38)年の航空写真を見ると、縦横に走る川には、木材がぎっしり浮かんでいる。戦後の復興期を象徴するかのよう。
建設ラッシュが、もうすでに始まっていた。全国から材木が集められ、大横川、北十間川、横十間川、竪川・・・、どこの運河にもたくさんの材木が係留されている。その集積地・貯木場が「木場」。現在、木場公園となっている所は、かなり大きな貯木場。材木屋さんも沿岸に軒を並べていた。写真を見ても、びっしり材木が浮かんでいる。
錦糸町駅の北側にも、大きな貯木場があった。また、運河を利用して運ばれた貯木場が他にも。そのうちの一つが、今の猿江恩賜公園にあたる地域。横十間川を利用して運ばれてきた材木の集積場。
ここの歴史は古く、1733年、江戸幕府公認の貯木場として開かれた。
その後、明治政府御用達の貯木場になり、1932(昭和7)年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念して、猿江貯木場の一部を東京市に下賜(現在の南園部分)され、「猿江恩賜公園」として開園した。昔から貴重な緑地として周辺住民には知られていた。
公園の北側の地区は、その後も貯木場として使用されていたが、1972(昭和47)年に廃止され、江東区潮見に移転(新木場)、約250年にわたった猿江貯木場の歴史を閉じた。
その後、東京都が買収して、1981(昭和56)年に追加開園された。
かつての木場のように、水面のある環境を残すために、造った「ミニ木蔵」が公園の南側、新大橋通りと横十間川との間にある。
池の周囲の護岸として使われている石は、材木を長い間貯蔵するときの重しとして使われていたものとのこと。
写真は、その「ミニ木蔵」の一部。これでは、当時の、貯木場の面影を偲ぶことはできないだろうが。
1970年代のようす。まだ木場の機能を有しています。 2010年代のようす。すっかり様変わり。
gooの航空写真。1947(昭和22)年では、戦災の爪痕も生々しく、大きな建物はほとんどなく、空き地の状態。運河も木材一つ浮かんでいない。
ところが、1963(昭和38)年の航空写真を見ると、縦横に走る川には、木材がぎっしり浮かんでいる。戦後の復興期を象徴するかのよう。
建設ラッシュが、もうすでに始まっていた。全国から材木が集められ、大横川、北十間川、横十間川、竪川・・・、どこの運河にもたくさんの材木が係留されている。その集積地・貯木場が「木場」。現在、木場公園となっている所は、かなり大きな貯木場。材木屋さんも沿岸に軒を並べていた。写真を見ても、びっしり材木が浮かんでいる。
錦糸町駅の北側にも、大きな貯木場があった。また、運河を利用して運ばれた貯木場が他にも。そのうちの一つが、今の猿江恩賜公園にあたる地域。横十間川を利用して運ばれてきた材木の集積場。
ここの歴史は古く、1733年、江戸幕府公認の貯木場として開かれた。
その後、明治政府御用達の貯木場になり、1932(昭和7)年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念して、猿江貯木場の一部を東京市に下賜(現在の南園部分)され、「猿江恩賜公園」として開園した。昔から貴重な緑地として周辺住民には知られていた。
公園の北側の地区は、その後も貯木場として使用されていたが、1972(昭和47)年に廃止され、江東区潮見に移転(新木場)、約250年にわたった猿江貯木場の歴史を閉じた。
その後、東京都が買収して、1981(昭和56)年に追加開園された。
かつての木場のように、水面のある環境を残すために、造った「ミニ木蔵」が公園の南側、新大橋通りと横十間川との間にある。
池の周囲の護岸として使われている石は、材木を長い間貯蔵するときの重しとして使われていたものとのこと。
写真は、その「ミニ木蔵」の一部。これでは、当時の、貯木場の面影を偲ぶことはできないだろうが。
1970年代のようす。まだ木場の機能を有しています。 2010年代のようす。すっかり様変わり。
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