おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その3。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-16 21:43:00 | 日光御成街道
                      (12:16)「大門小学校」入口交差点で国道463号線に合流し、左折します。

来た道(右手)を振り返って望む。

その交差点の案内表示がユニーク。
                            R7 800m、R6 900m。その上に「月 384400㎞」とあります。

 この通り沿いが「大門宿」。宿場町らしい街並み。


                      

大門宿(だいもんじゅく)
 日光御成道の宿場町。現在の埼玉県さいたま市緑区大門に位置する。
 大門宿は、当初、鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)に沿ってできた集落で、中世には市が開かれた。中世の幹線で奥州街道(おうしゅうかいどう)、奥大道(おくだいどう)などとも呼ばれていた。戦国時代の末には人馬の継立など、宿場として機能していったという。
 正式に日光御成道の宿場町となった時期ははっきりしていない。寛文6年(1666年)には隣接する鳩ヶ谷宿・岩槻宿までの公定運賃の記録が残されているという。また、天和2年(1682年)、御成道の宿場に組入れられ、駄賃高札が交付された。
 大門宿は元禄13年(1700年)、岩槻藩領から幕府領に編成替えとなった際宿場に認定され、会田平左衛門が本陣・問屋を任ぜられた。
 日光御成街道の起点の本郷追分から岩淵宿、川口宿(岩淵宿・川口宿は合宿として一つに数える)、鳩ヶ谷宿と北上して3番目、江戸から6里19町(約26㎞)の宿場町である。
 『日光御成道宿村大概帳』によると、大門宿は天保14年(1843年に、1137石高、街並7町23間、本陣1軒・脇本陣1軒、旅籠6軒、問屋場1ヶ所、戸数180軒、人口896人であったという。
 大門宿本陣は江戸時代1694年に建造され、母屋は昭和35年に消失しているが、表門は埼玉県指定史跡となった。また1775年に建造された脇本陣表門が、浦和市より市指定有形文化財に指定された。
 大門宿のエリアは、平成の大合併を経てさいたま市緑区に属するようになった。さいたま市の副都心として浦和美園地区の区画整理や拠点整備が進み、町の中心は大門エリアから徐々に浦和美園駅周辺に移りつつある。
 日光社参を再現した「日光御成街道 美園 大門宿まつり」が開催されている。

                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

(12;25)
               元禄7年(1694年)創建の本陣表門(茅葺き長屋門)。

 
大門宿本陣表門
 ・・・大門宿の本陣がこの場所にあった。大門宿の中央、街道の北側にあたる。現在、正面の入口の表門が保存されている。
 この表門は、門扉の両側に部屋が付属する長屋門形式である。寄棟造り、茅葺きで間口16.31m、奥行き4.58mである。元禄7年(1694)に建立され、文政7年(1824)に修理された。
 将軍家の日光社参は19回行われた。将軍家が岩槻城(岩槻区)に宿泊する際、大門宿には供奉する幕臣が分宿した。第10代将軍徳川家治の安永5年(1776)の日光社参では、本陣に伊予松山(愛媛県松山市)城主松平定静が、脇本陣には播磨姫路(兵庫県姫路市)城主の酒井忠以が宿泊した記録がある。
 なお、大門宿の本陣は会田家が勤めていた。会田家は、本陣の他に宿の問屋や大門町の名主、紀伊徳川家鷹場の鳥見役なども勤めていた。

堂々とした茅葺きの屋根。

日光街道案内図。

裏手に回ると広大な敷地が残されています。

路地を挟んだおうちには太い竹筒で作った長い垣根。

こちらのおうちは長屋門の現代風仕立て。

その先、左手には安永5年(1776年)創建とされる脇本陣表門が建造された当時のまま現存しています。


                        
大門宿脇本陣表門
 ・・・この表門は、寄棟造り、茅葺きで「立隠れ」(門構えが半間引っ込む)、くぐり戸のある長屋門です。間口16.00メートル、奥行き4.60メートルと、ほぼ本陣表門と同規模ですが、本陣の壁が大壁で縦格子付きの番所があるのに対し、ここは真壁で番所がなく、窓は横に菱子が走るなど、本陣に比べるとやや簡略化されています。
 この表門の建立年代は明らかになっていませんが、安永5年(1776)の徳川家治(10代将軍)の日光社参に合わせて建てられたものと考えられています。この時に、しんがりを勤めた姫路城主酒井忠以が往路ここに宿泊をし、帰路には磐城平城主安藤信成がここで休止をしました。
 なお、当時の記録には、「西御本陣」「西本陣」などと記されています。
 この門は、本陣表門とともに、大門宿の往時の姿を伝える遺構として、大変貴重なものです。

 こちらも茅葺きの寄せ棟造り。


                        

 (12:35)宿の外れに「大興寺」があり、その先で旧道は「東北自動車道」で分断されています。


「東北自動車道」(東京方向を望む)。

「浦和料金所」方向。



1880年代のようす。宿の外れにある「大興寺」は現在もそのままの位置にあります。


現在のようす。大門宿は「東北自動車道」建設から免れたようです。北西へ向かう斜めの道が現在の大門宿通り。

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