おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新宿(にいじゅく)~松戸~小金。その1。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-15 20:07:34 | 水戸街道

 先日、長年お世話になった方が亡くなり、土浦まで出かけました。初めて知ったことでしたが、その方のおうちは旧水戸街道沿いのお宅でした。旧家の方というお話しは聞いておりましたが。
 ふとした思いつき。これを機会に「水戸街道」を歩いて行ってみようか、何日かかるかわかりませんが、ま、冬でも晴れ間なら歩くのはそれほど大変ではないのでは・・・。

 「水戸街道」は「五街道」につぐ重要な街道だったともいうので、さっそく調べてみました。現在の「国道6号線」がほぼかつての街道をなぞっているようですが、思ったよりも旧道が残っています。沿道もけっこう見所が多そうです。

水戸街道
 江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。
 現在、水戸街道は国道6号の東京都墨田区向島~茨城県水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。
 水戸以北は岩城街道(または磐城街道)と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流し、仙台まで続いていた。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではあったが、奥州街道ほどには栄えなかったとされる。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われた。
 水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため国許である水戸と当主が居住する江戸との間で緊密に連絡を取りあう必要があった。このため街道筋には水戸徳川家専用の施設が多数もうけられていた。また幕末百話によると宿場人足も水戸様御用を笠に着て横暴な振る舞いが多かった。(以上「Wikipedia」参照)

 「下に~、下に~」の世界でしょうか。

 水戸まで約110㎞。果たして何日かかるやら。

 HPより借用)

 その第1日目。11月12日(土)曇りのち快晴。

 旧日光街道・「千住宿」から分岐して進んでいたのが江戸時代の水戸街道。現在は明治から大正にかけて開削された「荒川(放水路)」があり、千住からの道は断絶。葛飾の小菅、「東京拘置所」裏付近から東に向かい、綾瀬川に架かる「水戸橋」(この橋も付け替えられています)を渡り、JR綾瀬駅、亀有駅の南側を通過し、「中川」を渡って「新宿(にいじゅく)」に入ります。
 ここまでは、すでに何度か取り上げていますので省略し、「新宿」から出発することにします。

 今回は自宅から歩きで出て、JR常磐線「北小金」から「亀有」まで戻り、そこから自宅まで歩いて戻りました(計:約32,000歩)。 

《再掲》

 そろそろ「千住宿」もおしまいというところに、
  「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。

(9:48)「新宿一里塚」バス停が今回の出発点。

 「新宿」を出て、「国道6号線」に出る直前。「一里塚跡」は亀有駅の南に「亀有一里塚」跡の記念碑があります(水戸黄門様ご一行とともに)ので、そこからまだ1里にはなっていないようですが、・・・。

《参考》「亀有一里塚」碑。

 ところで「新宿(あらしゅく・にいじゅく)」

 水戸街道千住宿から1つ目の宿場町。古くは「あらしゅく」と呼ばれていたが、現在は「にいじゅく」と読む。
 現在の東京都葛飾区新宿2丁目にあたる。江戸から来て中川を渡って現在の中川橋東詰から屈曲して南下する筋が、江戸側から上宿・中宿、日枝神社付近で屈曲して東に向う筋が下宿と、大きく三つにわけられている。小規模な宿場町で、本陣は置かれなかったとされる。2005年時点で既に古建築を見出すことはできない。
 下宿の東端(現在の国道6号中川大橋東交叉点)付近には、佐倉街道(成田街道)への追分があり、石碑(水戸街道石橋供養道標)が建てられていた。当該石碑は、葛飾区郷土と天文の博物館に保管されている。
 新宿は大きく枡形を構成していたが、その後枡形をショートカットする道が作られ、旧道筋はわかりにくくなっている。
 (以上、「Wikipedia」参照)

「金阿弥橋」(「追分橋」とも)。その付近に「右なりた千葉寺道 左水戸街道」と刻まれた道標がありましたが、現在は撤去され、「葛飾区郷土と天文の博物館」に保存されています。(余談ですが、ここのプラネタリウムはなかなか企画もよくていい施設です。何度か行きました。―京成「御花茶屋」駅下車―。)



「国道6号線」を越えた正面の道が「佐倉街道(成田街道)」。水戸街道・新宿から分岐して南方へ向っていました。



 さて、「道標」の位置関係からすると、旧水戸街道はここで現国道6号線に吸収されてしまったようにも思えますが、ここで曲がって今度は北に向かって、桝形をショートカットした道と合流しています。この付近の旧道の道筋は周囲の道路拡幅整備工事で不明。

 北に進むとY字路になり右の道を行くと、三角地帯にこの付近の道幅拡張工事に伴い、一カ所に集められた石像がたくさんあります。その記念碑には、「旧水戸街道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿4丁目2番地先より現在地に移転」とあり、また、「帝釈道」(注:柴又帝釈天への道)と刻まれた石碑もあります。

    

右が「帝釈道」、左が「水戸街道」。
 

1880年代のようす。○が追分。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)



現在のようす。○が同地点。(「同」より)


 (9:56)「JR新金線(金町~新小岩を結ぶ貨物線)」の踏切に「浜街道」(「水戸街道」の別称)という名称。奥にある踏切は、「帝釈道踏切」。
 

    
                     「金町」方向へ進みます。
 
 それまでほぼ直線で進んで来た道が少しカーブします。かつてのままの道筋が残されています。
    

    
1880年代のようす。                現在のようす。 

 その先で、「国道6号線」に合流します。
    
                                       来た道を振り返って望む。 

 「国道6号線」は大きく右に曲がって松戸方向へ進みますが、旧水戸街道は左折して進みます。


(10:18)JR線をくぐります。「第一浜街道ガード」。

 すぐ「歩道橋」を右に渡り、「葛西神社」方向に向かいますが、歩道橋工事のため、その先の信号を渡り、少し戻ります。


戻った角にかなり古い「道標」。    ??

 (10:26)旧道。前方、右手に「葛西神社」。
    

「葛西神社」解説板。

史跡 葛西神社(葛西ばやし発祥の地)
 ・・・享保年間当社の神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し、今なお当地方の郷土芸能の一つとして伝わり、昭和28年11月3日、東京都無形文化財に指定され今日に至る。

                                     葛飾区 葛飾区観光協会

 (10:35)江戸川の土手に出ます。振り返って望む。
    

はるか遠くに「スカイツリー」。 

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