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路面電車が行き交う大通り。「札木」。その角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。
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吉田宿問屋場跡
宿駅には、必ず道中奉行所支配の問屋場が設けられ、ここで人馬継立ての業務が行われた。
吉田宿の問屋場は、札木町のこの地に置かれ、人足百人、馬百疋が貨客のために用意され、問屋を筆頭に、年寄、帳付などの問屋場役人によって支配された。
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ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和2年(1802年)の書上によると、東海道吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。
店先にはもう一つの興味深い説明書き。
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明治初期に田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき極上品はすべて「べっぴん」と呼ぶようになって、そのあとの明治中期には美しい女性(美人)にも使われるようになりました。
丸よはその伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。
へえ~! 初めて知りました。
「べっぴん」は現在は漢字で書くと「別嬪」で、美人や美女を意味していますが、かつては「別品」と書き、「特別によい品」を指していました。ただし、上のようないきさつがあったかどうかは定かではありません。
通りの向かい側には石碑が。近づくと「吉田宿脇本陣跡」碑でした。
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以下は、「株式会社 テンソーのブログ」さんのblogより引用(無断で、すいません)。
この会社は、愛知県を中心に東海地方を業務エリアとし、『店舗 設計・施工』、『一般住宅・デザイナーズハウス』、『アパートマンションなどの賃貸住宅再生事業』を主に、業務を行っている会社のようです。
2012年05月24日(木)
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えびくずし…って知ってますか?
プロレスの技ではありません。
今日は朝から豊川の花ごよみさんで改装の打ち合わせ。
そのあと、アフターで3年前に竣工しました、豊橋市小池町のしのじま屋さんへ向かいました。
作業が終了すると、もうお昼でしたので、しのじま屋さんで食事をとることに。
で、注文したのがこの「海老くずしきしめん」
しのじま屋名物!です。自家製のきしめんはつるつるで喉越しがよく、そして上に乗っている海老天、のり天、玉子焼きやほうれん草、かまぼこ、ネギ、甘く煮たしいたけなど、とてもカラフル。ちらし寿司をイメージして作られているそうです。甘めのつゆとの相性もいいんです。さっぱり清涼感のあるエビくずしは、しのじま屋、夏の代表メニューです。
なかなかお寄りできる機会がなく、1年ぶりに大将と女将さんにお会い出来ました。
美味しかったです。ごちそうさまでした。(いろんな意味で…)
これも初めて知りました。「篠嶋屋さん」の名物だとか。昼飯には早かったので、残念! さっきの「丸よ」さんの「鰻」ほどは高くないでしょうから・・・。今度、我が家で試してみよう!
その先にあるお店が「きく宗」。「菜飯田楽」で名高いお店です。
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創業文政年間、江戸時代より約200年に渡りここ吉田宿(現 愛知県豊橋市)にて"菜めし田楽"ひと筋、昔と変らぬ味を守りつづけてまいりました。
こんがりと焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌をぬった田楽と、細かくきざんだ大根の葉を混ぜ合わせた"菜めし"とともに存分にご賞味ください。
吉田の宿は東海道の34番目の宿場です。
吉田は街道筋でもなかなかのにぎわいを見せていた宿場で東海道きっての遊郭や旅籠が軒を連ね「吉田通れば 2階から招く しかも鹿子の振袖で」と歌われた程で夜ともなれば紅灯の下に旅の無聊をもてあました客たちの群れが絶えることがなかったといわれています。
旧東海道に面し街道を上り下りする旅人たちに支えられ今日に至ってまいりました。
田楽の由来
その昔、豊作を祈って田の神に奉納した田楽舞のその姿が豆腐を串に刺し、味噌をつけた料理によく似ているため、いつか田楽と名づけられるようになったと云われます。
アツアツの身上からお客様の注文を受けてから丹精をこめて焼き上げます。
また、素材選びからこだわり、昔ながらの素朴で自然味溢れる味をご満足いただける様、つとめてまいりました。
豆腐は自家製で国産大豆のみ(100%)使用(遺伝子組み替えの大豆は一切使用しておりません。ご安心してお召し上がり下さい)。
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交差点の向かい側にある公園が「松葉公園」。その角には、「吉田宿」の石碑。ここで、小休止したいところですが、ベンチはまだ濡れたまま。先に進みます。
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「東海道 吉田宿 江戸まで73里 京まで52里」。
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広い通りを渡ると、右手に「西惣門」の復元模型。
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西惣門
吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪がありました。
この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にしてつくられたもので、その惣門は吉田城大手門を移築1674年に移築した、とのこと。
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右手の「湊町公園」のところに芭蕉の句碑があります。
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貞享4年(1687年)11月11日、芭蕉と越人が渥美郡保美にの杜国を訪れ途次この地の旅籠屋で一夜を明かしました。
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寒けれど二人旅寝のたのもしき ごを焼いて手拭あふ(ぶ)る寒さかな
左の句。「笈の小文」の中の一句です。
「神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
旅人と我名よばれん初しぐれ
又山茶花を宿ゝにして・・・」という書き出しの旅日記。但し、芭蕉の死後、弟子がまとめたもの。
右の句。「吉田の内、下地(しもじ)にて」と前書きがあります(この句碑には、「下地町 聖眼寺」)。但し、「笈の小文」中にはありません。
「ご」は松の枯れ落葉のこと。かき集めて焚物にする。三河地方の方言とも。
「下地」は、豊橋市内の下地町。
季語は「寒さ」で冬。
注:「ごを焼いて」とあります。この部分、「ごをたいて」と読ませ、多くの鑑賞文が「ごを焚いて」と表記しています。「たき火」の「たき」と同じです。但し、もともとの芭蕉の表記は「焼(い)て」のようです。「焼」の現在での一般的な読みは「やく」「やける」「くべる」で、「たく」という読みはなさそうです。現在では「ごをやい(き)て」と読んでもあながち間違いとはいえませんが、「落ち葉」は「焼く」ものでなくて、あくまでも「たく」ものです。
上記の「聖眼寺」に芭蕉の句碑があるそうです。
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その先を右折すると、ようやく「豊橋」のたもとに。右手には「吉田宿船会所」の看板。
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船町
その昔、このあたりは四ツ屋(四ッ屋)と称され、数軒の家屋がまばらにある河原同然の土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは、浅井与次右衛門(浅井長政の重臣)とその一門80名ほどの人々と言われています。その後、天正18年(1590)に吉田城主池田照(輝)政より定住を許され、庄屋役を命じられ、以後船町と改めて町の開発を行ったようです。
近世初頭に開かれた吉田湊は、豊川船運の終点として、また伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時、三河における最大の湊でした。船町はこの湊での船役を命じられ、地子(賦課した地代)免除の特典が与えられるなど吉田24町の中で独自の立場であったようです。
高札場
寛永13年(1636)幕府の命により、橋のたもと( 当時の吉田大橋はここより70㍍程下流に高札場が設けられました。この高札場には、河川の取締り、橋の保護など極めて重要な取り決めが、板に書かれて掲げられていました。
豊橋市教育委員会
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「とよはし」。 川の名称は「とよがわ」。
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東海道五十三次之内 吉田 豊川橋 / 歌川 広重
今の豊橋である吉田は城下町で、手前に修理のために足場を組んでいる城がある。左官の職人が泥鏝で壁を塗り直している様子が描かれている。川は豊川といい、長さ120間ある豊川橋がかかっている。二艘の船が浮かぶ。対岸の甍が整然とした町の様子を表わしている。上半分を空にして、水面をさらに広く表現して、爽やかな絵である。
(「知足美術館」HPより)
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「大正期のようす」 現在のようす
(「知足美術館」HPより)。 (但し、撮影場所は橋の反対側)。
豊橋(とよばし)
徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年(元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。
その後、池田輝政が、船町を整備し、前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。
江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。
この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよばし(豊橋:濁音)と名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。
この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよばし)とするようになった
(以上「Wikipedia」参照)
なお、かつての「豊橋」の親柱が橋の左岸に保存されているようです。
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