おやじのつぶやき

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読書「眼の隠喩」(多木浩二)ちくま学芸文庫

2013-01-23 22:41:48 | 読書無限
 最近、文庫本にはまっています。手軽に読めるのがよい。特に以前発刊された学術書などが文庫本になって再登場、というのが、魅力。当時、気になっていて読み損ねたものを読む。
 この書も10年以上も前のもの(初版は、すでに30年以上も前)を5年前に文庫本化した、とのこと。今もその視点・狙い・つかみに輝きを失っていないというのが、すごい!
 隠喩は、暗喩とも。個人的には、「メタファー」という言い方の方がなじんでいますが。
 隠喩は、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換えて、簡潔に表現する機能。「・・・のようだ」とか「・・・のように」という直喩に比べて洗練されている印象を持つレトリック(修辞法)。ここで、見逃せないのは、いわゆる言語(言葉)に限らないで、絵画、映画などの「視覚」の領域でも起きること。そこに、この書の基本的な出発点があります。
 隠喩は、人間の類推能力の応用による認知のひとつの方法で、この世界・空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理、つまり、人間が、根本的な(他者)世界の認知、見え方に深く関わっているということです。(個々人にとっては)自らの眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官の働きにとどまらず、それぞれの脳内神経作用において言語化されていくことになる。
 重要なのは、言語化する(非現実化する)に当たって、それが単に個人的で恣意的なものではなくて、その手立てとしての言語作用そのものが言語的文化・伝統、思想、時には集団的意図(政治など)を内包し、さらには言語生活における個人のの認識そのものを規定していくことになっていく。
 特に、「眼」(「まなざす」こと)による事物の認識について、筆者の関心は強く寄せられています。具体的な建築物(自由の女神)、人形の家(文字通り「人形の家」からイプセンの戯曲「人形の家」の隠喩、さらには古代からの演技者と観客に関する劇場としての構造の変化・・・)、写真(撮影者の眼差し)。
 想像力によって造りあげられた対象(物・者)が眼(まなざし)・視覚によって再規定され、取り込まれていくプロセス。「まなざす」主体に積極的に関わっていく。・・・人間の(人類の)基本的な意識構造、世界への関わり方について改めて考えさせられます。
 特に「椅子の身体論」は興味深い。あるいは肖像画(写真)について。塔についても、しかり。東京タワーからスカイツリー(当然、著述当時はなかった)へなど、と人類が高きを追求することの意味的根源・・・。多彩な話題が展開されていきます。今読んでもけっこう新鮮で示唆に富んだ書です。
 
 ちなみに「ちくま学芸文庫」にあるもののうち、関連してのお薦め。アトランダムに。
「モードの迷宮」(鷲田清一)「場所の現象学」(エドワード・レリフ)「映像の修辞学」(ロラン・バルト)「見るということ」(ジョン・バージャー)「エクリチュールの零度」(ロラン・バルト)・・・。
 
 余談ですが、今年のセンター試験の国語現代文(評論)問題に小林秀雄の文章が取り上げられました。内容といい、文体といいい、不慣れな受験生には取っつきにくかったのではないでしょうか? でも、小林を出題したことに、敬意(個人的にはとても興味深い評論家ですから)。

 

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