墨田区・向島界隈にもまだ見かける銭湯。
東京都内の銭湯は、昭和12年には約2,900軒(銭湯組合の組合員名簿による)の銭湯が営業していましたが、昭和20年の東京大空襲により、約400軒に激減したようですが、その後復活、それも、昭和43年の2,687軒をピークに、平成20年4月時点では約900軒の公衆浴場が営業しているだけになっています。墨田区でも、今は30軒余りが営業、最盛期の三分の一だそうです。
自然に銭湯といっていますが、ものの本によれば、明治以前には江戸では「銭湯」「湯屋(ゆうや)」と呼び、上方では「風呂屋」と呼ぶのが一般的であったそうです。
また江戸時代には、内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていました。江戸末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったものの、本格的な内風呂の普及はずっと時代が下って、第二次世界大戦以降の高度成長期からになります。我が家でも、前の家には風呂がなく、今もやっている銭湯に行っていました。
銭湯・公衆浴場の歴史の中でも、明治に入ると、外国への配慮から混浴は禁止されますが、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めました。特に戦後、本格的に都市人口が増大すると至るところで銭湯が建築された。さらに、平成に入ってからは「スーパー銭湯」と呼ばれる入浴施設が次々と開業し、もともとの銭湯への利用客が減ってきています。
「銭湯」と聞くと、昔から富士山の壁絵を思い浮かべます。今の銭湯はどうなのでしょうか。
富士山のペンキ絵は、東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥といわれ、大正元年(1912年)に「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始めで、これが評判となり、これに倣う銭湯が東京や東日本を中心に続出しました。
また、入口に「唐破風」「破風」が正面にある「宮型」造りという建築様式の都心での発祥は、東京墨田区東向島の「カブキ湯」に始まるということです。
神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに、合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っているとのこと。
そこには一般の建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「日光東照宮参り」 など、日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えて娯楽であったことも影響して、平凡な日常を送る庶民にとって、宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能したといえそうです。
こうした宮型造りの銭湯は、昭和40年代頃まで関東近郊で盛んに建てられましたが、自宅に作る内風呂が普及し、またビルに建て替えられる銭湯も多くなって数少なくなってきています。しかし近年の懐古趣味であるちょっとしたレトロブームに乗って、中には新築で宮型造りの銭湯が建てられる銭湯もでてきたようです。
写真は、「曳舟湯」。二つの通りにはさまれた、ちょっと窮屈そうな建物ですが、レトロな味わいのあるお風呂屋さんです。
この記事は、4年前の投稿記事。今朝の朝日新聞で、このお風呂屋さんが戦前からの長い歴史を閉じて、廃業するとのこと。この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。時代の流れでしょうか。
それでも、この界隈、ちょっと横町に入ったところにも、まだまだ頑張っている銭湯があります。
「曳舟湯」付近から見たスカイツリー。
京成線・東武線をはさんで曳舟湯と反対側にある「飛木稲荷神社」(東京大空襲の生々しい被災を今に伝える大銀杏がある)からのスカイツリー。
曳舟川通りと明治通りとの交差点近くにある銭湯「おかめ湯」。
東京都内の銭湯は、昭和12年には約2,900軒(銭湯組合の組合員名簿による)の銭湯が営業していましたが、昭和20年の東京大空襲により、約400軒に激減したようですが、その後復活、それも、昭和43年の2,687軒をピークに、平成20年4月時点では約900軒の公衆浴場が営業しているだけになっています。墨田区でも、今は30軒余りが営業、最盛期の三分の一だそうです。
自然に銭湯といっていますが、ものの本によれば、明治以前には江戸では「銭湯」「湯屋(ゆうや)」と呼び、上方では「風呂屋」と呼ぶのが一般的であったそうです。
また江戸時代には、内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていました。江戸末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったものの、本格的な内風呂の普及はずっと時代が下って、第二次世界大戦以降の高度成長期からになります。我が家でも、前の家には風呂がなく、今もやっている銭湯に行っていました。
銭湯・公衆浴場の歴史の中でも、明治に入ると、外国への配慮から混浴は禁止されますが、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めました。特に戦後、本格的に都市人口が増大すると至るところで銭湯が建築された。さらに、平成に入ってからは「スーパー銭湯」と呼ばれる入浴施設が次々と開業し、もともとの銭湯への利用客が減ってきています。
「銭湯」と聞くと、昔から富士山の壁絵を思い浮かべます。今の銭湯はどうなのでしょうか。
富士山のペンキ絵は、東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥といわれ、大正元年(1912年)に「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始めで、これが評判となり、これに倣う銭湯が東京や東日本を中心に続出しました。
また、入口に「唐破風」「破風」が正面にある「宮型」造りという建築様式の都心での発祥は、東京墨田区東向島の「カブキ湯」に始まるということです。
神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに、合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っているとのこと。
そこには一般の建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「日光東照宮参り」 など、日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えて娯楽であったことも影響して、平凡な日常を送る庶民にとって、宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能したといえそうです。
こうした宮型造りの銭湯は、昭和40年代頃まで関東近郊で盛んに建てられましたが、自宅に作る内風呂が普及し、またビルに建て替えられる銭湯も多くなって数少なくなってきています。しかし近年の懐古趣味であるちょっとしたレトロブームに乗って、中には新築で宮型造りの銭湯が建てられる銭湯もでてきたようです。
写真は、「曳舟湯」。二つの通りにはさまれた、ちょっと窮屈そうな建物ですが、レトロな味わいのあるお風呂屋さんです。
この記事は、4年前の投稿記事。今朝の朝日新聞で、このお風呂屋さんが戦前からの長い歴史を閉じて、廃業するとのこと。この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。時代の流れでしょうか。
それでも、この界隈、ちょっと横町に入ったところにも、まだまだ頑張っている銭湯があります。
「曳舟湯」付近から見たスカイツリー。
京成線・東武線をはさんで曳舟湯と反対側にある「飛木稲荷神社」(東京大空襲の生々しい被災を今に伝える大銀杏がある)からのスカイツリー。
曳舟川通りと明治通りとの交差点近くにある銭湯「おかめ湯」。
小さい頃、向島2丁目にあったお風呂屋さんがカブキ湯といいました。漢字は歌舞伎かは今は覚えてません。