「煉獄」は、カトリック教会の教義で「この世の命の終わりと天国との間に、多くの人が経験する清めの期間であり、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である。」と説明されている。
煉獄は「清めの火」というイメージで語られ、信者は、自分自身の救いのためだけではなく、聖徒の交わりの力によって、煉獄の霊魂のために祈り、死者のための施しや免償、償いの業を行うように勧められ、それによって煉獄の霊魂は救われると教える。
煉獄の霊魂の救いのために捧げたという証明書が「贖宥状」で、これを金銭で販売・売買していたことが教会の腐敗につながり、マルティン・ルターによる宗教改革の発端にもなった。
このような歴史的経緯から、プロテスタントの諸教派は煉獄の概念を否定し、また、正教会も「聖書」に記載がないことなどから煉獄の存在を認めていない。(以上、「Wikipedia」参照)
吉本隆明が死して今年の3月で、丸2年。彼が死んだとき、マスコミにあふれた「知の巨人」との賞賛。60年代の新左翼運動の興隆の中で、「反帝」「反スタ(ソ連型社会主義の限界と展望)」という切り口が学生・大衆に受け入れられ、思想界(とりわけ新左翼)を圧倒して以来、長年に亘って「敵の敵は味方」式の論戦術(ヘーゲル的弁証法?)の上に立って、巧みかつ歯切れよく、世相(世界)に切り込んでいった言語の(用い方の)「魔術師」。
そして、文学者の「反核」署名・提起を批判するあまり、ついには、「核兵器」と「原発」を区別しての「原発擁護、推進」に立ち至った生前の言動、特に、3・11にかかわる発言に少なからず違和感を感じていた「私」。
この書は、筆者が死してなお自らの思想活動、営為につきまとう「吉本イズム」の深さと根源を探り出そうと悪戦苦闘した書。初期の作品群をなす「言語論」、「芸術論」、「共同体論」「大衆論」(ここに彼の一番の落とし穴があったと私は思っていますが)を分析しながら、生涯を通して貫かれた吉本思想・哲学の行い(作法)を、死して語らず、という現実から、死してなお語らせ(読み取る中で)ていきます。
その上で、現在的(むしろ未来的、人類的)評価(自分にとっての、あるいは今生きる人にとっての)を見定めようと、個人的思いを抑えて、その功罪を解析していきます。
哲学者としての故人への深い尊敬の念を失うことなく、かといって盲目的に従うのではなく、というところにこの書の立場があります。
晩年の「吉本隆明」の立場には疑問を持っている私。改めて「吉本」思想・哲学をとらえ直す契機になりました。
とはいっても、「煉獄」というとらえ方に興味を持っただけかもしれませんが。裁きの場というようなものとも異なることに。
煉獄は「清めの火」というイメージで語られ、信者は、自分自身の救いのためだけではなく、聖徒の交わりの力によって、煉獄の霊魂のために祈り、死者のための施しや免償、償いの業を行うように勧められ、それによって煉獄の霊魂は救われると教える。
煉獄の霊魂の救いのために捧げたという証明書が「贖宥状」で、これを金銭で販売・売買していたことが教会の腐敗につながり、マルティン・ルターによる宗教改革の発端にもなった。
このような歴史的経緯から、プロテスタントの諸教派は煉獄の概念を否定し、また、正教会も「聖書」に記載がないことなどから煉獄の存在を認めていない。(以上、「Wikipedia」参照)
吉本隆明が死して今年の3月で、丸2年。彼が死んだとき、マスコミにあふれた「知の巨人」との賞賛。60年代の新左翼運動の興隆の中で、「反帝」「反スタ(ソ連型社会主義の限界と展望)」という切り口が学生・大衆に受け入れられ、思想界(とりわけ新左翼)を圧倒して以来、長年に亘って「敵の敵は味方」式の論戦術(ヘーゲル的弁証法?)の上に立って、巧みかつ歯切れよく、世相(世界)に切り込んでいった言語の(用い方の)「魔術師」。
そして、文学者の「反核」署名・提起を批判するあまり、ついには、「核兵器」と「原発」を区別しての「原発擁護、推進」に立ち至った生前の言動、特に、3・11にかかわる発言に少なからず違和感を感じていた「私」。
この書は、筆者が死してなお自らの思想活動、営為につきまとう「吉本イズム」の深さと根源を探り出そうと悪戦苦闘した書。初期の作品群をなす「言語論」、「芸術論」、「共同体論」「大衆論」(ここに彼の一番の落とし穴があったと私は思っていますが)を分析しながら、生涯を通して貫かれた吉本思想・哲学の行い(作法)を、死して語らず、という現実から、死してなお語らせ(読み取る中で)ていきます。
その上で、現在的(むしろ未来的、人類的)評価(自分にとっての、あるいは今生きる人にとっての)を見定めようと、個人的思いを抑えて、その功罪を解析していきます。
哲学者としての故人への深い尊敬の念を失うことなく、かといって盲目的に従うのではなく、というところにこの書の立場があります。
晩年の「吉本隆明」の立場には疑問を持っている私。改めて「吉本」思想・哲学をとらえ直す契機になりました。
とはいっても、「煉獄」というとらえ方に興味を持っただけかもしれませんが。裁きの場というようなものとも異なることに。
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