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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

四季の路。花道通り。大久保病院。水源。西武新宿駅。・・・(「蟹川」跡をたどる。その5。)

2013-06-15 17:38:08 | 河川痕跡
 再び、「蟹川」跡をさかのぼります。人通りも多くなってきました。

「明治通り」方向。左の角が「日清食品」ビル。
道の途中にあった「新宿眼科画廊」きらびやかな布製の作品が回っていましたが。ネーミングがおもしろい。
「四季の道」入り口付近から来た道を振り返る。「新宿ゴールデン街」の北。一段と賑やかな通りになります。
「蟹川」跡。その後、都電が通っていました。
左が「四季の道」かつて都電線路跡、右が「蟹川」流路の跡。
「新宿遊歩道公園 四季の路」。

 「新宿遊歩道公園 四季の路は、昭和45年3月に廃止された都電13系統(新宿駅前~水天宮前)の専用軌道敷を、新宿区が東京都より譲渡を受けて整備し、昭和49年6月24日に遊歩道公園として開園しました。
 失われつつある都心の緑の回復と、住民が安心して憩える場を提供するため、ビルの谷間に武蔵野の面影をしのばせる緑を再現しました。
(「新宿区」HPより)

かつてのようす(HPより)。新宿駅方向を望む。
店舗の裏手を進む。かつては専用軌道でした。

 約260mの細い遊歩道で、ゴールデン街の脇を通り、遊歩道が続いています。緑は豊かなですが、「靖国通り」~「明治通り方向」の「裏道」「早道」といった感じで利用されています。
1960年代後半のようす。赤い線が現在の遊歩道。赤丸が「新田裏」地域。青い線が「蟹川」跡らしき道。(明治通りと都電通りに挟まれた地域)にあるのが、旧「新宿区立四谷小学校」。戦後しばらく使われていましたが、1995(平成7)年に閉校。その跡地は、2008年から大手芸能プロダクション・吉本興業「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」のオフィスとして使われています。すぐ南に隣接する神社が「花園神社」。
案内図。
「四季の路」をそのまま行くと、靖国通りへ。「蟹川」跡の道とは離れてしまいます。

《新宿ゴールデン街》
 歌舞伎町1丁目1番にある飲食屋街。新宿駅周辺には関東尾津組の尾津喜之助、飯島一家内山2代目和田組の和田薫、東京早野会初代分家安田組の安田朝信らのテキヤらが開いた闇市があったが、それらがGHQの意向により整理・撤廃が始まったのが昭和24年秋。様々な交渉、やりとりがあった末、露店は13系統の都電脇(現在地)へと移転が行われることになり、当時、都は転廃業者には更正資金を、集団移転をする業者にはマーケット建設資金の斡旋を行った。同26年暮れには都内の殆どの露店・闇市は消え去ったという。「三光商店街」といったこの街のマーケット、建物は木造3階建て地上部分は商店や店舗、2階は住居、3階は屋根裏部屋という構造の長屋だったが、同33年の売春防止法施行後、やがて現在の「ゴールデン街」と呼ばれる街の形を形成していくことになる。(上記の写真にも写っています。)
 昭和39年東京オリンピック開催に伴い、国際都市東京という名目の下に、前述の売春防止法が施行されたり、風俗店に対する取締強化が行われた昭和40年代に、この街も一時は時代の流れに飲み込まれようとしていた時期がある。やがてゴールデン街として1950年代の雰囲気を残す昭和レトロな街並みが人気を得て活況を呈するが、バブル期の平成2~12年頃、この場所も地上げの嵐に見舞われる。
 再開発を目論む西武の堤義明が銀行から巨額の融資を受け、たった3、4坪の土地と建物を億単位で買収、一時テナントの立ち退き料は1000万円を越えていたという。一時200軒を越えた飲み屋がひしめいていたゴールデン街は140軒以下となり、虫食いだらけ。また平成7~15年にかけ6件の火災が起きているが、その内の何件かは地上げ絡みの不審火と見られている。
 平成12年3月1日より施行された「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」(いわゆる「定期借家法」)により、地権者が再開発をいずれ考えているにしても立ち退き料を考えずにスペースを貸せるようになったことで、さまざまな店が出店、再びゴールデン街に人が集まってくるようになった。
 現在約250軒の店舗があり、戦後、この街が誕生して以来最も賑わっている最盛期にあるといってもいいかもしれない。再開発自体が頓挫し、計画そのものがなくなってしまったということが背景にある。
 
 以上、『東京の地名の由来 東京23区辞典』から一部引用。このHPは微々入り細に入りよくここまで徹底して調べ上げたという内容で、いつも大いに参考にさせていただいています。(《歌舞伎町》の項も同HPからの拝借しました。)

《歌舞伎町》
 もと角筈村の内。江戸時代は大筒角場(試射場)の一部・旗本石川氏ほかの武家地・大久保の森林。かつてのコマ劇場の所は戸山・早稲田を流れた蟹川の谷頭の一つで池というか沼というか森林の湿地帯だったという。平成20年新宿コマ劇場閉館のことが伝えられた時の土地の人へのインタビュー時に「昔は沼で葦が一面に生えていたよ」といっていたから、そう遠くない昔にはそういう景観だったのだろう。府立第五女学校(都立富士高校の前身)の写真では沼は写ってないが、周りに建物は全くない。この湧水・湿地帯からの蟹川の流れが「大窪の沢」で、大久保の地名の由来だ。
 明治に入ると大村子爵の所有となり〝大村の森〟と呼ばれて有名な鴨場となった。同22年柏木村と角筈村が合併して淀橋町となり角筈はその大字とされた。大村の森は明治30年代に尾張屋銀行の頭取峯島茂兵衛が買い取って森林を伐採し、淀橋浄水場の開設のため掘り上げた土で沼を埋め、沢もならしたため、今度は〝尾張の原〝と呼ばれるようになり、大正9年にはコマ劇場のところに府立五女が開校、花も羨む乙女の花園となった。四月女学校の桜木の爛漫たる美しさは譬えようがなかったという。女学生の似合う町だった。
 昭和7年淀橋区が成立して角筈1丁目の内となり、そして戦災、新宿は一面焼野原となった。同23年4月1日角筈1丁目の北半と東大久保3丁目の一部をあわせて歌舞伎町とした。昭和53年歌舞伎町に東大久保3丁目・角筈1~2丁目・柏木1丁目の各一部をあわせた町域を1丁目、西大久保1丁目の一部を2丁目として現行の「歌舞伎町」が新住居表示を完了した。
 (参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『新宿区史』『新宿区町名誌』など)
《歌舞伎町の由来》
 昭和20年角筈一丁目北町町会長鈴木喜兵衛は、復興協力会を立ち上げて府立五女(中野区に移って富士高校)の跡地を含む一帯を、銀座と浅草をミックスしたような庶民娯楽センターにして、歌舞伎の「菊座」をはじめとして映画館・演芸場・ダンスホールなどを集中した歓楽街を作ろうと計画、区画整理を行い、昭和23年角筈1丁目の北半と東大久保の一部を併せた町域を、時の都知事安井誠一郎が「歌舞伎町」と命名した。名付け親は地域にふさわしい名前ということで都建設局長石川栄耀(ひであき)が「歌舞伎座建設が目的なら」と提案したのが採用されたものだ。しかし種々の理由により歌舞伎劇場建設は頓挫した。そこで計画されたのが日米合弁の国際百貨店構想だが、それも資金のめどが立たず不発におわった。それで当時日本各地で開かれていた内国博覧会を開催することとし、同25年東京産業文化平和博覧会を開催したが6千万円もの大赤字を背負い込んだ。しかし怪我の功名、残った施設が娯楽施設に転用できて、結果として本来の目的が達成できることとなった。この町が歓楽街になったのは同28年頃からで、同31年「菊座」に代わる「新宿コマ劇場」が誕生し、同32年頃に追分(伊勢丹百貨店の一帯)の賑わいを抜いた。菊座こそ立ち上がらなかったがコマ劇場は庶民娯楽の殿堂として君臨した。なお戦前、新宿3丁目33番三越南館(大塚家具)のところに新歌舞伎座があった。

 以下足早に。
いよいよ歌舞伎町の繁華街に。
何だかかつての川の流れを想像できそうな道筋。
ここも、川筋らしい曲がり方の道路。
「コマ劇場」跡の再開発計画。着々と工事が進んでいます。花道通り(旧「蟹川」水路)の南に面しています。
右手奥が「大久保病院」。
水源の一つに想定される「大久保病院」。豪華な建物です。
そこから歩いて来た道(「蟹川」跡を振り返る)。
遠くに西武新宿駅が見えます。
この先の駅舎下あたり(歩道との際)が水源地?
その足下の歩道には四方の地名のはめ込みが。同じ方向にある地名、取り合わせがおもしろい。沼津と沖縄、富士山と熊本・・・。それに東西南北の方向は合っているが、指す方向が微妙にアトランダム。
 
 ようやく終点に着きました。今回は、自転車でなく徒歩で(ただし、2回に分けて)。行ったり来たり・・・、いい運動になりました。そして、歩いてみて初めて実感できる痕跡探しの旅でした。下流から上流(水源)へ。約5㎞、約30㍍の高低差(神田川からここまで)のようです(「今昔マップ」によれば、「西武新宿駅」付近が標高33㍍、神田川合流点が5㍍。標高を追っていくと流路も何となく類推できます。)。いろんな方々(TV番組も含めて)が「蟹川」跡を探訪していることにも驚き! 今度は、やはり「渋谷川」上流跡の探訪になりますか? それとも・・・。


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自転車操業国家

2013-06-14 19:05:01 | 格言・ことわざ
アベノミクス第3の矢 日本再興戦略 力不足 4の矢、5の矢準備(フジサンケイビジネスアイ) - goo ニュース

いよいよ自転車操業へ。お札は刷り放題、なけなしの年金資金も何もかもぶち込んで株価アップに狂奔するアベ内閣。
マスコミも朝から夜まで株が、円が、上がった、下がった。新聞は、朝刊も夕刊も一面トップ。5の矢がダメなら6、7と。
アベさん先頭にバブル再来を・・・。そう思う通りにはいくのか?
挙げ句の果ての狂騒劇、その後始末はきちんとつけてくれるのでしょうね。またしても、遁走ですか? 
経済がすべてではないはずなのに、国家の運営は。
一億「躁」状態、その反動は、深刻なソウ「鬱」。

※「自転車操業」=自転車はペダルを漕ぎ続けることで安定した走行ができるが、漕ぐのをやめるといつかは転倒してしまう。この自転車の状態を経営収支に見立て、ペダルを漕ぎ続けることを操業とし、停止すると転倒、つまりは倒産する状態を喩えている。
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「グレンミラー物語」(古きよき映画シリーズ。その35。)

2013-06-13 19:26:25 | 素晴らしき映画
 若いトロンボーン奏者グレン・ミラー(ジェームズ・スチュアート)は、新しい音楽サウンドの創造に情熱を燃やしているが、商売道具のトロンボーンを質屋に出し入れするという苦しい生活を続けている。偶然、グレンの編曲した作品がベン・ポラック(自身の出演。もちろん当時は若かった!)の耳にとまり、ポラックの楽団の編曲助手として採用される。

 演奏旅行中、デンヴァーに来たとき、グレンは大学時代の女友達ヘレン(ジューン・アリソン)に電話をかけ、真夜中に彼女を訪れた。彼はヘレンとは2年間も音信不通であったが、ヘレンの方も実はその気があったことが分かる。

 グレンは、ポラックの許を去ってニューヨークで2年間編曲に苦しんでいるとき、街角でふと聞いた二人にとっての想い出深い曲・「茶色の小瓶」のレコードから長距離電話でヘレンを呼び出して結婚を申込み、家を飛び出し3日かけてやってきたヘレンとニューヨークの小さな教会で結婚式を挙げる。
結婚式の晩、サッチモとの共演。
 ヘレンはグレンにすすめて自分の楽団を組織させ、6ヵ月後ボストンに出演することになったが、途中雪道での車の故障でキャンセル。妊娠中のヘレンも健康を害し入院してしまった。(初期の頃の自動車が次々と登場。)
 ボストンのホールでのリハーサル中、トランペット奏者が唇をいためたため、クラリネットにかえて演奏させたところ、これがきっかけで「グレン・ミラー・サウンド」の誕生となり、評判になる。大当りがつづき、レコードも飛ぶように売れた。各地から招かれ、独自のスイングスタイルを作り上げ、続々とヒット・ソングを生み出す。自ら編曲した曲をトロンボーンを演奏しながら指揮をするスタイルも確立(ビッグバンドの基本?)。
 そんな絶頂期の頃、第2次大戦が勃発。グレンは志願して空軍に入り、自らの楽団を組織して演奏を行う。ロンドンなど激しいヨーロッパ戦線で戦う軍隊の慰問旅行にあちこち出かける。
ありきたりの行進曲から「セントルイスブルース」を行進曲風にアレンジして演奏。行進する兵隊が生き生きと。
慰問の演奏。
空襲警報が鳴り響いても、演奏を中断しない。
 
 44年12月、深い霧の中、グレンを乗せてロンドンからパリに向かった飛行機はパリについに到着することはなかった。クリスマスの夜、遺作となった録音演奏の中で「茶色の小瓶」を演奏し、ヘレンへの深い愛情と励ましを与える。


《挿入歌》グレンミラー楽団
・MOONLIGHT SERENADE
・A STRING OF PERLS
・PENNSYLVANIA 6-5000
・TUXEDO JUNCTION
・ST.LOUIS BLUES MARCH
・IN THE MOOD
・CHATTANOGA CHOO CHOO
・AMERICAN PATROL
・LITTLE BROWN JUG
 この他にもたくさんのジャズ音楽が流れます。
《スタッフ・キャスト》
監督:アンソニー・マン
脚本:ヴァレンタイン・デイヴィス、オスカー・ブロドニー
撮影:ウィリアム・H・ダニエルズ
音楽:ヘンリー・マンシーニ、ジョセフ・ガーシェンソン
出演:ジェームズ・スチュワート
   ジューン・アリソン
   ルイ・アームストロング
   ベン・ポラック

 ルイ・アームストロング(サッチモ)は、『5つの銅貨』にも出演、ダニーケイと一緒に掛け合いの素晴らしい演奏を披露していました。その映画には、若き日のグレン・ミラーも登場。
 耳慣れた曲が次々と演奏され、懐かしさでいっぱい。実は、グレンミラーの一生を初めて知りました。没後すでに70年を過ぎようとしているのに、殺伐とした今の世の中、大戦中の兵士達と同様、スイングジャズのすばらしさ、それを代表するグレンミラーサウンドの心地よさ、いっときの安心感・充実感があとにつながっていくためにも必要とされているのかも知れません。
 一方で、「アメリカンパトロール」が演奏される中、激しい戦闘シーンの実写映像が流され、パリ解放につなげていく。アメリカ国外で勝利するために戦う多くの兵士を慰め、鼓舞していった、そして、パリに向かう途中行方不明になる、当時のアメリカンヒーローとしての圧倒的な支持を得たグレンミラーという人物像。1953年製作という時代背景も痛切に感じました。
 「真珠の首飾り」が小道具として絶妙な役割、またヘレンが首筋を触るしぐさも時を得て効果的。また、『5つの銅貨』のダニーケイも絶妙なはまり役でしたが、ジェームズ・スチュワートも誠実な雰囲気を醸し出していました。
 『5つの銅貨』と比べると、ストーリー的には物足りなさを感じましたが(それぞれの人物の生涯を描いた違いですからしかたがありませんが)、それでもすてきな映画でした。
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椎の木坂。抜弁天通り。新宿文化センター。新田裏。・・・(「蟹川」跡をたどる。その4。)

2013-06-12 19:37:20 | 河川痕跡
 信号を渡ったところを左折すると、「椎の木坂」。下っていくと、谷底の部分のようになっていてそこを右折すると、道は上って行きます。確信のないままに歩き始めました。
大久保通りは見上げるほどの高さ。
 もともとは上って、下っての急な坂道状。谷の底を流れる「蟹川」を越えるにはそうするしかなかった。都電(市電)をスムーズに走らせるために今のような構造にしたようです。
 改めてこの高さを見上げると、通りを隔てて向こう側の「戸山公園」「戸山ハイツ」とは地形の高さが合うことになります。
「椎の木坂」の最下部から西側を望む。右に見えるのが、「大久保通り」の壁面。
しばらく行くと、緩やかに左にカーブしながら上がっていく道に。「蟹川」の跡とは限りませんが、何となく・・・。そう思いたい(笑い)。実は、前回の時、この辺から怪しくなってきて、後日改めて出直して探索しました。梅雨空のもと。・・・

前方左を曲がると、「職安通り」(「抜弁天通り」)。こころなしか道はゆっくりと上がっています。
前方が「職安通り」。ただし、この道は旧道とも考えられます。
途中、見かけた居酒屋(風)のお店「砂場」。このあたりは、さびれたような商店や商売をやめたような家(失礼!)がいくつか並んでいます。昔ながらの街並み。
左の道をまっすぐそのまま通りを渡っていくと、「新宿文化センター」の前に出ます。
この道も同じです。
「職安通り」(「抜弁天通り」)。前方のところがこのあたりでは一番低くなっているところ。その付近を「蟹川」は右から左に流れていたと思われます。この通りの下には都営大江戸線が通っています。拡張工事などもまだ行われています。手前が「東新宿」駅方向、先が「若松河田」駅方向。
 いずれにしても、新宿方向から来るいくつかの道の中で、通りを越したあとで曲がりながら「大久保通り」に向かって下っていく道が怪しい!
 のあたりから新宿文化センター方向を望む。
正面が「天神小」右が「文化センター」。
「天神小」前から。左が下から上がって来た道。ここで、合流します。右がかつての都電通り。そのまま道は下がっていって、「抜弁天通り」に。
「抜弁天通り」から文化センター方向を望む。かつての都電線路跡の道。このあたりは、専用軌道でした。緩やかな上り。
「新宿文化センター」。かつて、都電全盛期には大きな車庫でした。

《新宿文化センター》
 新宿区成立25周年を記念して都電大久保車庫の跡地を利用して1979年に開館。開場から28年が経ったため大規模な改修工事が行われ、2008年4月にリニューアル。駅からかなり離れていることもあってホールの稼働率が低く、区議会等で度々指摘されていたが、新宿コマ劇場、東京厚生年金会館の相次ぐ閉館に伴い、区内唯一の大ホールとなり、一転、興業団体にとって使用するのが難しいホールとなっている。

「文化センター」前の道路(「蟹川」の水路が路面電車の軌道になり、今は道路になっている、ということになります。)
 ただし、明治時代以降の古い地図などを参照すると、今来た道が「蟹川」跡ではなく、あまりにも直線過ぎていて、本来の川筋は現在大きな建物になっているところを流れていたのではないか、と思います。
「新宿イーストサイドスクエア」。この敷地内をかつてはながれていたのではないか?
広大な敷地に大きなビル。「日本テレビゴルフガーデン」跡地を再開発し、昨年完成した。料理店などさまざまなテナントも入っているオフィスビル。知らなかった!


しばらく周囲は都営住宅などがある静かなところを西に進みます。
「新田裏」と屋号に入っている店を発見。に注目。
下のには「新田裏」とある。上の大きなは、現・戸山公園。
「日清食品」。明治通りとの交差点。この裏手一帯が「新田裏」と称されていました。
 
 ここからいよいよ賑やかな通りに入ります。ここで、一服。

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馬場下町。戸山公園。戸山ハイツ。箱根山。・・・(「蟹川」跡をたどる。その3。)

2013-06-11 19:20:50 | 河川痕跡
 では気を取り直して早稲田駅から南西の方角、西武新宿駅をめざして。

早稲田通りから北東方向の路地。このあたりは水路らしき跡は不明。ただ、北にあった建物は道路から下の方にあり、かなり大きな窪地になっていたことが分かります。
右の建物(早稲田大学研究開発センター)は、一階が地下式。このあたりは、「鶴巻町」。支流との合流地点のようにも。
早稲田中、高校舎。正面が渡り廊下。あの下に「蟹川」の流れがあった?
早稲田通り。「高田馬場」駅方向から「穴八幡」方向を望む。右手が「穴八幡」境内。緩やかに東に道が下っています。その辺りが、「蟹川」の流れ跡(右手から左手奥へ流れていました)。右手奥の方が早大文学部、さらに「戸山公園」。緩やかな上り。
 
 早大文学部の敷地脇を通り、「箱根山通り」に。「戸山公園」の入り口です。
運動広場。
せせらぎを模したもの。この公園の周囲はけっこう起伏のある一帯。東も西も高台になっています。ただし、この場所は西北の高台に属し、「蟹川」跡ではないようです。もっと南側がぐっと低くなっています。
東側の高台。その奥の高台には、国際医療研究センターなどの大がかりな研究施設や「戸山ハイツ」などの集合住宅が建ち並んでいます。「蟹川」は東南、西北の高台に囲まれた谷底を北東に進んでいました。
高層の都営住宅西側の崖。住宅側の3階ほど地面が低い。
1920年頃の地図。赤い斜線部が高台、水色の部分が谷底(湿地帯・荒れ地)。なお、ピンク色のところに比べて、薄い緑色の地域の方は、海抜が低い。
「大久保通り」から北東を望む。高台になっています。 
 
「戸山公園」は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷でした。2代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられました。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園でした(谷文晁による絵巻が現存している)。その後は数度の火災や水害により荒廃し、復興されることありませんでした。
 明治維新後、明治政府に明け渡され、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された。1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園しました。
 公園付近は、戸山ハイツといった団地や大学や高校などの文教施設、社会体育館や障害者センターなど公的な施設が多くあります。
 
《戸山ハイツ》
 戦後すぐの住宅難を解決するため、都営住宅が建設されることになり、団地の原点ともいえる「戸山ハイツ」が1949年に完成。1970年代に、鉄筋コンクリートの高層住宅に立て替えられました。起伏の多い土地で上り下りがしんどいことも。また、住民の高齢化問題で話題に取り上げられます。
1階が商店になっていますが、人通りはまばら。

 では、「箱根山登山」をします。
が「箱根山」の位置。
箱根山の登山口。
標高44.6㍍。山手線内で一番高い人工の山(だと思いました)。
けっこう急な登山道。
麓から見上げた山頂。
説明板。
教会と幼稚園の建物の裏手、基礎部分。石造り。この半地下式の石造りの部分は、陸軍戸山学校将校集会所の跡と言われています。どうしてこの場所だけ壊されずに残り、上に教会が建っているのでしょうか?
頑丈な造り。

公園内には緑豊かで静かな散歩道があります。
「紫陽花」がところどころに。梅雨時、初夏らしい雰囲気。
公園のあちらこちらに運動広場があります。お年寄りがベンチに腰掛けてご歓談中。
住宅側から見下ろしたところ。かなりの高低差です。
ここも東の高台から西側を見下ろしたところ。
「戸山ハイツ」の案内図。白抜きが公園一帯。周りの高台に囲まれた窪地。かつては大きな池だったようです。その中を(池の中に)「蟹川」は西北に向かって流れていきました。
「現在地」という表示場所から公園(緑の部分)の中を西北に流れ下ったというわけです。(「大久保通り」に面したところにあった「案内図」。)
緑豊かな公園。都心でこんなところがあったとは驚きです。
「大久保通り」から公園側を見下ろしたもの。かなり下になっています。

 やっと「戸山公園」を抜けられました。今度は、「大久保通り」を渡って新宿に向かっていくことに。ところが、どこを行ったらいいものやら。何しろ「大久保通り」はかなり高いところを通っていて、どこも皆、渡った先は下り坂。
 「水」は上から下に流れるもの。はてどうしたものか? ということで、ここまで。西武新宿駅はまだまだ先です。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)明治10年代前半のころのようす。競馬場がありました。のちに不忍池に移転しいます。中央付近を南から西からきた流れは今度は北に向かって流れていきます。



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山吹町。漱石山房。夏目坂。早稲田駅。・・・(「蟹川」跡をたどる。その2。)

2013-06-10 19:28:18 | 河川痕跡
 江戸川橋通りを渡ったところから「蟹川」跡が続きます。このあたりは、新宿区山吹町。途中、都立山吹高校を経て、西に向かって歩くうちにいつしか道をはずれ、・・・。
細い道ですが、川筋のように微妙に曲がって西(上流)に向かっていきます。
 ところで、「山吹」町の由来は、太田道灌の山吹の里伝説から命名した、と。
 神田川に架かる「面影橋」を新目白通り側から渡ったところに、「山吹の里」の石碑がある、らしい。場所は新宿区ではなくて、豊島区高田1丁目。
 
 太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。

 「山吹の里」の伝説は、湯浅常山が記した「常山紀談」の上記の一節から一般に広まったと言われています。では、その場所はどこか?
 
「Wikipedia」では、

 道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。豊島区高田の神田川に架かる面影橋の近くにも山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があり、伝説の地に比定されている。また、落語にこの故事をもとにした『道灌』という演目がある。

 ここでは、越生と面影橋との二カ所があげられています。いずれにしても、「山吹町」には町名としてのみ残されているということになります。そういえば、都庁近くにある「新宿中央公園」の片隅にも、この話に関連する道灌と娘の像がありますが・・・。


 私には、落語の方がなじみです。 

狭く曲がる道路の両脇は印刷関係の小さな工場や民家が続きます。「大日本印刷榎町工場」の北西付近。
かなり以前に水路としての役割は終えているせいか、道幅が狭くなったり、急角度で曲がったりしていますが、まだまだ痕跡をたどることができます。
来た道を振り返る。下流(神田川)方向。
「蟹川」は左奥の方へ流れていきました。
都立新宿山吹高校。蟹川は、かつては山吹高校の南をかすめるように上流に向かっていましたが、現在は完全に校地内になっています。

 都立新宿山吹高校。無学年制の定時制、単位制高校として旧赤城台高校跡地に1991(平成3)年年4月1日に開校。
 受け入れ先がなかった他高校の中退者などの救済機関としての学校としても設立されたことで、幅広い年齢層が在籍している。
 普通科と情報科の2学科の定時制は月曜から金曜までの平日、通信制のスクーリングは土曜日に行われ、これらの授業とは別に、一般向けの生涯学習講座も土曜と日曜に開講されています。授業の時間割は、生徒各々が自由に科目を選択するシステム。学校行事などは殆ど自由参加が基本である。
 都立定時制高校の中では比較的、大学進学を選択する生徒が多く、これまで国公立大学や、早稲田大学などの難関私立大学にも多くの合格者を出しています。

ちょっと分かりにくいですが、この道路の中央奥(の部分)が少し低くなっています。ここが「山吹高校」を過ぎた「蟹川」の旧水路だと思われます。
 
 さて、広い通り(鶴巻町交差点から弁天町への)を渡ると、水路跡ははっきりせず(見失い)、あちこち歩き回って早稲田通りに出てしまいました。うろうろしているうちに、
「漱石山房通り」。上り坂です。
「漱石公園」入口。
 
 夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越した。ちょうど朝日新聞に専属小説記者として入社して半年、その第1作となる 「虞美人草(ぐびじんそう)」を書き上げた頃のことである。漱石は、ここで多くの名作を生み出し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、 住み続けた。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房(そうせきさんぼう)」という。
 「漱石山房」の家は、ベランダ式の回廊のある広い 家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、木賊(とくさ)が繁っていた。もとは医者の家で、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの 洋間があった。漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀(したん)の机と座布団をしつらえて、書斎としていた。机は意外に小さくて、漱石が小柄 な男であったことを思い浮かべることができる。書斎の手前の十畳間が応接間となっていた。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者 など、面会者がとても多かったため、面会日を毎週木曜日に決めた。そして、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け 入れた。これが「木曜会(もくようかい)」の始まりである。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所と なり、漱石没後も彼らの精神的な砦となったのである。(「新宿区」HPより)
 さらに、

 馬場下の実家に程近い住宅地の一角、旧牛込区早稲田南町七番地にある。
漱石が教職を辞して東京朝日新聞社に専属作家として入社した明治40年。その年の9月から没するまでの10年間を過ごした旧居で、「漱石山房」と称された。
 移り住んだ当時は、周辺が不衛生であったという理由でこの地に永住する気持ちはあまり無く、漱石は生涯、家賃35円の借家住まいだったという。
 漱石の死後、遺族は朝日新聞社からの退職金の一部で家を買い取り、大正7年、長女の結婚とあいまって、木曜会の会合に使用していた客間と書斎を母屋と分離させる改修工事を行った。これは当初、この二部屋を記念館として保存させようと考えたのだと伝えられている。
 その後、関東大震災では大きな損傷を受けなかったものの、昭和20年5月25日東京大空襲により早稲田一帯と共に焼失。戦後、土地は都が譲り受けた。のち新宿区に移管され、現在は敷地の一部が区営住宅と区立漱石公園となっている。
 ちなみに、漱石山房で執筆された作品は数多く、代表作としては『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『こゝろ』『明暗』などがある。その後の日本文学界に大きな影響を与えた漱石門弟(漱石山脈)による「木曜会」のサロンとしても利用された。(「NPO法人漱石山房」HPより)

 恥ずかしながら初めて訪ねました。区営住宅、裏手は民家に囲まれた公園。小さな「漱石山房」当時の復元したモニュメント(言っては失礼だが、芝居のセットみたいな代物)が二つ。
あっけないこと、おびただしい。
「夏目漱石終焉の地」の説明板。周りを民家に囲まれて落ち着いた雰囲気はまるでなし。背後の民家では、色とりどりの洗濯物が満艦飾。写真でカットするのに一苦労。
「漱石山房の記憶」と称する説明板。

 気を取り直して早稲田駅の方へ。
「夏目坂」。
 夏目漱石の生家がこの坂の途上にあったことから、この名が命名された。漱石自身も随筆『硝子戸の中』の中で
「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。」と。

 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。平成十四年三月 新宿区教育委員会(「碑文」)
上を望む。此の記念碑の前はコンビニ。気づく人もいない(地元ではなじみの深い?坂)。
「夏目漱石誕生の地」の記念碑。かなり立派。
 「碑」の下部に説明文。
 
 夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ、明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し、大正5年(1916年)12月9日新宿区早稲田南町七において没す。生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ。
 
 碑の後には東京都新宿区教育委員会の詳しい説明板。

新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地 所在地 新宿区喜久井町一番地 指定年月日 昭和六十一年十月三日
 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
 夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。
 なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳述されている。
 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
 平成3年11月

 下町と違ってかなり起伏に富んだ道筋。上ったり下ったり・・・。東京メトロ「早稲田」駅前で、今回は、終了!
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「江戸川橋」駅。石切橋。新宿区と文京区の区界。渡邊坂。・・・(「蟹川」跡をたどる。その1。)

2013-06-09 20:49:09 | 河川痕跡
 先日、東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅」近くにある「日教済」会館で会合があって出かけました。
 最近、出かける前には必ず行く先付近の地図を調べ、何か興味が出そうな痕跡などを発見するとちょっと寄り道、を常にしています。
 さっそく地図を見ると、付近のまっすぐで広い道に比べ、ちょっと曲がりくねった道を発見。拡大した地図の上をたどっていくと、新宿区と文京区の区界になっている箇所も(葛飾区と足立区の区界にも「古隅田川」によって入り組んだ区界が存在します)。
文京区関口1丁目と新宿区山吹、水道、改代町などとの区界(カギ型になっている南側の部分。)
 実は、この道がかつての「蟹川」の流路の一部ということが分かりました(「蟹川」という川の存在は聞いていましたが)。

 蟹川(かにかわ)は、大半は新宿区内、一部は文京区内をかつて流れていた河川です。現在は暗渠化され(下水道)、道路となったりして、流路の痕跡は残されていません。「金川」という呼び名もあったようです。
 現在の東京都保健医療公社大久保病院付近(西武新宿駅東側)にあった池、あるいはもう少し西の西武線駅前付近が最上流の水源とされますが、現在の歌舞伎町付近にあった大小の池の水も集めて東北に流れていました。
現在の歌舞伎町付近。二本の水路が確認できます。
が水源付近。が太宗寺。 

 新宿ゴールデン街北側を通り、新宿二丁目にある太宗寺からの流れを集め、旧都電跡(「新宿遊歩道公園「四季の道」)近くをかすめ、日清食品前(旧「新田裏」)、新宿文化センター(旧都電車庫)の通り、職安通り下(抜弁天通り下)、大久保通り下、戸山ハイツ、馬場下町、早稲田鶴巻町を流れ、文京区に入り、石切橋、掃部橋の間で神田川に合流していました。(明治期の地図でははっきり幾本かの川となって表示されています。)

現在の早稲田中、高校付近。右下が現在の戸山公園付近。早稲田中学校・高等学校敷地内の地下を流れているようで、川の部分には地盤を固めるための杭が打てないため、川の上には校舎は設置されなかった、と。その部分は2階・3階部に渡り廊下をつけている、とのこと(現地確認できず)。

赤い線が「蟹川」及び支流。上の川は「神田川」。なお、外苑東通り沿い(弁天町)からの流れもあり、早稲田鶴巻町で合流していました。左上(西側)から蟹川に合流する支流がありますが、一部は、現在の文京区(関口1丁目)と新宿区との区界になっていると思われます。 

 ところで、

 西武新宿駅のやや西、JR山手線と総武線が分岐する辺りにその流れを発し、歌舞伎町にいくつかあった池の水を加えて花道通りのルートを流れ、明治通りの東側で向きを北へと変えて、戸山公園内、早稲田大学近辺を経由し、途中いくつかの支流を加えたり分流しながら地下鉄有楽町線の江戸川橋駅付近で神田川へと注いでいた。川は昭和初期には暗渠化され、現在、大部分は下水道戸山幹線となっている。・・・


 以上のように、すでに2011年、本田創 (ほんだ・そう)さんによって「みちくさ学会」HPにおいて、念入りなレポートが写真入りで紹介されています。

《「みちくさ学会」とは?》
 路地、看板、標識、坂道などは...興味のない方にとってみれば風景の一部に過ぎません。しかし、これが好きで好きでしょうがない人にとっては魅力ある対象です。「みちくさ学会」は、その道のブロガーが興味の対象としてる対象物の面白さと、その鑑賞術を紹介。“みちくさ”の楽しみ方を提案するブログメディアです

《本田さんのプロフィール》
1972年、東京都生まれ。小学生の頃祖父に貰った1950年代の東京区分地図で川探索に目覚め、実家の近所を流れていた谷田川跡の道から暗渠の道にハマる。
1997年より開始したウェブサイト「東京の水」は現在"東京の水2009Fragments"として展開中。
2010年、「東京ぶらり暗渠(あんきょ)探検 消えた川をたどる! (洋泉社MOOK)」に執筆。
日本最南端の島の地理や民俗を紹介するサイト「波照間島あれこれ」も主宰。

 「蟹川」は、他にも多くの方々のHPで紹介されています。大都会の中ですっかり失われた川の痕跡をたどる、というのも乙なものです。
 ですので、携帯電話で撮影しながら先達の後追いということになってしまいました。こちらは神田川合流地点と思われるところから、上流にさかのぼることになりましたが。
神田川。このあたりが蟹川が神田川に流れ入ったあたり?
「掃部(かもん)」橋。「古川橋」の上流の橋。
「石切橋」の説明板。「古川橋」の下流の橋。
この細い路地が文京区関口1丁目と新宿区水道町の区界。右が文京区、左が新宿区。「新目白通り」から少し入ったところ。直線の反対側・神田川には「古川橋」があります。
「古川橋」。
右からの道も水路の跡のようだ。奥が文京区。
印刷会社の路地。区界の、すれ違うこともできないような細い道が一直線に「商店街」の先まで続きます。右が文京区、左が新宿区。
商店街。細長い一方通行の道。買い物客はそこそこ。
商店街の一角。「旧小日向町」という案内板。
かつての水路跡(下流方向)。右が新宿区、左が文京区。
水路跡のような。左上が文京区。このあたり、まだ砂利道があったり、古い家屋もあります。けっこう入り組んだ街並みになっています。
水路跡ははっきりしませんが、急角度で曲がったり、建物の上半分が文京区、下半分が新宿区などというところもあります。
旧水路。左が文京区、右が新宿区。道路管理はどうなっているのでしょうか? 例えば違法駐車の取り締まりなどの場合。
「蟹川」跡の道の二本北側の道。北西の方向に続く細く短い道。左が新宿区、右が文京区。この分岐点にはちょっと広い広場状の空間が残されています。蟹川と支流の合流点?
下流方向を振り返る。このあたりから流れは新宿区内をさかのぼります。
「江戸川橋通り」方向を望む。
下流方向(神田川方向)。
蟹川跡の道路と江戸川橋通りとの合流点。「山吹町」交差点の南。
 江戸川橋通りにある「渡邊坂」。緩やかな坂が上の方に向かいます。「蟹川」は谷の底を流れていました。

 これでやっと江戸川橋通りを渡って早稲田の方向に進むことになります。ここまであちこち歩き回って(ブログ上で)なかなか先に進みません。この先は次回に。
 いつまで続くことやら。「夏目坂」までからみますので。

早稲田正門通り。突き当たりが早大。

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「Sleeping Beauty」(古きよき映画シリーズ。その34。)

2013-06-08 12:35:39 | 素晴らしき映画
 久々に映画。邦題「スリーピング ビューティー~禁断の悦び」。
 扇情的なサブタイトルには違和感がありましたが。内容は、生(性)と「死」にまつわる(生・老・病・死)映画。川端康成『眠れる美女』の翻案のようですが、クレジットタイトルにその名は登場しません。ヒント以上を得ているようです。設定のベースとなるものは、まさに康成的世界です。日本で2度、海外で3度映画化されています。
 谷崎潤一郎「鍵」も日本の他にも、イタリアポルノ映画界の巨匠ティント·ブラスが脚本・監督のもの。音楽は、エンニオ·モリコーネが担当。原作に忠実で、それ故、ほとんどポルノ映画ではありました。

 
 さて、今回。
《あらすじ》
 ルーシー(エミリー・ブラウニング)は、女子大生。学資稼ぎのために医学実験やウェイトレスなどのバイトをやっている。大麻をやったり、赤の他人と寝る一方で、バードマンというひ弱な男の部屋にちょくちょく通う。
 ルーシーはシルバーサービスというアルバイトをすることになる。それは下着姿で、老人たちのパーティの給仕をすること。秘密クラブのようなところで、彼女以外にも、女性たちがより露出の多い格好で働いている。オーナーのクララから、その彼女に新しい仕事のオファーが。
 それは睡眠薬を飲んでベッドに何時間か全裸で眠ること。その間、訪れた老人に何をされているのか(性行為は禁止されているが)、彼女には分からない。そのうち、彼女は寝ている間に自分が何をされているのか知りたいと思うようになり、盗撮用の隠しカメラを部屋の電気スタンドに仕掛ける。・・・


 オーストラリアの女性監督・ジュリア・リーが脚本&監督した作品。生(性)と死。奔放な(にしか見えない)若い女性の人との関わりと生き様を表象する「眠り」と「目覚め」の混沌・はざまを女性の目線で描いた作品。静かな眠りと対照的な現実のどろどろした世界。
 すぐ簡単に男と寝ちゃうようなヒロインだが、睡眠薬を飲んで眠るルーシーの姿は、純粋無垢な乙女がそこに横たわっているよう(映画の中では一カ所もセックスシーンはない)。その時だけは、かえって存在感の希薄なヒロインとして描かれる。
 死んだように眠る若い全裸の美女を、死を間近にした老人がもてあそぶ、そんな二人だけの秘密の時間。他に誰もいない部屋をただひとつ、その秘密と衝撃を如実に現実化する定点の隠しカメラ。・・・

 バードマンが睡眠薬を飲んで自殺する死の間際にルーシーは裸の胸をさらけ出して彼の傍らに横たわるが、もはや心身の死をつなぎとめることはできない。まさに二人の間に危うく存在していたはずの現実を無惨にも切って捨てる「死」。

 そういうエピソードをはさみながら映画は進行していく。
 
 ルーシーは現実逃避としての(一方では金銭的な報酬と引き替えの)手段としてあったアルバイト。一方で、大枚をはたいてルーシーを相手にする老人たち。無抵抗なルーシーとの関わりは彼らにとって甘美なもののはずだった。

 一人目の老人は穏やかな男。ルーシーの若い肉体に優しく触れる。しかし彼女の若さは老人には二度と手に入らない。
 二人目の老人は眠っているルーシーを罵る。しかし彼が求めているはずの被虐的な反応は眠る彼女にはない。
 三人目の老人はルーシーの身体を持ち上げるなどして自らの肉体の力を示そうとする。が、すでにかなわない。

 老人たちは、それぞれ求める、手にするはずだったかつての肉体の若さ、人生の喜び・・・、結局は、打ちのめされるほどの喪失感を味わうことになる。
 一方、目を覚ましたとき、眠っている自分に何が起こっているかを知らなければ取り返しのつかないことになってしまうことへの恐れをいだくルーシー。小型カメラを手に入れて何が起きているか、自分の目で見ようと決意する。
 彼女がそこに見出したのは、「死」と「生」とのあわいであった。

 ラストシーン。薬を飲んで眠りにつく老人(最初に来た男)。クララがやってきて、老人の様子がおかしいのに気付き、ルーシーを必死にたたき起こす。眠りから覚め、自分の横に冷たくなった老人がいるのに気付き、大声で泣き叫ぶルーシー。
 隠しカメラの捉えたルーシーと老人との動かぬ(時の止まったような)映像になる。そして、エンディングテロップ。


 映画のもとになった川端康成『眠れる美女』。 
『眠れる美女』(川端康成)新潮文庫

 幼い体に重ねる、命の哀しみ。「最後の一線」で研ぎ澄まされる、圧倒的な性。川端的エロティシズムの金字塔。
 波の音高い海辺の宿は、すでに男ではなくなった老人たちのための逸楽の館であった。真紅のビロードのカーテンをめぐらせた一室に、前後不覚に眠らされた裸形の若い女――その傍らで一夜を過す老人の眼は、みずみずしい娘の肉体を透して、訪れつつある死の相を凝視している。熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の名作「眠れる美女」のほか「片腕」「散りぬるを」。(「新潮社」文庫版のHPより)
 
谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』と並び称せられる老人の性(生)と死を描いた究極の作品としての評価が高い。
 
 映像化によって康成の世界は描かれたか? 女性の目から見た世界(これからの生を楽しむはずの若い女性の恐れ)と男性の目から見た世界(衰えの中で死を待つ老人の恐れ)との違いをことさら感じた作品。
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葛飾区立石。小さな用水路跡。

2013-06-07 19:35:32 | 河川痕跡
 四ツ木のイトーヨーカ堂に買い物と、曳舟川親水公園を水戸街道の方へ。広い道路をはさんで曳舟川は続きます。水戸街道の手前にある橋が「平川橋」。赤さびた雰囲気が時代を感じさせます。正面、向かい側にも古い橋の遺構が残っています。
かつての曳舟川はかなり幅広かった(二つの流れが並行してあった)ことが分かります。
「玉川橋」。ヨーカ堂の駐輪スペースのはずれに古びた橋がありました。気がつかなかった! ここはかつての水路跡。
 葛飾区内には農業用水が縦横に走っていました。いつしか田畑がなくなり、宅地化され家が建ち並び、その路地裏をどぶ川のような流れになってもまだあちこちに残っていました。下水道の整備によって、そうした用水路は緑道として残ったり、道路に変わってしまいました。こんなショッピングセンターの脇にもこうして存在感がある「橋」。
 そこで、ついついその跡をたどってしまいました。もともとは、立石地区の田畑を潤していた用水路の一つ。流れていく方向から見ると、下流は、曳舟川に合流していたようです。
ヨーカ堂の北側。左(東)から右(西)へと流れはあったようです。奥の森は、「四ツ木白髭神社」。この社は昔と変わらずにそのままの位置にあるようで、承応3年(1654)四つ木村が立石村から分村したとき、鎮守として勧請した神社であると伝えられています。
曳舟川方向。水戸街道にぶつかります。
水戸街道の歩道とのところにコンクリート壁が。用水路との関連は不明ですが、こんなごついものがどうしてここにだけに。
水戸街道を越え、そのほぼ直線の先にある歩道。正面が曳舟川(親水公園)。合流点?
再びヨーカ堂に戻って駐輪場の脇。玉川橋東側の水路部分。
平和橋通りを越えると、葛飾警察署のすぐ裏手に一直線の緑道がかなり遠くまで続きます。「玉川橋」からのライン上(少し屈折していますが)。家々の裏手を通る道の両側は緑が連なっています。業者が剪定作業が行っていました。管理の行き届いた遊歩道。
十字路。こちらの道もかつての用水路跡のようです。
左右どちらも緑道。もともとは区の管理下の用水路? そのために整備がよくできているのでしょう。道の左奥にはシュロの木。
びわの木。実が色づく雰囲気。かつて、区内では、シュロの木やびわの木が目につきました。もうほとんど見当たらないのは残念です。
キョウチクトウ。この木も庭木としてありましたが、今はあまり見なくなった感じです。イチジクの木などもよく見かけましたが、今は全くないようです。
紫陽花。この花は、以前よりも増えてきているような印象。
ここで、終点。来た道を振り返る。こんな細くても一直線の道が残されていたのですね。道路に突き当たってこの先は不明でした。
戦前のようす。碁盤の目のような道の周囲はほとんど田んぼでした。が用水路。が神社。
戦後間もなくの頃のようす。次第に宅地が増えてきています。が用水路。が神社。
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何か裏がありそうな、なさそうな

2013-06-06 19:11:23 | 教育
センター試験見直し・達成度試験導入、検討開始(読売新聞) - goo ニュース
 午前中、5年以上前に投稿したセンターテストについてのコメントが届きました。こういう話題がすでにあったのですね。改めてコメントを寄せてくれた方に感謝。そこで、その時のものを再掲。コメントの返事に「遅遅として進まず」としましたが、果たして? ただアベ内閣のことですから、・・・。なお、このときのトラックバックもなかなか参考になります。この5年間に大学入試をめぐる情勢もずいぶん変わっているはずなのに、文科省の既得権(天下り先)だけはますます強く、新たな既得権益の拡大強化につながっては意味がありません。あの組織は一筋縄ではいかない集団ですから。


大学入試センター試験廃止論

2008-02-12 19:25:46 | つぶやき


 大学入試センター試験も終わり、国公立大学の受験申し込みも締め切られ、いよいよ本番の試験が始まります。すでに、私立大学では多くの大学で入試が行われ、発表もそろそろ。今年も悲喜こもごものシーンが。
 これから、国公立大学の二次試験にチャレンジする受験生諸君も、今、必死に勉強しているところでしょう。
 かつて、センター試験が「共通一次試験」と言っていた頃は、この試験の結果でほとんど合否が決まってしまうような状況が、生まれました。偏差値によって、大学が輪切りにされてしまったわけです。受験生のほうも、偏差値にばかりとらわれて、大学を選ぶ。そのときに大いに「貢献」したのが、大手の予備校でした。
 正解も公表せず、配点も公表しない、という理不尽さがまかり通った時代。受験生は、結局、予備校独自の正答・配点を頼りにせざるをえなかった。実におかしなことが、行われていました。
 その後、改善され、また名称も「センター試験」と変わり、私立大学も参加するようになって、少しは、センター試験の位置づけが変化しつつあるかのようです。しかし、予備校頼みと言うことは、全く変わっていません。ますます強化されています。ただ、予備校は受験生からは、お金は徴収していません。一種のサービスということでしょうか。
 ところが、参加私大は、センター対応の入試ということで、センター試験前に、多額の受験料を取って、センターから結果だけを受け取る。受験生は、予備校のデータで、すでにほとんどの場合、合否が判明している。ダメな場合は、勿論受験料は没収。まさに「人のふんどしで相撲を取っている」ような具合。
 この場合、受験料は、一万円が相場。しかし、倍率がすごい!50倍・70倍なんていうのもざらにあります。定員わずか5名に400名が出願する!勿論、センター試験前にこの申し込みは、完了させているのが、当たり前となっています。
 受験生の不安心理に乗じた、実に、あこぎな入試「商売」ではないでしょうか。
 さらに、センター試験は、英数国理社から各科目を選択するのですが、これが受験生泣かせ。国公立大でも、選択する科目数が異なるし、私大では、もっとセレクトされていて、英・国・社でもよいし、英・数・理でもよい、中には、出来た教科の点数を合計してもよい、と何でもあり!
 極めつけは、国語の試験。80分のうちで、現代文の評論、小説(今じゃ、ほとんどセンターでしか扱わない代物)の現代文計100点。さらに古文、漢文(今は、私立ではほとんど出さない)のそれぞれ50点。合計200点満点。これをやることになっています。
 ところが、私大では、「現代文100点」しか得点として必要としない入試が、圧倒的に多い。だから、受験生は、80分でじっくり?問題に取り組める。まともにやる受験生は、大問・一問につき、20分しかない。「国語」だけが、こういうおかしな試験時間になっています。
 一番の問題点は、センターは、マークシートだということ。国語の問題も当然、すべてマークで答えます。3000字近くの初見の問題文を、読んで解かなければならない。小説の心情問題、説明問題、それらをわずかな時間で見極め、正答をマークする。迷って、えい、これにしちゃえ!とマークしても、じっくり考えてマークしても、○は○、×は×となります。
 高校までの国語教育を見事に破壊したのは、このセンター試験のマーク方式だとさえ思います。さまざまなとらえ方、感じ方を一元化して、○か×かにした!
 こういう問題の配点は、8点とか10点ですから、まぐれでもあった方が勝ち!
 これは、試験ではないですね。複数正答は「3」を中心にしているとか、これでは、まるで馬券のようなもの。学びの場で、馬券の買い方を勧めるようなものですから、真面目な、「感性」豊かな子どもが、育つはずがありません。
 それからおかしいのが、ヒアリングなる英語のテスト。高校の指導要領にのっているから、というだけで導入したのか、「聞き取り」といっても、どうも現実離れしたシチュエーションの問題。
 普通、会話というのは当事者同士がいて、お互い顔を見ながら、直接会話する。片方が話しているのを、片方が書いたものを相手に見せるなんて、ありえない!放送だって、その場にいて聞いているもので、状況ははっきりしている。それを無理に仕立てて、問題にして正答を選ばせる、まさに、ごまかしのいいかげんテスト。
 数学も、日本史も、世界史も、物理も、化学も、過去問を中心にして、反復訓練して試験に備える。高校の授業の内容を定着させる意図が感じられない。
 そんな試験のために、高校の3年生の授業(大学や将来に向かって取り組ませたい課題・学習)が犠牲にされるのです。
 まだまだ問題点は、いくらでもあります。
 「百害あって一利なし」のセンターは廃止して、高校卒業資格試験、あるいは大学受験資格試験程度にして、大学側が自ら進んで、我が大学ではこういう学生をとりたい!そのために、こういう試験を行います、偏差値は関係なく、どういう生徒・学生を望んでいるかを明確にして、入試を行うべきではないでしょうか。
 たとえば、慶応の文学部のような、ICUのような独自入試・・・。どうして、もっと大学側は努力しないのか。国公立大でも、千葉大などでは、独自でユニークな入試を行っています。
 だいたい文科省(の二流官僚、無能な審議会、大臣)があれこれ口を出しすぎるのが、すべての元凶です。まさかセンター試験のため、文部官僚天下りの維持のために行っているのではないでしょうね。
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西武池袋線・「上り屋敷(あがりやしき)」駅跡。「欅」。「自由学園明日館」。・・・

2013-06-05 19:12:29 | 鉄道遺跡
 今回は、西武線池袋線・「上り屋敷」駅跡付近の探訪。
 「上り屋敷(あがりやしき」駅は、1953(昭和28)年まで存在した駅。池袋を出て、JR線路を越えるための高架線を終えてしばらく進んだところにありました。
 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が1929(昭和4)年、池袋駅 - 椎名町駅間に駅を設置。駅名としてこの一帯の地名「上り屋敷」が採用されました。第二次世界大戦中の1945年(昭和20)年、戦況悪化を理由に営業が中止され、終戦後も再開されることはなく、結局、1953年(昭和28)年に正式廃止されました。今でも駅のプラットホームの痕跡は残っています。
 今の「西池袋」は、その昔の住所表記は雑司ヶ谷(大字)であり上屋敷(小字)でした。しかし、「上屋敷」(上がり屋敷)といういわれは定かではないようです(「かみやしき」ならそういう大名屋敷みたいな名付けだが、ここらあたりにはそういう大きな屋敷はなさそう。徳川様の屋敷のこと? まして、「あがり」という言い方は・・・)。
「上り屋敷」という名称は、北側にある公園と町会の名に残っていました。
 JR山手線・目白駅の改札口を出て「目白通り」を西に向かって2つ目の信号を渡って右の細い道に入ってしばらく進むと、住宅街の先に西武池袋線の踏切が見えてきます。ここから一つ西側にある踏切との間に上下線のプラットホームと駅舎がありました。
 よく見ると、上りも下りも線路の用地が沿線のほかの場所よりも少し高く盛り土され、広くなっています。西武新宿線・「西鷺宮」駅の遺構とよく似ています。
まだ駅がない頃。(線路の北側に「雑司谷旭出」と記されている。雑司ヶ谷地域は現在の山手線をはさんで大きく広がっていた。) 
駅名が記されている。のところ。
すでに駅はなくなっている。の部分。西方の駅は「椎名町」駅。 

「目白庭園」の北側。閉園時間だったので中に入れず。この道の少し北側に駅がありました。
奥に見えるのが、上り線のホーム跡。少し盛りあがっています。上り線の手前側に駅舎がありました。
下り線ホーム跡。
草で覆われています。
駅舎跡は、「サンクス」の店になっていました。
上り線ホーム跡。
民家に接するようにホームがありました。

写真を撮りおえて、今度は池袋駅方向へ。
東側(池袋駅側)の踏切への道。
家と家との間に巨大な古木が。
この欅の全貌。すごい! 近所には、この欅を名に取り入れたマンションがあるそうです。
「自由学園」明日館講堂。
講堂正面玄関。
「明日館」。国の重要文化財に指定されています。

 自由学園明日館(みょうにちかん)は、1921年(大正10)、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました。
 明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは遠藤新。帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせました。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計しました。
 空間を連続させて一体構造とする設計は、枠組壁式構法(2×4構法)の先駆けとの見方もあります。木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東教室棟、西教室棟を厳密なシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としています。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもので、池袋の界隈に開放的な空間を演出しています。道路を隔てた南西には、300人収容できる遠藤新設計の講堂がならび、重要文化財・自由学園明日館は構成されています。
 1934年(昭和9)に自由学園が南沢(東久留米市)に移転してからは、明日館は主として卒業生の事業活動に利用されてきました。その後、明日館の歴史的、芸術的価値が評価され、1997年(平成9)5月、国の重要文化財指定を受けました。関東大震災や第二次世界大戦の空襲からも免れた明日館でしたが、80年の歳月のなかで老朽化が顕著になったため、1999年(平成11)3月から2001年(平成13)9月まで保存修理工事が行われ、同年11月に再開業いたしました。(自由学園明日館」HPより)

 「自由学園」は、独特の教育方針に基づく学校として有名。学生の多くが学園内の寮で生活し、キャンパスの維持管理はとくに危険な仕事を除きすべて生徒の手によって行われています。これは毎日の生活を生徒自身が責任を持って行うという「自労自治」の精神に基づいています。文部科学省の学習指導要領にとらわれない独自の教育方法で知られ、たとえば学生による稲作(田植え・収穫)、女子部生徒が学園内農場で野菜を育てる農芸、男子部生徒による酪農(豚・牛を育てる)など、それによって得た給食調理も生徒自身が行っています。
 このような教育理念・方針に賛同する保護者・学生・卒業生(友の会)によって根強く支えられてるようです。

JR山手線との交差橋。

 何年か前に、西武新宿線の「西鷺宮駅(にしさぎのみやえき)」(表記は、「西鷺ノ宮駅」?)跡を訪ねました。その記録を改めて。

・・・ 車窓から見える両脇の盛り土に当時のプラットホームの遺構を見ることができます。また、上り線の駅舎があったところは、その一部が西武鉄道の変電所の建物になっています。・・・
 写真は、下井草駅側から見たもの。左が上り、右が下り線。両側にホームがあった。
下り線のホーム跡。
上り線のホーム跡。東側の奥(かつての駅舎のあたり)には、現在、変電所がある。
変電所側から見たもの。下り線電車が通過中。
変電所。このあたりに改札口(橋上の駅舎だった)に向かう階段があったはず。通学生は、この道を右(北)に学校に向かった。・・・


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読書「失われた近代を求めてⅡ『自然主義』と呼ばれたもの達」(橋本治)朝日新聞出版

2013-06-04 19:21:40 | 読書無限
 久々に橋本治。「もの達」と「もの」をひらがな書きしたのがミソ。つまり作品と作家との関連を読み解くという。森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村「達」とその作品「達」を取り上げ、日本の自然主義文学の「理念・発想」「成立」「文体」「視点」など作品そのもと作家の人となりを探っていく。
 日本の「自然主義文学」は、私小説というかたちに収斂され、そこに独自の世界と限界を持っていた、さらにその文体的な特徴を日本的な文化に置き換え、「恥」の文化、「曖昧」な文化、その代表が「あいまい」文体の島崎藤村であった、という説をたしか読んだことがあったが。また、日本の文壇の特殊性・閉鎖性などへの批判なども・・・。
 久々にその復習を兼ねてのものでした。橋本治らしい執念深さで「自然主義」文学とその表現方法としてあった「言文一致体」に迫る。
 再三引用されるのが二葉亭四迷のことば。
 
 「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行(はや)るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く」(『平凡』)

 とくに、 「牛の涎のように」という比喩がお気に召したようで何度も引用しています。まさに「だらだら」文体。でも、実際はそうでもないのでは、ということを明らかにしていこうとするが、やはりそうであった、と。そこに、「失われた近代」を求めていく? 
 花袋の『蒲団』、独歩の『武蔵野』そして、藤村の『破戒』。「人には言えない『=旧』という素性を抱えて隠し続けるがゆえに重苦しくならざるをえない瀬川丑松の胸の内を書くもの」(P144)がどうして四迷のいうところの「自然主義」の「小説」なのか、と。橋本治の「こだわり」が随所に出てきます。
 『破戒』は、けっして被差別民の葛藤を描いたのではなく、「言いだしえない」もどかしさがテーマだとする、そうとらえると、『蒲団』も同様。実にだらだらと牛の涎の如く書き連ねる、そこがまさに「自然主義」文学だ、と。作品(もの)を書いたもの(作者)が「自然主義」ではないと言っても、作品そのものは、四迷が提起(半分揶揄)した類いのジャンルになるというわけですね。
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「妙見島」~「瑞穂大橋・今井水門」。(旧江戸川を遡る。その2)

2013-06-03 19:25:24 | 世間世界
 「新左近川親水公園」から「瑞穂大橋」まで、約4㎞。自転車でも(ジョギングでも)とても走りやすい堤防沿いの道がつながっています。
下流を望む。はるか対岸遠くにディズニーシーにある大きな火山とディズニーランドのシンデレラ城が見えます。
投げ捨てられた自転車が一台、土手の草むらに。
このあたり(堤防と都道450線に囲まれた地域)は、かつては川沿いの湿地帯のようなところ。草むらが残っています。
新井鉄工所。
 西側地域には「日本ロール製造株式会社」の大きな工場がありました。現在は、その南側には二つの大きなショッピングモールになっています。
 この会社・工場では、今から50年以上前の1960年から1974年、13年に亘る労働争議(13年闘争)がありました。その時の争議をもとに製作された映画が、「ドレイ工場」。何年か前に再上映されことがあるようです。

はるかかなた、電線越しに小さくスカイツリーが見えます。

「妙見島」の南端付近。左に見える橋は「浦安橋」。島に渡るにはこの橋詰めを下る。右に見える鉄橋は、東京メトロ「東西線」。盛んに護岸工事が行われています。
「浦安橋」下。
周囲は、コンクリートの岸壁になっています。

 妙見島(みょうけんじま)

 旧江戸川にある島(中州)。南北の幅は約700m、東西の幅は約200m。東京都江戸川区東葛西3丁目の一部。 東京23区唯一の自然島である。(隅田川河口近くに「佃島」「石川島」がほとんどが人工の島で全体が自然の島というのはここのみ。)
 島の周囲はすべて壁のようにコンクリート護岸で囲まれている。護岸工事が行われるまでは「流れる島」と呼ばれ、西から東へ徐々に移動していた。島にある建物のほとんどは工場だが、住人もいる。北部に妙見神社がある。浦安橋から島に降りることができる。
 最古の記録は南北朝時代の1362年(貞治元年)。島に妙見堂が建立されたという記録がある。
 下総国の国府を流れる太日川(江戸川)の河口付近にあたり、交通の要所だった。付近には長島高城があったという説がある。長島には長島湊があり、国府の外港の1つとして栄えた。また長島には1372年(文中元年/応安5年)に、香取神宮の河関(灯油料所)があったことが知られている。
 江戸時代、下総国欠真間村の飛び地だった。島の北は行徳船の航路になっており、江戸の庶民にとってなじみ深い地域だった。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の舞台として登場した。(以上、「wikipedia」参照)
明治中期のようす。妙見島の北にある川は「新川」。
 1895年(明治28年)、千葉県から東京都に編入された。明治時代後半より工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭和初期には工業地帯化した。1940年(昭和15年)、浦安橋が開通した。
 「妙見」とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。妙見信仰は千葉氏が信仰していた日蓮宗とも密接に関わる。日蓮宗は中山法華経寺を中心に布教が行われていた。「妙見堂」の建立は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだったという説もある。なお、初代の妙見堂は、東一之江村(現・江戸川区一之江)の妙覚寺に移されている。

上陸はしなかったので、この図を拝借。ほとんどが倉庫や工場。目立つ高い建物は浦安橋際にある「リバーサイド」という名の「ラブホ」でした。

つい井上陽水の名曲をふと思い出した。

誰も知らない夜明けが明けた時
町の角からステキなバスが出る
若い二人は夢中になれるから
狭いシートに隠れて旅に出る
昼間のうちに何度もKissをして
行く先をたずねるのにつかれはて
日暮れにバスも
タイヤをすりへらし
そこで二人はネオンの字を読んだ

※ホテルはリバーサイド
川沿いリバーサイド
食事もリバーサイド
oh- リバーサイド

チェックインなら寝顔を見せるだけ
部屋のドアは金属のメタルで
シャレたテレビの
プラグはぬいてあり
二人きりでも気持ちは交い合う
ベッドの中で魚になったあと
川に浮かんだプールでひと泳ぎ
どうせ二人は途中でやめるから
夜の長さを何度も味わえる

※印くりかえし

ホテルはリバーサイド
水辺のリバーサイド
レジャーもリバーサイド
oh- リバーサイド
リバーサイド リバーサイド

 ホテルの名は、井上陽水の歌を拝借したのかも知れません。浦安橋際にある目立つホテルです。

東側に比べ、水路が少し狭い西側の水路には釣り船、屋形船が停泊していました。釣り宿も目につきます。パイプが林立する工場は、島内の中部にある「東京油脂工業」。


島の北端。島の北部を占める、業務用マーガリンを主に生産する「月島食品工業東京工場」。都内でも最大の会員制マリンクラブである「ニューポート江戸川」は、東側にあります。
島をはさんで東西に水路は分かれます。
 そこで、「妙見島」の変遷(むしろ周囲の)の歴史。
(1896年~09年)「新川」と「古川」沿岸がそれぞれ栄えていたことが分かります。(直線の川が「新川」、蛇行する川が「古川」)
(1944年~54年)
(1983年~87年)

「新川」。旧江戸川からの取水口。
激しい勢いで水が噴き出しています。
 
 「新川」という名称の川は、全国に、たくさん。そのなかで、江戸川区の「新川」とは?
 
 「新川」は江戸時代に「古川」の流路を一部変更して出来た運河である。古川は古くからある自然の川で、東側は蛇行しており河川交通には不便だった。1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府すると、1594年(文禄3年)に利根川東遷事業を開始し、河川の改造を始めた。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに向かう家康を乗せた船が古川を通過したようであり、その際に座礁したという説もあるらしい。江戸幕府が成立すると、1629年(寛永6年)に三角渡し(現在の三角橋)以東を開削して、水路を直線化する工事を行った。最初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことだったが、1632年(寛永9年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになった。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由し小名木川を通って江戸に向かうルートは、東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になった。旧江戸川の方が水位が高く無風時に船は遡れなかった為か、新川の川岸には味噌・醤油・酒を売る店や「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が出来て、曳船する業者も居て賑わったと言う。
 明治時代になると利根運河が完成し、蒸気船が運航を始めた。最初に登場したのは長距離路線で、内国通運会社の「通運丸」や「利根川丸」が東京 - 銚子間を一日2往復18時間で結び、成田参詣の客に人気となった。しかし1895年(明治28年)に成田山の近くの佐倉まで総武鉄道が開通すると客を奪われ、1919年(大正8年)に廃止された。次に登場したのは短距離路線で、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始めて、浦安と江東区の高橋の間を往復した。
 大正から昭和の初めに「荒川放水路」が完成、1930年(昭和5年)までは、新川は東大島駅の南側にある旧中川まで流れていたが、西側の約1キロメートルが荒川放水路開削工事のため水没した。1928年(昭和3年)に葛西橋、1940年(昭和15年)に浦安橋が完成し、徐々に陸上交通に移っていったが水運は維持され、中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられた。これは小名木川閘門(現・荒川ロックゲート)のほぼ対岸の中堤にあったと言われている(「利根川~江戸川~中川・荒川~旧中川~小名木川~隅田川」という水運の完成)。
 新川は葛西地区を水害から守ってきた存在である。1947年(昭和22年)9月に関東地方を襲ったカスリーン台風は上流部に大洪水を引き起こし、江戸川区はほぼ全域が浸水した。しかし洪水は新川で食い止められ葛西地区は浸水を免れた。ところがその後、南関東ガス田の採掘業者が西葛西や南葛西で1日に2万トンも地下水を汲み上げた為か、急激な地盤沈下が起こり、堤防が危険な状態になってしまった。
 1971年(昭和46年)9月には、西水門がメーカーの設定ミスや東京都の運営ミス、整備不良により突如開いて、異常潮位現象で増水した川の水が一気に流れ込み、約700戸が被害を受ける事故が起きた。その為、新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようにした。その後、新川は運河としては使用されなくなり、船堀閘門も1979年(昭和54年)に閉鎖された。
 1992年(平成4年)から東京都による護岸工事・耐震工事が続いており、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が作られた。2007年(平成19年)までに新川橋以東の2kmが完成し、西側区間の工事は2013年(平成25年)まで行われる予定で、さらに江戸川区の「新川千本桜」計画も進んでいる。この計画は新川に1000本の桜並木を植えて、江戸時代の木橋や石積み護岸を再現したテーマパーク的な遊歩道を作り、カフェや地域交流センター(屋外和船ミュージアム)を建てて、はとバスツアーを誘致するという計画。
 2010年に「新川西水門広場」が完成し、モニュメントとして15.5メートルの「火の見やぐら」が建てられた。一方で計画の予算額は約80億円に及び、区会議員からは無駄遣い・箱物行政という批判も出たようである。その為か2011年に見直しが行われ、人道橋と地域交流センターの数が削減された。(以上、「Wikipedia」参照)
 
 当の江戸川区としては、

 新川は、天正18年(1590年)、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
 現在では、鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺としてとして活用されています。また、平成4年から平成19年まで護岸の耐震・環境整備を東京都が実施し、新川橋から東水門までを除く約2キロメートルを整備しました。その後区が都の未整備箇所の耐震整備をするとともに、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を平成19年4月からスタート。平成23年度に一部見直しを行いましたが、平成26年度の完成に向け整備を進めていきます。
 千本桜植栽の他に9橋の架橋(7橋の人道橋と2橋の広場橋)や「新川さくら館(地域交流センターの名称決定)」などが計画されており、これまでに新川西水門広場及び火の見櫓や、人道橋4橋、広場橋2橋、新川千本桜記念碑などが完成しています。
                                      (以上、「江戸川区」のHPより)

 このように、江戸川区では、区内を縦横に流れていたかつての水路(河川)を親水公園(緑道)にするなど(「古川親水公園」は、日本で最初の親水公園)自然環境を踏まえた都市計画を積極的に行っている区といえます。地元住民、未来の街つくりへの視点は素晴らしいと思いますが、ひとたび、それらを「観光資源」として活用させようという「欲目」が出過ぎると「税金の無駄遣い」という批判も当たっていくことに。そのかねあいが難しいところ。
日本初の河川地下駐車場。
「火の見櫓」からの景観予想図。(どちらも「江戸川区」のHPより)
現在も護岸・整備工事中。

ほぼ堤防沿いに走る「都道450線」。
左奥が「新中川」に架かる「瑞穂大橋」とその向こうに「今井水門」。右奥が「旧江戸川」上流。旧江戸川に架かる橋は「今井橋」。
「旧江戸川」の下流を望む。
 こうして、3回に分けて、「中川・高砂橋」~「新中川・瑞穂大橋」~「旧江戸川・舞浜大橋」~「荒川(中川)・清砂大橋」を走破しました。
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「舞浜大橋」~「新左近川親水公園」。(旧江戸川を遡る。その1)

2013-06-02 20:14:45 | 世間世界
 舞浜大橋のたもとから上流に向かってサイクリング・ジョギングコースが整備されています。川の中流には「妙見島」。今回は、江戸川区の富士公園駐車場に車を駐めて、そこから折り畳み自転車で(ほぼ往復する感じ)。
「富士公園」内にある「江戸川富士」。小高い丘になっています。
駐車場付近から見上げたところ。この公園は、アスレティック、バーベキュー、キャンプなどもできる多目的な公園。環七をまたいでさまざまな施設を持つ公園の旧江戸川側(東側)にあります。公園にしたのは、頭上には高圧鉄線があって高い建物が不可能だったせいもあるのでしょう。

(今昔マップ」より。1965年~68年にかけての地図。)昭和40年代前半にはこうして「海岸堤防」が旧江戸川右岸(西側)の奥まで続いていました。赤い線のところ。当時は対岸の千葉県側も干拓が進んではいないので、河口はかなり広がっていました。
 その後、東京側も千葉側も東京湾の干拓事業が進みます。
(同じく1975年~78年にかけての地図)赤い円形のところ。
旧江戸川の土手。かつての海岸堤防は上流に向かって伸びていました。現在は、その面影はなさそうです。
土手下の遊歩道。ほぼかつての堤防の一部にあたる。
ほぼ直角に曲がった道路。海岸堤防もこうなっていました。
の部分。
その曲がり角には土盛りのままの高台が、堤防の西側に幅広く残っています。
こんな感じ。「ゴルフ禁止」の立て札がありました。
上流を望む。風が心地よい。
下流を望む。鉄橋はJR京葉線。
来た道を振り返る。
対岸のようす。浦安市にある「舞浜公園」の北側。正面の川は、旧江戸川から流れる「見明川」。
赤い斜線部分がもともとの陸地。緑色の部分が埋立て地。その間の運河が現在の「見明川」となっています。
ただ明治中期には「歴史的農業環境閲覧システム」によれば、もともとは「江戸川」河口に大きく広がった三角州の中にあった支流のようです。
「左近川」の旧江戸川水門。
「新左近川親水公園」入り口。
川のせせらぎと緑が豊かな親水公園です。
「なぎさ公園」の北側から南西の方角に流れ、「海岸水門」を経てからはさまざまなレクリエーション施設のある大きな水上公園風になります。この地域には自然を生かし、工夫を凝らした大きな公園がたくさんあります。
下流を望む。対岸の遠くには、ディズニーランド。ホテル群。
明治中・後期のようす。赤い線が「左近川」、黄色い線が海岸線。陸地の一面に田んぼが広がっているのが分かります。
 「将監の鼻」碑の「由来」中の一節「一方では先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうというつらい役割も担って来ました」とあるように、陸地(水田等)への海水の流入を防ぐために、海の浅瀬(三角州)を「海岸堤防」で仕切った(物理的に陸と海とを遮断する)という一面もあるようです。
「江戸川」河口に広がる海水と真水の混じった湿地帯。


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環七~旧江戸川河口・舞浜大橋。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その3。)

2013-06-01 19:34:58 | 歴史・痕跡
 この交差点を渡ると、「臨海町」。周囲は団地。小学校もあって、子ども達の下校姿がちらほら。そろそろ幼稚園バスのお迎えです。
右側は、高層団地。
オートバイなども進入禁止。植え込みが続く中、安心して往き来ができます。
右に小学生の頭が少しのぞいています。
道は左にカーブします。振り返ってみたところ。
ほぼ直角に曲がります。
のところ。
 
 ようやく旧江戸川河口に着きました。「海岸堤防」はもう少し北側、「左近川」と「旧江戸川」との合流点まで「旧江戸川」沿いに入り込んでいました。ここで終点(この先、旧江戸川の西側を「都道450号線」は上流に向かっていく)にします。
来た道を振り返る。中央、遠くに見える観覧車は「葛西臨海公園」内のもの。
風が心地よい。「旧江戸川」の上流を望む。新中川との合流点はここから北の方角。
川幅も広い。
高層団地。ここは、葛西海岸堤防の内側で、干拓以前からの土地。
高い堤防。右の林は「葛西臨海公園」の敷地。対岸に見えるのは、「ディズニーランド」。
左から「一般道」、「高速道」、「一般道」、「鉄道」と四本の橋脚が並んでいます。この長い橋「舞浜大橋」を渡って行く自転車の姿もけっこう目につきます。対岸は、舞浜。ディズニーリゾート。
左手の対岸は、リゾートホテル群。橋の陰には、「ディズニーランド」。
足下は、海の雰囲気。
東京湾を望む。


清砂大橋からここまで。やって来たルートを改めて赤く(埋め立てが始まったころの地図上で)。
 せっかくだから、次回は、ここから「新中川」と「旧江戸川」との合流点「瑞穂大橋」まで遡ってみよう。
 「高砂橋」~「舞浜大橋」~「清砂大橋」。「新中川」から「旧江戸川」河口、さらに「荒川」河口付近までの探索も完成ということになります。
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