「鳩ヶ谷三ツ和歩道橋」からの右手・「日光御成道」
「日光御成道」歩きも第2日目。1月6日(土)。快晴。
前回の終了地点まで「赤羽駅」から路線バスでやってきました。「鳩ヶ谷変電所前」交差点から「岩槻街道(国道122号線)」と分かれ、右に入っていきます。
(10:14)大きな「ここから北 日光御成道・鳩ヶ谷宿」碑。
「辻村と鳩ヶ谷宿」の境界標。
さっそく、りっぱな旧宅。
「蕨道 中山道・蕨宿へ向かう道」。
「鳩ヶ谷宿」に入ると、解説版が適所に設置されています。
宿内のようす。
(10:21)「見沼代用水」に架かる「吹上橋」を渡ると、宿場の中心街に。
「日光御成道と鳩ヶ谷宿」
現在地は、鳩ヶ谷宿の下宿で、左の吹上橋を渡って坂を上ると宿の中心・中宿です。
日光御成道の前身は、鎌倉時代の鳩ヶ谷を通り奥州へ向かう幹線道路の鎌倉中道です。慶長5年(1600)に、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めようとこの中道を北上して鳩ヶ谷に泊まり、小山(おやま)に至った時、石田三成の挙兵を知りました。すぐさま引き返して関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開きました。家康は遺言により日光東照宮に祀られましたが、間もなく、将軍家は、この道を縁起のよい道として整備し鳩ヶ谷宿もできました。以来、将軍が日光社参に利用したので、その名があります。・・・
その宿場町・鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町(約19㎞)にあり、北から上・中・下の宿に分かれた家並みは4枚20間(470m)、天明6年(1786)の記録では、家198軒・人口821人でした。
鳩ヶ谷宿は、周辺の商業や文化の中心地として栄え、特に江戸時代の中頃に始まった三八市は、出店が並びたいそう賑わい、市の神を祀る市神社は、今も、当時の面影を伝えています。また、旅人のための榎を植えた一里塚が、吹上橋の北袂の両側にありました。
この前方の坂を上がった宿の中心地・中宿にあたる本町商店街は、江戸時代の町割りをほぼ残しています。
昔の「見沼代用水」の写真。
見沼代用水(みぬまだいようすい)
江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至る。
埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。
・・・
徳川吉宗が8代将軍として紀州藩から江戸に入ると享保の改革が始まった。幕府の財政建て直しのための増収策として、1722年(享保7年)に新田開発奨励策が示され、新田開発が本格化した。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化した。武蔵国の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在したが、ここを新田として開拓することが決められた。また代用水の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになった。吉宗に従い紀州藩士から幕臣になり、勘定吟味役格の職が与えられた井沢弥惣兵衛為永に対して、1725年(享保10年)に見沼溜井の干拓と代用水建設が命じられた。
代用水の建設は、文字通り見沼溜井の代替となる水路の建設であったが、同時に見沼以外の用水路流域周辺の沼地を干拓する壮大な計画であった。井沢弥惣兵衛は周囲を調査し、利根川や荒川の治水も考慮して埼玉郡(さきたまぐん)から足立郡を抜ける約80km(20里)の幹水路に加え、高沼用水路などの分流路も多数開削することで、流域周囲の沼地を干拓した後の水源とすることを計画し、測量後、1727年(享保12年)9月から水路の開削が始まった。
東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(岩槻台地)を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した。ここから、旧来の見沼溜井に接続されていた谷古田、舎人などへの農業水路に接続された。
西縁代用水路は、東縁同様に見沼のあった西側の台地(大宮台地)を沿うように南下し、八丁堤まで達した。ここから旧来の見沼溜井に接続されていた浦和、戸田、笹目などの領地を灌漑する水路へ付け替えられた。
・・・これだけの大規模工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5ヶ月後の1728年2月で、3月には利根川より水を流し込み用水路の利用が始まっている。建設に関わった作業者は延べ90万人といわれ、幕府の支出した工事費用は賃金が約1万5000両、工作物が5000両で総額約2万両に達した。しかし、見沼溜井跡地に新田として1175町歩(約1160ha)が打ち出され、毎年5000石弱の年貢米が幕府の蔵に納められるようになった。
見沼用水路は、水田等の灌漑目的であったが、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。1730年に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家の願い出により、水運利用が許可された(参考、見沼通船)。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていない為、代用水と芝川を結ぶ運河である見沼通船堀が、1731年にやはり井沢弥惣兵衛の手によって作られている。代用水と芝川との高度差は3mもあるため、パナマ運河と同じ閘門式運河で作られた。見沼通船堀は同方式で日本最古のものといわれている。
・・・太平洋戦争後、用水路の近代化が進んだ。まず用水の取り込み口には、1963年(昭和38年)に利根大堰が作られ、取水流量が正確に管理できるようになった。代用水路も、1979年(昭和54年)から、護岸と路底のコンクリート化などが進められている。
【歴史】
1629年 見沼溜井が造成される。
1725年 幕府より井沢弥惣兵衛為永に対して、見沼溜井干拓の検討が命じられる。
1726年 測量が始まる。
1727年9月 工事開始。
1728年2月 完成。3月より水利が始まる。
1731年 見沼通船堀が作られる。また芝川吐口逆水樋門が設置。
1760年 柴山の元荒川交差部分の懸渡井が水害で大破。伏越に改められる。
1887年 柴山の懸渡井が木造から煉瓦造りに改められる。
1895年 砂の伏越(芝川と見沼代用水西縁との交差)が木造から煉瓦造りに改められる。
1906年 見沼代用水の元圦が木造から煉瓦造に改められる。
1908年 瓦葺の懸渡井が木造から煉瓦造りに改められる。
1961年 瓦葺の懸渡井が伏越に改められる。
1968年 利根大堰が完成する。
現在のようす。
「鳩ヶ谷宿案内板」。
(10:23)「一里塚跡」標識。
「吹上橋」の左手に建っています。江戸・日本橋から5里目、本郷追分から4里目。
「宮道」。
その先、左手に「御成坂公園」があり、「日光御成道・鳩ヶ谷宿」に関する解説などがあります。
「日光御成道のみちすじ」。
「からくり時計」もあります。
1880年代のようす。 現在のようす。
上方に「見沼代用水」。現在の「岩槻街道(国道122号線)」は直進して北上(中央の道)。旧道は右の道。
「日光御成道」歩きも第2日目。1月6日(土)。快晴。
前回の終了地点まで「赤羽駅」から路線バスでやってきました。「鳩ヶ谷変電所前」交差点から「岩槻街道(国道122号線)」と分かれ、右に入っていきます。
(10:14)大きな「ここから北 日光御成道・鳩ヶ谷宿」碑。
「辻村と鳩ヶ谷宿」の境界標。
さっそく、りっぱな旧宅。
「蕨道 中山道・蕨宿へ向かう道」。
「鳩ヶ谷宿」に入ると、解説版が適所に設置されています。
宿内のようす。
(10:21)「見沼代用水」に架かる「吹上橋」を渡ると、宿場の中心街に。
「日光御成道と鳩ヶ谷宿」
現在地は、鳩ヶ谷宿の下宿で、左の吹上橋を渡って坂を上ると宿の中心・中宿です。
日光御成道の前身は、鎌倉時代の鳩ヶ谷を通り奥州へ向かう幹線道路の鎌倉中道です。慶長5年(1600)に、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めようとこの中道を北上して鳩ヶ谷に泊まり、小山(おやま)に至った時、石田三成の挙兵を知りました。すぐさま引き返して関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開きました。家康は遺言により日光東照宮に祀られましたが、間もなく、将軍家は、この道を縁起のよい道として整備し鳩ヶ谷宿もできました。以来、将軍が日光社参に利用したので、その名があります。・・・
その宿場町・鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町(約19㎞)にあり、北から上・中・下の宿に分かれた家並みは4枚20間(470m)、天明6年(1786)の記録では、家198軒・人口821人でした。
鳩ヶ谷宿は、周辺の商業や文化の中心地として栄え、特に江戸時代の中頃に始まった三八市は、出店が並びたいそう賑わい、市の神を祀る市神社は、今も、当時の面影を伝えています。また、旅人のための榎を植えた一里塚が、吹上橋の北袂の両側にありました。
この前方の坂を上がった宿の中心地・中宿にあたる本町商店街は、江戸時代の町割りをほぼ残しています。
昔の「見沼代用水」の写真。
見沼代用水(みぬまだいようすい)
江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至る。
埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。
・・・
徳川吉宗が8代将軍として紀州藩から江戸に入ると享保の改革が始まった。幕府の財政建て直しのための増収策として、1722年(享保7年)に新田開発奨励策が示され、新田開発が本格化した。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化した。武蔵国の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在したが、ここを新田として開拓することが決められた。また代用水の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになった。吉宗に従い紀州藩士から幕臣になり、勘定吟味役格の職が与えられた井沢弥惣兵衛為永に対して、1725年(享保10年)に見沼溜井の干拓と代用水建設が命じられた。
代用水の建設は、文字通り見沼溜井の代替となる水路の建設であったが、同時に見沼以外の用水路流域周辺の沼地を干拓する壮大な計画であった。井沢弥惣兵衛は周囲を調査し、利根川や荒川の治水も考慮して埼玉郡(さきたまぐん)から足立郡を抜ける約80km(20里)の幹水路に加え、高沼用水路などの分流路も多数開削することで、流域周囲の沼地を干拓した後の水源とすることを計画し、測量後、1727年(享保12年)9月から水路の開削が始まった。
東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(岩槻台地)を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した。ここから、旧来の見沼溜井に接続されていた谷古田、舎人などへの農業水路に接続された。
西縁代用水路は、東縁同様に見沼のあった西側の台地(大宮台地)を沿うように南下し、八丁堤まで達した。ここから旧来の見沼溜井に接続されていた浦和、戸田、笹目などの領地を灌漑する水路へ付け替えられた。
・・・これだけの大規模工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5ヶ月後の1728年2月で、3月には利根川より水を流し込み用水路の利用が始まっている。建設に関わった作業者は延べ90万人といわれ、幕府の支出した工事費用は賃金が約1万5000両、工作物が5000両で総額約2万両に達した。しかし、見沼溜井跡地に新田として1175町歩(約1160ha)が打ち出され、毎年5000石弱の年貢米が幕府の蔵に納められるようになった。
見沼用水路は、水田等の灌漑目的であったが、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。1730年に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家の願い出により、水運利用が許可された(参考、見沼通船)。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていない為、代用水と芝川を結ぶ運河である見沼通船堀が、1731年にやはり井沢弥惣兵衛の手によって作られている。代用水と芝川との高度差は3mもあるため、パナマ運河と同じ閘門式運河で作られた。見沼通船堀は同方式で日本最古のものといわれている。
・・・太平洋戦争後、用水路の近代化が進んだ。まず用水の取り込み口には、1963年(昭和38年)に利根大堰が作られ、取水流量が正確に管理できるようになった。代用水路も、1979年(昭和54年)から、護岸と路底のコンクリート化などが進められている。
【歴史】
1629年 見沼溜井が造成される。
1725年 幕府より井沢弥惣兵衛為永に対して、見沼溜井干拓の検討が命じられる。
1726年 測量が始まる。
1727年9月 工事開始。
1728年2月 完成。3月より水利が始まる。
1731年 見沼通船堀が作られる。また芝川吐口逆水樋門が設置。
1760年 柴山の元荒川交差部分の懸渡井が水害で大破。伏越に改められる。
1887年 柴山の懸渡井が木造から煉瓦造りに改められる。
1895年 砂の伏越(芝川と見沼代用水西縁との交差)が木造から煉瓦造りに改められる。
1906年 見沼代用水の元圦が木造から煉瓦造に改められる。
1908年 瓦葺の懸渡井が木造から煉瓦造りに改められる。
1961年 瓦葺の懸渡井が伏越に改められる。
1968年 利根大堰が完成する。
現在のようす。
「鳩ヶ谷宿案内板」。
(10:23)「一里塚跡」標識。
「吹上橋」の左手に建っています。江戸・日本橋から5里目、本郷追分から4里目。
「宮道」。
その先、左手に「御成坂公園」があり、「日光御成道・鳩ヶ谷宿」に関する解説などがあります。
「日光御成道のみちすじ」。
「からくり時計」もあります。
1880年代のようす。 現在のようす。
上方に「見沼代用水」。現在の「岩槻街道(国道122号線)」は直進して北上(中央の道)。旧道は右の道。
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