おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

千歳の渡し。安宅の渡し。新大橋。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その5)

2012-11-13 20:39:23 | 歴史・痕跡
 「両国橋」から「新大橋」付近。
明治13年頃のようす。隅田川に注いでいる上(北)の水路は「竪川」。下(南)は「小名木川」。中央に「安宅の渡し」(「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場に係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸にちなむ。安藤広重の描いた 「大はしあたけの夕立」 の 「あたけ」 とも関連)。「千歳の渡し」は地図上ではもう少し北側(竪川への分岐付近)に当たる。現在、「竪川」には首都高の橋脚。
少し下流からの両国橋遠景。
テラスにある案内板。「神田川」に架かる橋「柳橋」の説明あり。
対岸が「竪川」水門。上には首都高。この付近に「千歳の渡し」がありました。
両国橋の賑わい。
「新大橋」橋桁。現在の「新大橋」は中央区日本橋浜町 と 江東区新大橋の間にあり、「新大橋通り」 が渡る橋。
 最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を綱吉に勧めたと伝えられています。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
架設中の橋を見て
「 初雪や かけかかりたる 橋の上 」
完成した 『新大橋』 を渡って
「 ありがたや いただいて踏む はしの霜 」
 明治になってからもこの橋はずっと 木橋 でしたが、明治45年(1912) になって、道路橋としては日本初の鋼製トラス橋が架けられた。
その一部は愛知県の 「明治村」 に保存されている、とのこと。
 この橋は、大正12年(1923) の関東大震災にも崩れませんでした。関東大震災では、「隅田川」 に架かる橋は、火災を逃れてきた人々で溢れていた。ところが、ほとんどの橋は鉄橋であっても床材が木製であったため、市街地の火災が橋にも引火して、多くの犠牲者を出しました。 そんな中で、全ての構造が不燃材で出来ていた 『新大橋』 は炎上を免れ、結果的にたくさんの避難住民の命を救うことになりました。これ以来 『新大橋』 は 『ひとたすけ橋』 と呼ばれるようになりました。
 現在の 『新大橋』 は、昭和51(1976)年 に架け替えられたもの。橋の中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で、名橋といわれた旧トラス橋の名声や、歴史のある 『新大橋』 の名を汚さないようにと、そのデザインには特に力を入れたようです。
 (「東京探訪」HP参照)
「新大橋」の全景。
下流の対岸。
テラスにある案内板。「新大橋」の木橋時代の絵が掲示されています。また、そこには「隅田川は最上流の北区・岩淵水門から中央区・浜離宮庭園まで延長23.5㎞」とも記されていました。
遠くに見えるのは「清洲橋」。
かなり広々とした流れ。遠くマンション手前の水路は「小名木川」。
テラスのモニュメント。木組み越しの隅田川。
岸辺の石組み。船が往き来するたびに波が打ち寄せます。
 全長23.5㎞の「隅田川」。河口を目指して探訪はまだまだ続きます。清洲橋。永代橋。「中洲の渡し」「佃の渡し」「大川口の渡し」。南高橋。・・・


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百本杭跡。両国橋。両国駅。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その4)

2012-11-12 21:40:19 | 隅田川

「両国橋」付近の探訪です。
明治13年の地図。両国橋の西側。橋の北側、東西に流れる川は神田川。左下は外堀、日本橋川。橋の南側は、「千歳の渡し」。
現在の両国橋西詰(東日本橋側)。
 両国橋が架けられた年には2説あって、1659(万治2)年と1661(寛文元)年。「千住大橋」に続いて隅田川では二番目の橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。当初の名称は「大橋」。西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に「両国橋」と呼ばれ、1693(元禄6)年に下流に「新大橋」が架橋されると正式名称となりました。位置は現在よりも下流側であったようです。
 江戸幕府は隅田川の架橋は千住大橋以外認めてきませんでした。しかし1657(明暦3)年の明暦の大火の際、橋が無くて逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまいます。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断、架橋後は本所・深川方面の発展に大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担いました。
安藤広重作。厩橋付近から望む図柄。
同じく広重作。両国広小路の賑わいが分かります。(二枚とも『浮世絵で見る江戸の橋』HPより拝借しました。)
 両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875(明治8)年の架け替えが最後となります。
 この木橋は1897(明治30)年8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず欄干が崩落してしまい、死傷者は十数名にもおよびました。これにより1904(明治37)年に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わました。
 この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残りましたが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、このときの鉄橋の一部は「南高橋」として現存しています。

「明暦の大火(めいれきのたいか)」
 明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。「振袖火事」・「丸山火事」とも呼ばれています。
 この火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。江戸城の天守閣はこれ以後、再建されませんでした。
 火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大規模といわれています。
 この大火を契機に江戸の都市改造が行われました。御三家の屋敷が江戸城外へ転出、それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転しました。千住大橋しかなかった隅田川への架橋(「両国橋」や「永代橋」など)が行われ、隅田川東岸に深川などの市街地が拡大し、また吉祥寺や下連雀など西の郊外への移住も進みました。
 防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置されました。両国橋では西側(日本橋側)が「両国広小路」と称され(「三大広小路」=上野、浅草、両国)、江戸市民によってにぎわいました。現在では、「上野広小路」などの地名が残っています。

両国橋下流の説明板。「両国橋」「両国広小路」のいわれと「両国の川開き・花火」についての説明が載っています。

「両国の川開き」
 享保18年(1733年)から当時は5月28日~8月28日に行われ、時々花火が打ち上げられました。横川町の「鍵屋」と吉川町(現在の東日本橋2丁目)の「玉屋」請け負って橋の上流を「鍵屋」、下流を「玉屋」が受け持ち、技を競い合いました。「かぎや」「たまや」のかけ声もそのころから。戦後一時期中止になりましたが、復活し、現在は少し上流で「両国の花火」が行われています。

「百本杭跡」説明板。両国駅そば。
 総武線鉄橋あたりの隅田川の東側に打たれていた護岸のための杭。湾曲して激しい流れだった川筋を和らげ土手を保護する役目を負っていました。風光明媚な上、明治中期まで鯉の釣り場として有名でした。釣り好きな幸田露伴もよく出かけ、随想にも書いています。歌舞伎の世界では叶わぬ恋をした二人が心中した場所とされています。明治末期、護岸工事のためにほとんどの杭が抜かれました。「せんぼんぐい両国橋」(明治13年・小林清親作)が掲示されています。
「両国橋」東詰にある説明板。
両国駅駅舎。かつては房総方面へのターミナル駅として、特に毎年夏には房総への海水浴客を輸送するための臨時列車が多数設定されて両国駅の列車ホ-ムは賑わいました。子供の時分、ここから列車に乗ったこともあります。今は駅舎とコンコースには大きな飲食店が入っています。店の中には「土俵」が備えられて相撲甚句などが披露されます。ここも何度か来たことがあります。
1929年完成の駅舎。右上は初代の駅舎。(『Wikipedia』より拝借。)
JRの駅舎としては利用されていません。
「表忠碑」。両国橋の東詰の広場にある。「日露戦役戦没者慰霊碑」陸軍元帥大山巌筆。地元・本所区の日露戦争での戦没、病死者の慰霊のために、海軍中将榎本武楊が委員長の「戦没者弔魂祭兼凱旋軍人歓迎会」により明治四十年元旦建立。
 手前には、句碑。向島の俳諧師、宝井其角の弟子であった赤穂浪士・大高源吾の句「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑。
 この句は討ち入りの夜、俳句の師匠宝井其角に両国橋で出会って詠んだものといわれています。昭和3年建立。
 どちらもかつては草地の中、灌木に囲まれていたような記憶がありますが、今は整地され、何もない広場にドーンと大きな「碑」と手前の「句碑」。二つの位置関係も含めて、思ったよりも広い場所の中で、バランスがよくない印象。
 両国界隈は見所満載。吉良邸跡、芥川龍之介関連の碑、相撲部屋、国技館、古くからの名店・・・、別の機会に。

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駒形の渡し。御厩の渡し。首尾の松。・・・(隅田川の渡しの跡をたどる。その3)

2012-11-10 18:15:12 | 隅田川


        
                
1880年代のようす。「厩橋」のみ。            2010年代のようす。下流に「蔵前橋」が。

 今回は、吾妻橋から下流の探訪。江戸時代初期の17世紀には、隅田川には千住大橋(最初)、両国橋(2番目「大橋」)、新大橋(3番目)の三つしかなく、渡し船が唯一の往き来の手立てでした。さらに、gooの明治の地図でも「吾妻橋(大川橋)」「厩橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」くらいしか記されていません。開発が進んだ隅田川東岸地域への交通手段としては、「駒形の渡し」「御蔵の渡し」「富士見の渡し」「千歳の渡し」「安宅の渡し」など、いくつもの渡しが記入されています。
明治13年頃の本所吾妻橋付近。「大川橋」と記されています。また下流には、「駒形の渡し」が。
駒形橋西詰。説明板。「駒形の渡し」についても説明あり。
 橋名は、浅草寺に由来する「駒形堂」(橋の西北角にある)からきています。地元の人々によれば、「コマガタ」ではなく「コマカタ」と濁らないとか。「駒形橋」は、関東大震災の復興事業の一環として昭和2(1927)年に完成しました。
モニュメント。周りの柱のてっぺんは、馬頭。
「駒形橋」とスカイツリー。屋形船がたくさん係留されています。
「厩橋」付近。下流に「富士見の渡し」とある場所が現在の蔵前橋付近。右岸が「浅草御蔵」。
現在の「厩橋」。
 橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなんでいます。もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所。「厩」 とは 「馬屋」 のこと。蔵前橋にかけてこの一帯には幕府の 「御米蔵」 がありました。米の運搬のための馬もたくさん飼われ、「御米蔵」 には専用の 「厩」 があったことから「御厩(おんまい)」 の名称が使われるようになった、とか。
店の宣伝を兼ねた説明板。 
1872(明治5)年に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があり、1874(明治7)年に架橋。当初は、木橋でしたが、老朽化のために東京府によって1893(明治26)年に鉄橋に架け替えられました。
 鉄橋の建設に伴う「春日通り(本所方面から上野広小路へ、東西に直接接続しようと図ったもの)」の開通は1895(明治28)年。
 後、関東大震災で被災し、その復興事業の一環として架橋されたのが現在の橋。1929(昭和4)年に完成。6番目の橋。
「厩橋」親柱。上部に馬をデザインしたステンドグラス風のガラス細工。上は首都高。
馬がデザインされた透かし。

曲線が美しい。
蔵前橋。
全景。
 1954(昭和29)年9月~1984(昭和59)年12月まで西詰の北側(現在は都下水道局の施設)に「蔵前国技館」があったとき、職場の同僚と4人で桟敷席での相撲見物をしたことがありました。
 この橋は、関東大震災の復興事業計画により架橋されました。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた場所。
「富士見の渡し」のレリーフ。
「浅草御蔵跡碑」。蔵前橋西詰。
 「浅草御蔵」とは、江戸幕府が全国に散在する天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納・保管した倉庫のことです。大坂、京都の二条城と合わせて三御蔵と呼ばれていました。浅草御蔵跡碑は昭和31年(1956)に浅草南部商工観光協会が建立し、現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年(1934)のことです。(「台東区観光協会」HPより)
「首尾の松碑」。蔵前橋西詰。
『首尾の松(しゅびのまつ)』
 この碑から約百メートル川下に当たる浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
一、寛永年間(1624~42)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出 て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」 と称したという。
二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を 求め語ったところからの説。
三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近く にあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は安永年間(1772~80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854~59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。
(以上「東京散歩・東京散策」HPより)

隅田川左岸(東)のテラスにあるギャラリー。地元の中学生の共同制作作品が展示されています。
「両国公会堂」。ドーム(球形)の屋根が特徴。南隣が「旧安田庭園」。

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「五つの銅貨」(古きよき映画シリーズその3)

2012-11-09 22:29:10 | 素晴らしき映画
 劇場では観たことがありませんでした。今回初めて。
 1920年代。田舎町からニューヨークへ出てきたコルネットの得意な青年レッド・ニコルズ。歌手のボビーと結婚して独立し、若き日のトミー・ドーシーやグレン・ミラーも加わった、デキシーランド・ジャズ・バンド「ファイブ・ペニーズ」楽団を結成、旅から旅への巡業。娘のドロシーも産まれ、仕事、家庭も順調に。
 だが、そんな矢先、ドロシーが小児マヒにかかってしまった。ニコルズは娘の治療に専念するため楽団の解散を決意し、愛用のコルネットもゴールデンゲートブリッジから投げ捨てて、ロサンゼルスで造船所の職工になる(第二次世界大戦前夜で造船業も活気が出始めた頃)。
 懸命な介護の結果、不自由な身体ながらも成長していくドロシー。ニコルズの家にドロシーの友達が遊びにくる。造船所でかつての仲間が晴れやかに演奏するのを、横目で見ながら帰宅する労働者姿のニコルズ。ボビーがコルネットを持ってきてニコルズに手渡すが、彼は満足に吹くことができなかった。
 しかし、ボビーやドロシーの励ましの中、ニコルズは必死に練習を重ね、やっと場末のクラブで復帰することに。しかし、彼の名は世間からすっかり忘れられ、客はさっぱり集まらなかった。がっかりするレッドの前に、突然、ルイ・アームストロングがドーシーやミラーなど、かつてのメンバーを引き連れて現れ、セッションが始まった。そして、娘ドロシーから最高のプレゼントが・・・。
 実在のコルネット奏者レッド・ニコルズ (Red Nichols) の奇跡のカムバックを軸としながら、彼と妻ボビー、娘ドロシーとの家族愛を描いた映画。
 ルイ・アームストロングが本人役で登場してトランペットを演奏します。レッド・ニコルズ本人も、画面には登場しないが、コルネット演奏の吹き替えを行っています。ニコルズ役のダニー・ケイ、さすが最高のエンターテイナー、出色の出来(「谷啓」さんはこの人の名をもじってつけた。ただし、谷啓は、トロンボーン奏者)。
 映画の中で、“五つの銅貨”、“ラグタイムの子守唄”、“リパブリック賛歌”、“聖者の行進”・・・。すてきな曲が次々と豊かに奏でられます。
 ニコルズとサッチモの「聖者の行進」。掛け合い、サッチモの真似、言葉遊び・・・。またニコルズとその愛娘とサッチモが酒場で同時に別の歌を唄うシーン、など音楽的にも楽しい。

 CM用のラジオ録音の失態シーン(ハワイアン、コザック、カーボーイ。今もあるメーカー名が出てきます。)。ダニー・ケイは実に愉快で小気味よい才能を発揮していました。そのシーンを含めて、何度観ても楽しく心温かくなるシーンがたくさんありました。
 当時の時代背景も感じさせ、人物描写と生の音楽を組み合わせ、そして、ラストシーン。年を取ってずいぶんと涙腺がゆるくなったことを実感しました。
 ダニー・ケイが「ニューヨークフィル」を指揮した音楽映画(YouTube)がありますが、これもまた楽しく、すばらしい出来。楽譜も読めない彼が見事に機転の利いた指揮をする。合間での会話のおもしろさ。何度観ても飽きません。
 そういえば、昔(20年以上も前)、浅草にお酒を飲みながら、デキシーランドジャズ(「園田憲一とデキシー・キングス」?というバンドなども出演していた記憶が・・・)を中心に生演奏を聴かせてくれるお店がありました。今もあるのでしょうか?
 かつて(30年以上も前)、近所の公立の図書館からLP(ジャズのアルバム)をたくさん借りてきては、テープに保存していたこともついでに思い出しました。
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隅田川。隅田公園。(隅田川の渡し跡番外編)

2012-11-08 20:55:28 | 隅田川

 隅田川沿いには記念碑・歌碑などが隅田公園内に、また、隅田川にまつわる歴史、絵図などがテラスの壁面(「隅田川ウォールアートギャラリー」)に掲示されています。そのいくつかをご紹介。
火消しの纒。河口より7.9㎞。
「両国夕涼大花火之図」(歌川国虎作)。
「今戸橋之図」(天保年間・歌川広重作)。
「今戸橋雪」(明治前期・井上安治作)。以上は、桜橋乗船場のテラスにあり、「江戸博」に現物有り。
「花」(滝廉太郎)の碑。「春のうららの隅田川・・・」(隅田公園内・隅田川和右岸・台東区)
「羽子板や子はまぼろしのすみだ川 秋櫻子」の碑。水原秋櫻子の句碑。
 秋櫻子の句、他には、
・ふるさとの沼のにほひや蛇苺
・梨咲くと葛飾の野はとの曇り
・来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり
・瀧落ちて群青世界とどろけり
など。
 公園内には他に正岡子規の句碑などがあります。

「明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯」の碑。(隅田公園・隅田川左岸・墨田区)
 隅田公園は、関東大震災後の復興計画の中で、、三大公園(あとの二つは浜町公園と錦糸公園)の一つとして計画されました。隅田公園は、隅田川の両岸にあって、徳川吉宗以来、桜の名所であった隅田川堤と旧水戸藩邸の日本庭園(墨田区側)を取り込み、和洋折衷の大規模な公園として整備されました。
隅田公園。
「明治天皇海軍漕艇玉座趾」の碑(昭和16年建立。「枕橋」近くの堤脇。)
明治15年以来たびたび訪れたとのこと。
そのそばにある国旗掲揚塔(昭和16年建立)。
 この碑や白髭橋脇の碑など、隅田川には明治天皇の行幸にまつわる記念碑があります。

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今戸の渡し。竹屋の渡し。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その2)

2012-11-07 19:39:36 | 隅田川

 「白髭橋」から「本所吾妻橋」付近まで。
「橋場の渡し」付近(明治13年頃)。中央下に「橋場の渡し」とある。西岸に町家が集まっているようすが分かる。鐘淵付近は古代の東海道があり、重要な渡し場であったが、隅田川の流路はかなり変化していたようで、渡し場の位置も不明確。現在の(西岸)「橋場1、2丁目」(東岸)「堤通1、2丁目」付近。 
 「白髭橋」の西詰付近・「橋場」は古くから歴史的な土地柄だった。江戸時代にも風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並んでいた。そのため有名な料亭なども多く、華族や文人などが出入りしていた。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とくに三条実美の別荘である「對鷗荘」が「橋場の渡し」の西岸にあった。
「白髭橋」西のたもとにある「明治天皇行幸對鷗荘遺蹟」。
「對鷗荘跡」という掲示(台東区教育委員会)。それによれば、征韓論を巡って政府内の対立が続いていた明治6年、心労のあまり病に倒れこの別邸で静養していた三条実美のもとを明治天皇が訪れた、とのこと。なお、「對鷗荘」は昭和3(1928)年、白髭橋架橋工事に伴い、「多摩聖蹟記念館」に移築されている。
「白髭橋」の由来碑。かすれてしまってほとんど判読不可能。

上流の自転車通行道は「カミソリ堤防」のために隅田川の流れは全く見えない。河岸にはテラス・遊歩道がある。
かなりの高さの堤防面。民家の地面は数㍍下。
明治13年頃の白髭橋下流付近。左下の流れは、「山谷堀」。右に見える土手道が現在の「墨堤通り」の前身。赤い橋が「桜橋」。
「白髭橋」と「桜橋」の中間地点付近のテラス。おだやかな「大川」の流れ。遠くにスカイツリー。
案内板。1905(明治38)年に始まった伝統の「早慶レガッタ」と天保通宝を鋳造していた「橋場の銭座」の説明があります。
壁画3点。
「凌雲閣機繪双六」明治23年11月作。
河口より8㎞(隅田川右岸)。
「山谷堀」に架かっていた「今戸橋」。
・今戸の渡し
 「寺島の渡し」とも称される。現在の桜橋の上流付近にあった渡し。橋場に対して、新しく作られたということで「今」戸と呼ばれたという。
「桜橋」を望む。

「竹屋の渡し」跡碑。
説明板。
「竹屋の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。
・竹屋の渡し
 「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。
「山谷堀」跡の緑道公園。
「山谷堀」は吉原通いの舟が往き来していた堀。
対岸(墨田区)を望む。
「桜橋」東詰の少し北。牛島神社境内にあった「常夜燈」。「竹屋の渡し」の目印になった、という。
明治の頃のようす(案内板より)。上の写真の右手に「常夜燈」が見える(現在地のまま)。
対岸(台東区)を望む。
「言問橋」。

「山の宿(しゅく)の渡し」跡の碑。

・山の宿の渡し
 吾妻橋の上流、東武鉄道・隅田川橋梁の付近にあった渡し。渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名されたようです。また、「花川戸の渡し」と称されたり、東岸(対岸)の船着場が北十間川・枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも。
 ただgoo提供の明治古地図(年代不明)には、「枕橋の渡し」「山の福の渡し」と表記されている。「福」は「宿」の誤りか。その地図には、少し北の隅田川沿いに「山の宿郵便局」と記載された郵便局がある。 
現在の「枕橋」から隅田川方向を望む。「枕橋」は、北十間川(スカイツリー南側の流れ)に架かっている橋。水門で隅田川と結んでいる。
明治13年頃。北十間川と曳舟川が見える。曳舟川の東付近に「スカイツリー」。隅田川沿いは両岸とも「隅田公園」。

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「人にやさしい都政をつくる会」声明 全文転載。

2012-11-06 19:15:09 | 平和
<声明>私たちは新しい都政に何を求めるか

惨憺たる石原都政の一三年半であった。
福祉は切り縮められ、都立病院は次々と統廃合された。都民の安心を奪い、人々を生き難くさせて切り詰めたお金は、都市再開発や道路建設に回され、知事が旗を振るオリンピック誘致や新銀行に無意味に蕩尽された。

惨状を極めたのが、教育現場である。民主主義が破壊され、強制と強要と分断が横行した。教師たちは誇りを踏みにじられ、精神を病み、教壇を離れていった。子どもたちは競争に追いやられ、教室は荒んだ。都立大学は破壊されてしまった。

知事の思いつきと独善、押し付け、決め付け、他者を命令・服従の対象としか見ることができない貧困な想像力、剥き出しの偏見と差別意識、公私混同、乱暴な言葉――それらが多くの人の心を傷つけ、公正と公平を貶め、排外主義を助長し、弱い者をさらに追い詰め、社会を荒廃させた。

昨年3月11日の東日本大震災と福島原発事故は、改めて私たちに、原発に依存する暮らしのあり方、社会のあり方に反省を迫るものだった。福島や新潟にある 原発から生まれた電気は、ほとんどすべて東京など、首都圏に送られ、使われているのだ。震災と原発事故直後の石原知事の発言は、「津波をうまく利用して、我欲を洗い流す必要がある。これはやっぱり天罰だと思う」という驚くべきものだった。さらに、原発事故による未曾有の被害が徐々に明らかになり、おびただしい人々が避難生活を余儀なくされているとき、市民の間で広がり始めた脱原発運動を罵倒しつづけてきた。

そして最後は、東京都政とは何の関係もない尖閣問題に火をつけ、日中関係を極度に悪化させ、経済を大混乱させたのである。その挙句、何の責任も取ることなく、知事職を放り出した。この尖閣問題の経過ほど、石原都政の年月を象徴しているものはない。

来る都知事選は、このような都政と訣別し、人々が人間らしく生きられる街、平和と人権を尊び、環境と福祉を重視する、いわば「当たり前の都政」に転換する絶好の機会であると私たちは考える。

石原都政の継続や亜流を、決して許してはならない。
自治とは、住民の暮らしを守り、福祉を増進させることを本旨とする。教育とは、自ら学び考え、議論を深め、合意を作り上げていく、民主社会の次の担い手を育てることである。東京都政を、こうした自治の原点に戻さなければならない。荒れ果てた教育現場を建て直し、次の世代と私たちの未来を救わなければならな い。

あまりにも、いまの時代は人々が生きづらい。失業、非正規労働、過労、格差・貧困の拡大と福祉の切り下げによって、若者も子育て世代も高齢者も苦しんでいる。その上、国政は、混迷、混乱に加えて右傾化の度合いを増し、改憲や集団的自衛権の行使、近隣諸国との紛争に突き進んでいるように見える。この流れを止めなければならない。

いま、東京都知事を変えることは、日本の右傾化を阻止する力になると私たちは考える。
では、どのような都知事を私たちは求めるか。

第一は、日本国憲法を尊重し、平和と人権、自治、民主主義、男女の平等、福祉・環境を大切にする都知事である。

第二は、脱原発政策を確実に進める都知事である。石原知事は、原発問題を「ささいな問題」と呼んだが、冗談ではない。東京都民は福島原発からの電気の最大の消費者であり、東京都は東京電力の最大の株主だ。福島原発事故の結果、豊かな国土が長期にわたって使えなくなり、放射能汚染による被害は、むしろこれから顕在化する。原発事故と闘い、福島をはじめとするこの事故の被害者を支えることは東京都と都民の責任である。これまで原発推進政策を推し進めてきた政官業学の原子力ムラと闘うことは、この国の未来を取り戻すことである。政府、国会、経産省、東電を抱える東京での脱原発政策は、国全体のエネルギー 政策を変えることになる。

第三は、石原都政によってメチャメチャにされた教育に民主主義を取り戻し、教師に自信と自律性を、教室に学ぶ喜びと意欲を回復させる都知事である。

第四は、人々を追い詰め、生きにくくさせ、つながりを奪い、引きこもらせ、あらゆる文化から排除させる、貧困・格差と闘う都知事である。

以上のような都知事を私たちは心から求める。このような都知事を実現するため、私たちは全力で努力する。
2012年11月6日
赤石千衣子
雨宮処凛
池田香代子
稲葉剛
上原公子
内田雅敏
内橋克人
宇都宮健児
大江健三郎
岡本厚
荻原博子
奥平康弘
海渡雄一
鎌田慧
河添誠
北村肇
木村結
小森陽一
斎藤駿
斎藤貴男
早乙女勝元
佐高信
佐藤学
澤田猛
澤藤統一郎
柴田徳衛
品川正治
杉原泰雄
高田健
俵義文
崔善愛
辻井喬
暉崚淑子
寺西俊一
中山武敏
西谷修
堀尾輝久
前田哲男
山口二郎
渡辺治
以上、40 名
(11 月5 日23 時現在)

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汐入の渡し。汐入水門。橋場の渡し。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その1)

2012-11-05 21:52:48 | 隅田川

 ということで、今回は隅田川の渡し跡を訪ねて+&。千住汐入大橋から吾妻橋まで隅田川のテラス沿いに探索、ついでに隅田川をはさんで東西の隅田公園。さすが江戸の大川(隅田川)。明治末期に開削された荒川(放水路)と比べて、古今の見所がけっこうあります。今回は、「白髭橋」まで。
明治13年頃の地図。隅田川をはさんだ千住の宿。千住大橋から汐入大橋付近。隅田川の水路が極端に曲がり、汐入地区付近は湿地帯で、常に水害の被害に見舞われていたことが推測されます。
「千住汐入大橋」。
・汐入の渡し
 現在の千住汐入大橋付近にあった。1890年(明治23年)から1966年(昭和41年)まで汐入(現在の荒川区南千住八丁目)と千住曙町の鐘淵紡績会社を結び、工員たちの通勤用として運行されていた。隅田川で最後まで運行されていた渡し、とのこと。

1966(昭和41)年当時の汐入地区のようす。右中央付近が、その後架けられた「千住汐入大橋」。右上から流入しているのが「綾瀬川」。下端の橋が「白髭橋」。「汐入水門」も見える。遊歩道沿いにあった案内板をたてよこ修正。「水神大橋」は、上中央付近に架設された。「千住大橋」から「白髭橋」の間に二つ架橋されたことになる。
下流を望む。「水神大橋」付近。
「水神大橋」西詰付近の物見塔?
・水神の渡し
 現在の水神大橋の100mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡し。
 
 この付近は再整備されて、「スーパー堤防」となっている。
この地域の再開発事業についての解説板。
「旧防潮堤」。「汐入」という地名のごとく、0㍍地帯で水害に悩ませられていた地域。
「水害防止」のため、かつてはカミソリ堤防として、隅田川の水面と人との関わりを阻んでいた。今でも上流付近に残っている。
整備記念のモニュメント。
「水神大橋」を望む。
河口より10㎞の地点。
「汐入水門」跡。
 この水門は「隅田川貨物駅」構内に掘り込まれた運河の水位を調整し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、1953(昭和28)年に建設された。「隅田川貨物駅」は1897(明治30)年に石炭(常磐炭鉱)の集散地として開設された。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのために運河が造られた。
コンクリート製の構造物が残っている。
水門跡から隅田川を望む。この付近は大きく変貌し、高層マンションの他、大きな公園が出来ている。
隅田川下流を望む。
対岸・綾瀬川合流付近。左手に「伊澤造船」が見える。
野鳥の群れ。いっときの、濁り悪臭を放って魚も鳥も人も近寄れなかった隅田川。見違えるほどすばらしい景観になりました。
「白髭橋」。
・橋場の渡し
 「白鬚の渡し」とも称される。記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い渡し。現在の白鬚橋付近にあった。律令時代より制定があり、承和2年(835年)の太政官符に「武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在4艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので2艘から増船した」と書かれたものが残っており、この「住田の渡し」とはこの渡しと想定されている。
 奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。
 

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「シェルブールの雨傘」(古きよき映画シリーズその2)

2012-11-04 12:55:14 | 素晴らしき映画
監督・脚本: ジャック・ドゥミ
音楽: ミシェル・ルグラン
 
出演: カトリーヌ・ドヌーヴ
   ニーノ・カステルヌオーヴォ
   マルク・ミシェル
   エレン・ファルナー
   アンヌ・ヴェルノン
 1964(昭和39)年制作のフランス映画。まだ高校生の時。考えてみたら東京オリンピック開催の年。JR錦糸町駅近くの映画館で観たのかもしれない。その頃は、けっこう映画を観ていた。
 1957年から1963年まで。アルジェリア戦争(フランスからの独立戦争)の最中。戦争(召集)をはさんでの恋人同士の物語。
 ラストシーン。クリスマス前の雪の夜、ギィの経営するガソリンスタンドに入ってきた車の運転席にはかつての恋人・ジュヌヴィエーヴ、助手席には娘のフランソワーズ(実は自分との間の子)。短い言葉を交わし、車はスタンドを出ていく。俯瞰撮影に重なって降りしきる雪の中、テーマソングが流れる。
 日常会話など台詞すべてが旋律に乗って語られる。流れるようなフランス語の響き。最初観たときにはその新鮮さに驚いた。ミシェル・ルグランの音楽がすばらしい。ずいぶんと若い頃観た映画だが、ふとしたときに、旋律が浮かんでくることがあった。そんな映画を何十年ぶりに・・・。
 オープニングの雨傘の行き交う港町の風情。一転して自動車修理工の激しいリズムに変わっていく、その音楽的なつながり・・・。
 シュルブールは、重要な軍港の一つ。第二次世界大戦中にはドイツ軍によって占領された。1944年、連合国によるヨーロッパ侵攻にあたって、シェルブール港は重要な攻略目標となり、ノルマンディー上陸作戦に引き続いて、激しい攻防戦の舞台となったという歴史を持つ港町。そこを舞台にしたということに大変興味を持った記憶がある。当時、オリンピックをきっかけにして、戦後の混乱期を乗り越え、高度経済成長へのただ中にあった時期でもあったか。一方で、戦争によって引き裂かれた二人。シェルブール駅での別れの場面の感動も、年老いて再び蘇ってきた。今観てもストーリー的にそれほど複雑な展開もなく、予定調和的。しかし、音楽的な美しさをまったく失わせていないことに改めて感動。
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「フィールドオブドリームス」(古きよき映画シリーズその1)

2012-11-03 12:39:38 | 素晴らしき映画
 暇に任せて、読書と地域探索にいそしんでいる今日この頃。しかし、小さな活字には目も疲れ、それに合わせて次第に読解力も衰える。午後に出歩くのも膝の痛みが・・・、いやはや。
 そこで、昔、若い頃観た映画を、実は「TSUTAYA」の「シニア1日・1本無料」の誘い文句につられて(1本だけ無料で借りるのも後ろめたく、ついもう1本100円で借りてきて。うまい商法にはまっているわけですが)何本か観ました。その中でいくつか「映画鑑賞」。

 アメリカ・アイオワ州。主人公・レイ・キンセラは、妻と愛娘の3人家族。広大なトウモロコシ畑を耕している農業生活の中で、平和だが平凡な日々を送っていた。36歳、野球好きなレイは、今まで型破りなことは何もしたことがない(ただ、父と意見が合わず家を飛び出し、父が死ぬまで一度も会うことがなかった、という過去は持っているが)中年の男。ケビン・コスナーが、いい雰囲気を出しています。
 そんな春の夕暮れ。成長し始めたたトウモロコシ畑で農作業をしていたレイはある"声"を聞く。"それを作れば、彼はやってくる。" と。

 ここから、ファンタジックな物語が始まります。
 1957年に他界した伝説の大リーガーシューレス・ジョー(亡き父にとってヒーロー)、1919年のワールドシリーズで八百長試合をしたかどで球界から永久追放されたメンバー8人、作家・テレンス・マン、一試合で球界を去ったムーンライト・グラハム・・・。挫折し(させられ)、失意のうちに亡くなった人々との魂の交流。その極みが、主人公と亡き父の、若い頃の父とのキャッチボールのシーン。
 この世にはすでにいない人たちと、トウモロコシ畑をつぶして野球場をつくったために土地を手放さなくてはならない現実の世界。それらが互いに奇妙に交錯しながら話が進んでいきます。

 まさにスピリチュアルな世界。親子の「キャッチ・ボール」という設定が心憎い。
 とりわけ、父親と息子の思いのずれ、葛藤、争い、そして後悔・・・は、どこでも、いつの時代にもあるもの。そして、ラスト。球場に向かってたくさんの車の光の帯。「癒やし」を求めてなのでしょうか。
 エンディングのテロップ「すべての親たちに捧げる」には参りました! 若い頃、ほとんど会話もないまま父を失った過去と、成人し一家を構える息子たちとの関わりという自らの人生に重ねて・・・。
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読書「ファシズム」(山口定)岩波現代文庫

2012-11-01 21:28:37 | 読書無限
 示唆に富んだ一冊でした。その中から本文を紹介。
 
ファシズムの思想
(1)その国民社会が陥った深刻な「統合の危機」を、ナショナリズムの激しい高揚と強烈な「指導者」崇拝によって克服しようとする試みである。
(2)単なる保守反動と異なるところは、既成の伝統的な支配体制のかなり思い切った―しかし権威主義的な―再編成を求めることにある。その場合の再編成の構想は、マルクス主義的社会主義運動に対する激しい敵対と既成の伝統的支配層への反発に由来する独特の二面性(もしくは両義性)を示す。
(3)そうなるのは、ファシズムの思想がその国の支配層の危機意識ばかりでなく、政治的・社会的没落の危機に瀕した中間的諸階層の危機意識をも強烈に反映しているからである。 

ファシズムの内容
(1)「民族共同体の解体を図る者」に対する暴力の肯定、「指導者」原理による国家と社会の再編成、「民族性」の強調と「民族共同体」の再建、強大な「権力国家」の建設と「民族の活力を引き出し、民族の生存の維持とそのさらなる発展を図る」ための戦争の肯定と賛美。(2)反社会主義(反マルクス主義)、反自由主義(反議会主義)、反国際主義であると同時に他方では多くの場合、単なる保守主義にも伝統主義にも、そして金権主義的な「資本主義」にも反対するという「既成思想の全面否定」。
(3)①理性に対する心情、感性、直観、行動、暴力の優位を説く「生の哲学」②差別を合理化し「強者の権利」を説く「社会的ダーウィン主義」と二つの要素を混合したファシスト特有の人生哲学と社会哲学が、合理主義と啓蒙主義、要するに「フランス革命の精神」に対置される。(本書P28より)
 
 主にドイツとイタリアのファシズムについて分析評価した書です。筆者も主張するとおり、日本の天皇制の下での軍部独裁という、上からのファシズムとは異質な面もあります。
 が、今日的な政治情勢の中では、思想的傾向や内容に関して、「維新」や「イシハラ新党」など気になる動きが出現していることにもっと関心を払うべきではないか、と思いました。
 両者とも、現段階では、議会制民主主義制度の下で、民主・自民に代わる「第三極」の組織つくり・多数派工作となっていて、現・元議員、立候補者などを組織化していくことが中心です。議会において多数派になることで、国家機能の根本的な変革を実現する、となっている点がドイツ・イタリア、あるいは戦前の日本とは異なっているように見えます。
 特に、今のところ、ドイツやイタリアなどであったように、一般国民・大衆の中にこうした政治運動を支えるような運動組織体をつくり、日常的(地域的・全国的)な活動を展開する方向性はまだはっきりとはしていません。インターネットを駆使した賛同者つくり、組織(とまでいえるかどうか)つくりは盛んにやっているようです。反対者への陰湿な攻撃なども含めて。
 ナチ党は政権掌握のかなり以前から、政治組織を現存体制への攻撃に専念する「攻撃」部(正式には「政治組織第一部」。外国、新聞、組織の3部局)と、将来のナチ国家の幹部集団を用意する「建設」部(正式には「政治組織第二部」。農業、経済、民族及び文化、内務、法律、工業、労働の各部局)の二部門があって、大衆掌握と政権掌握という目的に照準を合わせ、確固たる組織化の意図をうかがわせる体制つくりがなされていた。そうとらえ直すと、中国などの外国・「朝日」などのマスコミへの徹底した攻撃、一方で人材発掘・活用・育成など、「橋下」維新あるいは「イシハラ新党」の組織の方向性を、今回の一連の動きの中で感じないわけにはいきません。
 もし、そういう「草の根」からの支持行動組織つくり、一方で上からの指導体制つくりが始まり、あらゆる権力・陰謀などを駆使し、反対勢力粉砕に向けて、有無を言わせぬ暴力装置としての機能を組織として持ち合わせるようになったならば、いっそう危険な段階に入っていくようになるのではないか。
 大阪での施策、イシハラ発言、アベ発言などを見ると、現憲法の廃棄・労働組合運動への徹底した非難、解体・日教組を元凶としての教育改革・議会の無力化・防衛・核装備・軍隊・徴兵制・・・、政策的にはかなり危ういものを感じます。
 ヒトラーは、運動体・組織を見事に活用し、反対派を徹底的・暴力的に粉砕していきながら、その実力を背景として、当時にあっても合法的(選挙による)にあれよあれよという間に政権党になり、国家統治していったのだから。そんな心配をしなくてもすみそうならいいですが。
 橋下さんに比べて、イシハラさんは一人で舞い上がっている感じ。「たち日」のメンバーの平均年齢、72歳。政界ではすでに過去に近い人達の集まりのような印象。イシハラさん、「たち日」のメンバーを非情にも切っていけば、活路は出てくるか(より危険ですが)。そうではなくて数あわせでごたごたしているうちは、別の意味で安心。しかし、インターネットの世界では「イシハラ」賛美が渦巻いています。
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