「日坂宿」には、まだまだけっこう旧い建物や史跡が保存されています。
旧日坂宿旅籠「川坂屋」。
川坂屋
大坂の陣(慶長19年・1616の冬の陣と翌年の夏の陣)深手を負った武士太田与七郎は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。
旅籠・川坂屋はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を勤めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。
現存の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。
宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。
また「川坂屋」には脇本陣などという肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。
旅籠屋としては本陣と同じうになどが宿泊したようで、脇本陣格であったと思われます。旅籠としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・粕谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。
その後、平成5年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成12年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。
敷地は三百余坪ありましたが昭和25年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成7年(1995)のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田侯より拝領した「茶室」も移転を余儀なくされました。
茶室は平成15年(2003)母屋の北側の地に復原されました。
「日坂宿」内を振り返る。
「川坂屋」を過ぎると道は下り坂になります。
「高札場」。
高札場
幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。
高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。
高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き替えがありました。
ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。
高札場の大きさ 「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の 「御尋ニ付申上候」書付(天保14年)によりました。
高札小史
◎正徳元年(1711)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札五枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。
◎慶応4年(明治元年・1868)太政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚の高札(五傍の掲示)を掲げた。
◎明治6年(1873)高札が法令公布の方式としては適さないとの見地から撤去された。
そのそばにあるのが、「下木戸跡」。
下木戸(しもきど)跡
江戸時代、治安維持のため宿場の東西には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では木戸の代りに川がその役割を果たしていました。
古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。
また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。
「古宮橋」から振り返る。左手が「高札場」。
日坂宿ともお別れです。
頭上を覆う国道の橋脚の下に生き続ける「日坂宿」です。
左手には、
賜硯堂成瀬大域出生の地
書家、成瀬大域(成瀬温)は文政10年(1827)古宮のこの地で生まれました。
四十二歳の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。
宮内省に奉職していた明治12年、王義之の聖教序を臨書するとともに諸葛孔明の出師表を、楷書と草書の二幅に書き、併せて明治天皇に献上しました。天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成愛用と伝わる古い硯を賜りました。
このことから庵と自らを「賜硯堂」と号しました。
明治35年(1902)没。七十六歳でした。
なお、川坂屋襖に大域の書、法讃寺境内には大域が筆を執られた暁心翁之碑があります。
また、この古硯は平成14年(2002)遺族の方より、十体の書が書かれた面扇とともに掛川市二の丸美術館に寄贈されました。
「日坂宿宿場口」。県道415線(旧国道1号線)との合流地点。
バス停のベンチで小休止。
県道415号線が「国道1号線・日坂バイパス」をくぐると、「国道1号線」になって、掛川方向に進みます。しばらく進むと、」塩井川原」。道標の先、「八坂橋」を左に入ります。
「塩井川原」。
旧道らしい家並みが続きます。
右側になにやら古風な塀の連なるおうちがあります。
「嵐牛(らんぎゅう)蔵美術館」。
嵐牛は、通称を伊藤清佐衛門豊蔭といい、寛政10年佐野郡汐井河原(現 掛川市八坂)に生まれた。家は農業で鍛冶を兼ねていた。幼い頃から家業に励み俳諧を好み、三河 岡崎の青々卓池の門に入門した。
33才の時、掛川市伊達方の石川依平に和歌国学を学び、さらに博覧多聞諸学を深く学んだので、語法仮名遣いの正確さは当時の俳人の遠くに及ばない処だった。
毎日家業の鍛冶に専念しながら俳句を勉強し、門人に教え財を成した。屋敷内の柿の落ち葉を拾い集め、それに句を書いたという。
嵐牛は、天保半ば頃から俳句を門人に教え、入門者は東は金谷宿から西は磐田郡二俣にまで及び、入門者は多かった。依頼による句会への出席は100回以上に及び、直接指導による門人は300人以上に達すると推察される。嵐牛に教えを請う人が常に門に満ちていたという。
安政4年、柿園に集まった人々の俳句を添削せずにまとめて「そのまま集」と名づけて刊行した。5編迄は嵐牛門人の句が記載され、第6編は門人の他に他流の俳人も含む友人、孫弟子等の句が記録されている。
嵐牛は晩年を長子洋々に譲り、屋敷内に別室を設けて移り「柿園」と号した。晩年、「白童子」と号し「柿園」は長子洋々が継ぎ、「白童子」は門人松嶋十湖に譲った。
明治9年5月28日78歳にて歿す。法名を柿園嵐牛居士という。
(「嵐牛蔵美術館」HPより)
興味を持ちましたが、休館日。先に進みます。少し行くと、右手に、「伊達方(だてがた)一里塚跡」。
伊達方一里塚
一里塚は、慶長9年(1604)江戸幕府の命により築かれた。江戸日本橋から一里(約4Km)ごとに塚が設けられ、松か榎を植えて目印とした。旅人にとって夏は木蔭、冬は風よけとして重宝がられた。また、塚の傍らには旅人の必需品が商われたほか、一服できる休息の場でもあった。
江戸日本橋から京都まで125里(約500Km)。掛川市内には佐夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚は設けられていた。
ここ伊達方一里塚は、江戸より五十七番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。
当時、塚の大きさは直径7間、高さ3間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年頃取り壊されたという。
来た道を振り返る。
「常夜燈」。
しばらく行くと、再び、「国道1号線」に合流します。「慶雲寺道」碑。
「従是五丁」。「慶雲寺」は、この地点から北東の方角にあるお寺です。
「(日本橋から)224㎞」。
国道の右手にある「さかがわ幼稚園」の前の道を左に入っていきます。
道沿いの庭園には白色の梅の花がちらほら咲いている、静かな旧道歩き。
「本所」というところで国道に合流。
「逆川」対岸のグランドでは「ゲートボール大会」が。
ここからは国道1号線を25分くらい、「千羽」「薗ヶ谷」「成滝」と「本村橋」まで西に向かって歩きます。途中には、「コンビニ」もなく、水分補給もままなりません。
「225㎞」ポスト。 立派な門構えのおうち。
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