おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

すみだ北斎美術館。(じじばばがゆく。鑑賞編。)

2016-12-09 21:31:14 | じじばばがゆく

 お持たせ、何とか間に合ったわ。なんだかんだ家から出てくるのって大変なのよ、主婦は。

 さて、ここからどう行くの? 両国駅の近くだって言うじゃない、タクシーで行きましょ。

 このあいだ、新聞に出ていたわよね、「北斎美術館」のこと。墨田に関係あるの、葛飾北斎さん。

 へえ、この通り「北斎通り」って言うんだ。やっぱり関係があるのかしらね。

 向こうに見えるのは、「江戸東京何とか」って言う建物よね、その横にあるのが、「国技館」か。

 あんな高いホテルあったっけ。「第一ホテル両国」っていうのか。ということは「日大一高」のところよね。

 おばさんが「安田庭園」の近くに住んでいて、昔、来たことがあるけれど。すっかり変わったわね。

 この公園の向こうにあるのが、「北斎美術館」なのね。子どもがいっぱい遊んでいて賑やかなところみたいね。

 公園の一角につくったという感じね。面白い形をした建物だわ。錦糸町からは歩くとけっこうあるわよ。

 65歳以上は900円か、企画展込みの料金なのね。たくさんの人ね。22日にオープンしたばかりでしょ。

開館記念展「北斎の帰還-幻の絵巻と名品コレクション-」―2016年11月22日(火) 〜 2017年1月15日(日)―

 世界的な芸術家として評価の高い葛飾北斎【かつしかほくさい】(1760-1849)は、本所割下水【ほんじょわりげすい】(現在の墨田区北斎通り)付近で生まれ、およそ90年の生涯のほとんどを区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。
 本展のタイトルには、二つの「帰還」の意味が込められています。一つ目は、約100年余りも行方知れずとなっていた幻の絵巻「隅田川両岸景色図巻【すみだがわりょうがんけしきずかん】」が、平成27年に再発見され、海外から日本へ里帰りしたことを意味します。二つ目は、世界に散逸した北斎の名品が、生誕の地すみだに再び集められ、それが北斎専門の美術館で展示される、つまり北斎が名品とともにすみだに帰ってきたことを意味しています。
 これら二つの意味での「北斎の帰還」を祝い、序章「北斎のイメージ」、1章「北斎の描いたすみだ」、2章「幻の絵巻-隅田川両岸景色図巻-」、3章「名品ハイライト」、以上の4つの構成で、前後期合わせて約120点の名品を選りすぐり展示いたします。
 北斎の生まれ故郷に誕生した新しい美術館の建築や展示空間で、北斎の名品の数々をご堪能いただき、その芸術世界をお楽しみいただければ幸いです。
                                                                                                      (HPより)

 これが「隅田川両岸景色図巻」ね。ま、こんなに長く隅田川の景色が細かく描かれていてすごいわね。ここが浅草、ここが向島ね、長命寺か、そうそう、桜餅を買いに行ったことがあったわよ。
 ここが「大槁」って「吾妻橋」のことでしょ。今と比べると楽しいわね。この辺りはあなたのテリトリーでしょ。

常設展示室のごあんない
 常設展示室は7つのエリアで構成されています。北斎とゆかりの地「すみだ」とのつながり「1.すみだと北斎」から始まり、主な画号により6つに分けたエリア(「2.習作の時代」〜「7.肉筆画の時代」)は、各期の代表作(実物大高精細レプリカ)とエピソードを交えて、北斎の生涯を辿ることができます。白黒写真を基に推定復元した、『須佐之男命厄神退治之図すさのおのみことやくじんたいじのず』、『北斎漫画』などの絵手本をタッチパネルモニタで紹介する『北斎絵手本大図鑑』、高精細画面モニタでの錦絵鑑賞、錦絵の制作工程を映像も交えて紹介するコーナーなども見どころです。北斎アトリエの再現模型もあり、楽しみながら北斎についての理解を深めることができます。

                                               (「同」HPより)

 北斎は本所割下水付近で生まれ、幼名は時太郎[ときたろう]のちに鉄蔵[てつぞう]といったといわれています。父親は川村氏としかわからず、幕府の御用鏡師である中島伊勢の養子となったとされています。6歳から絵を描くことに興味を覚え、12歳頃には貸本屋で働いたとされ、14歳頃には版木彫りの仕事をしていましたが、絵を描きたかった北斎は、浮世絵師勝川春章への弟子入りを決意します。

 安永7年(1778年)に勝川春章[かつかわしゅんしょう]に入門し、勝川春朗[しゅんろう]の雅号で浮世絵の世界に登場してから、寛政6年(1794年)に勝川派を離脱するまでの時代。この時代は、勝川派の絵師として、春章の様式に倣った役者絵や黄表[きびょうし]の挿絵などを描いていましたが、子供絵、おもちゃ絵、武者絵、名所絵、角力[すもう]絵、宗教画など幅広い題材の作品も発表しています。なお、肉筆画は少なく、現在確認できるものとして、「鍾軌[しょうき]図」や「婦女風俗[ふじょふうぞく]図」などが遺っているのみです。

 勝川派を去った北斎は、寛政6年(1794年)新しく宗理[そうり]の雅号を用いました。宗理は俵屋宗達らによって開かれた琳派の頭領が使用した雅号です。北斎は、それまでの琳派とも異なる独自の宗理様式を完成させ、狂歌の世界と深く関わり、たくさんの摺物や狂歌絵本の挿絵を描いています。寛政10年(1798年)には、北斎辰政[ときまさ]を名乗って琳派からも独立し、どの流派にも属さないことを宣言しています。作風から享和4年(1804年)頃までが、宗理様式の時代と呼ばれています。

 文化年間(1804年から1818年まで)に入ると、北斎は読本挿絵の制作を精力的に行います。読本挿絵には、基本的に墨色のみでわずかに薄墨が使われることがあります。北斎は墨の濃淡を利用した奥行のある空間表現、奇抜な構図などで読本挿絵の芸術性を飛躍的に高めました。また、陰影表現が特徴的な洋風風景版画も制作しました。肉筆画も多く遺し、最も多作な最晩年に次ぐ制作数があります。現在おなじみの「葛飾北斎」や「戴斗[たいと]」の雅号が登場するのもこの時期です。

53歳から70歳まで
 この時期には門人が増え、北斎の絵を学ぶ人は全国にいたため、北斎は絵手本の制作に情熱を注ぎました。現在、「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に有名な『北斎漫画』の制作もこの時期に始められました。北斎の絵手本は、眺めるだけでも楽しく、工芸品の図案集としても使われました。絵手本以外では、文政年間(1818年から1830年まで)に錦絵の鳥瞰図があり、「為一[いいつ]」の号を使い始めた文政3年から5年までにかけては摺物の制作が増えました。

71歳から74歳まで
 この時期には「冨嶽三十六景」などの風景版画や花鳥画など、現在も有名な錦絵の名作が多数生み出されました。従来、浮世絵には現在風景画と称されているジャンルはなく、「冨嶽三十六景」の大流行により、浮世絵に風景画を確立したのは、北斎の偉大な業績の一つです。絵手本の時代には、洋風表現を大胆に使用した作例もありましたが、この時代にはより洗練した方法で洋風表現を使い、中国の南蘋[なんぴん]派の表現も取り入れています。

75歳から90歳まで
 天保5年(1834年)刊行の『富嶽百景』の中で北斎は、百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描けるだろうと記しました。この時期の北斎は、卍[まんじ]の雅号を用い始めたほか肉筆画に傾倒し、題材も風俗画から和漢の故事に則した作品や宗教画等へと大きく変化する一方、絵を描く人々のために作画技法や絵の具の調合法を記した絵手本等も刊行しています。嘉永2年(1849年)春、病を得た北斎は真の絵師となることを切望していましたが、ついに90年の生涯を終えました。

                                              (「同」HPより)

 ずいぶん有名な作品も展示されているのね。

    

 この「神奈川沖浪裏」。ドビュッシーの交響詩「海」はこれに触発されて作曲されたようなんだって。  「赤富士」。
 
 写真を撮ってもいいんだ、ここは。でも、携帯じゃね、無理だわよ。

           

 ずいぶん前に緒形拳が主演した「北斎漫画」っていう映画があったけど、けっこう面白かったわ。



 ところでさ、北斎ってあっちの絵も描いていたはずでしょ、ほら、去年見に行ったじゃない「春画展」。細川さんのところでやっていた、あれ。ああいうのは展示するわけないよね、ここじゃ。 

 何だっけ、蛸と海女が絡み合っている絵があったじゃない、海女が2匹の蛸に襲われているっていう趣向のもの。あのときもあったわよね、たしか。あら、思い出しちゃったじゃない。

 他にもいくつもあったわ。北斎さん、70過ぎてからもますますお盛んって感じだわね。

 「北斎漫画」では、北斎の老いてまでの絵に対する執念が、猥雑かつ巧みに描かれていたと思ったけど。 
         

 歩き疲れたわ。もうそろそろ、出ましょうか。このソファで寝ちゃダメでしょう、やっぱり。

    

 トイレに行きたいわ、ちょっと待ってて。あれ、ちょっとトイレが男女各一つずつって、少なすぎない? 来るのは年寄りも多いんだから、もっとあっていいわよね。

 もう、公園のトイレに行くしかないかな。いやだ、ここも一つしかないわよ、子どももたくさん遊んでいるのに。

 そういう配慮はあまりなさそうね、ここは。


 これから上野に行かなきゃならないの、久々に「女子会」があるのよ、「女子会」。失礼ね、まだまだりっぱな女子ですから。

 「両国」から「大江戸線」で「御徒町」の方に出ればいいのか。JRじゃなくていいのね。

 そう、「不忍池」の近くにある「何とか農場」だったか「何とか牧場」とかでね。

 今日は、すてきな体験をしたわ。懐かしいところだったし。では、またね。

 ※ 美術館に展示されていましたが、携帯写真では写りが悪いので、改めて「Wikipedia」から借用。

        

                      

 ついでに、
                     『蛸と海女』。 
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小金~我孫子~取手。その5。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-07 20:21:02 | 水戸街道

 (14:34)やっと渡り終えそうです。対岸は、取手市。
    
                                       振り返って望む。対岸は我孫子市。

取手市。



1880年代のようす。明治に入って渡し場の位置が上流の方に移動したようです。



現在のようす。

橋を渡り終えると、右に進みます。常磐線のガード下。

その先で「取手宿」に入ります。「宿場通り」。

(14:49)左奥に「長禅寺」。

その参道入口に「奈良漬の新六」の店があります。

    

奈良漬
 そもそも奈良が発祥の地で、ルーツについては古く奈良時代に遡ることができます。1988年、奈良朝廷の左大臣長屋王(ながやのおう729年没)の邸宅跡から出土した3万点の木管の中に粕漬についての記述木片が発見されました。木片には、ウリ・ナスやミヨウガを酒粕に漬けこみ木箱に入れて進物用に用いられたと記されてあります。
 当時、貴族階級は酒(どぶろく)と粕漬を嗜む趣があり、粕漬は食物のなかで保存食としてまた、香の物として珍重され高級食品であったことがうかがい知れます。その後、粕漬は奈良に訪れる旅人に食され庶民に広く親しまれるようになり、『奈良漬』して一般的に呼ばれるようになりました。
 特に江戸時代には、将軍徳川家康は奈良漬を大変好み、江戸屋敷まで奈良の糸屋宗仙(漢方医で奈良漬を造る名人)を呼び寄せ奈良漬の製造御用商人として召し抱え、四季を問わず食膳に香の物として食していたと言われております。一説には『奈良漬』という名になったのは、糸屋宗仙が慶長年間(1596~1615)に名付けたと言う説もあります。

 取手の奈良漬がもう一つの名産地である由縁は、関東平野を流れる利根川水系と夏野菜を育む豊かな土壌にあります。特に茨城県南部は奈良漬の原料である瓜や胡瓜などを栽培するのに適した地域となっており、良質な新鮮な夏野菜が確保しやすい立地にあります。また銘醸地としても知られている石岡や水戸は、関東地方のなかでも屈指の酒どころで、これらの県産酒から産出される副産物の酒粕が芳醇な奈良漬を生み出す元となっております。

新六本店
・将軍家継の代に、取手に新六住むとある。寛政の頃には酒造業を営み、文政にいたって利根川に廻船問屋に精を出す。粕漬の元になる酒造り、材料を集めるための船運の仕事が、その後の奈良漬造りのために大いに役立つとは・・・
・先々代田中新六、試しに造った奈良漬が意外においしいので、親戚、知人に分けたところ大いにほめられる。気をよくした新六、明治元年にいたって遂に発売しようと決心。屋号もその名の通り「新六」。取手の新六としてたいへん親しまれる。
・その後も日夜、製法を研究練磨しているところ、新六のうわさは村々から近隣の国にまで拡がる。明治33年明治天皇笠間行幸の際、茨城県知事を経て宮内大臣田中光顕閣下より奉献の栄を賜わる。 さらに昭和4年、水戸陸軍特別大演習に、昭和陛下行幸の天覧を賜わり、宮内省より御買上の光栄に浴した。
・大利根の流れが育くむ関東平野。そこにとれる新鮮な野菜を素材に、酒粕やミリン粕のほかは、合成添加物を一切加えず今も木の樽に漬け、土蔵の中に自然にねかせて造る。人手と時間をたっぷりかけた新六の奈良漬の評価は高まるばかり、季節を問わず食膳に欠かせないものとして喜ばれている。

 元来の奈良漬の素材は白瓜。それが中国から仏教とともに日本に渡来し、酒の名産・奈良で中国帰りのお坊さんが漬けたのが発祥とされます。つまり奈良漬は、原料の白瓜がよく育ち、良質の酒粕に恵まれた土地の特産物。その点、ここ利根川水系一帯もよい野菜とよい酒の産地。奈良漬の生まれ育つ風土的条件にはぴったりです。
 奈良漬は、パリパリでもさくさくでもいけません。あくまでもシャリッと、みずみずしい歯ざわりでなければ。肉質がやわらかく、しかも歯切れがよく…。これが奈良漬の真髄です。
 「私が味わって満足できないものは、店に出しません。店に出している製品の味は、すべて私の責任です。生まれたときから奈良漬と一緒に育った私です。いい奈良漬の味を、この舌が知っています。私の第一の務めは、その舌を狂わせないこと。そのためには、何を犠牲にしてもいいと思っています。」


(以上、HPより)

 お店の中はけっこう賑わっています。少し変わっていますが、「生姜」と「山牛蒡」の「奈良漬け」を購入。家で食すると、酒粕の香りと素材のしゃきしゃき感が絶妙で気に入りました。
 茨城県内はもちろんですが、都内では唯一、銀座ので扱っているとのことです。 

(14:55)お隣は明暦元年(1655)創業の「田中酒造」。 

㈱田中酒造店歴史
 江戸前期、陸前浜街道の要衝として発展してきた取手宿。その面影を残すのは取手市内には、参勤交代で使用された本陣と様々な寺社仏閣、そして君萬代醸造元田中酒造店があります。
 常総大地の東のはずれ、利根川の砂礫層を通ってくる豊富な伏流水と後背地に相馬、谷和原の穀倉地帯を控える地の利から創業(明暦元年1655年)以来日本酒を醸造してまいりました。
 明治17年(1884年)、現在の牛久市域で陸軍近衛砲兵の射撃演習が行われた際、明治天皇が行幸し、牛久の旧家が行在所となりました。天皇が利根川を渡り行在所に向かう途中喉の渇きを訴え、造り酒屋の水なら大丈夫、という事で差し出されたのがここの井戸水でした。天皇が大変満足されお気に召した為、天皇の行在所滞在中、水を運ぶこととなり、その功により明治 天皇より下賜されたのが「君萬代」の銘柄であると伝えられています。
           

「君萬代蔵開き 2016年12月4日」。

「本陣通り」。

左手に「染野本陣」。

 (14:58)休館日のため見学できず。奥にある「本陣門」と「案内板」。
    

旧取手宿本陣染野家住宅 茨城県指定建造物(主屋と土蔵は平成8年1月25日、表門は平成26年1月27日に指定)
                         取手市指定史跡(昭和62年1月1日)
 江戸時代、水戸街道は、現在の足立区千住と水戸を結んでいました。大名が宿泊や休息した家を本陣と呼びました。染野家は、代々取手宿の名主を勤めており、水戸徳川家から本陣に指定されました。水戸徳川家の藩主だけでなく、水戸街道を行き来する他の大名や高位の武士も染野家を本陣に利用しました。
江戸時代、取手の宿場はたびたび火災にあい、現在の旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政6年(1794年)の火災の翌年に、表門は文化2年(1805年)に再建されました。現在の敷地はほぼ当時のままで、主屋(しゅおく)・土蔵・表門(おもてもん)・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の歌碑が残っており、当時の様子がうかがえます。
「旧取手宿本陣染野家住宅」。

(以上、HPより)

取手宿
 水戸街道千住宿から5つ目の宿場町。

                          

 現在の茨城県取手市取手・東のあたり。宿場町は東西に1キロ弱の範囲で広がっている。水戸街道は利根川を南北方向に渡っているが、その水戸側・北岸で向きを変えて東南東に向い、取手宿に入る。対岸の江戸側・南岸にも、正規のものではないが、青山宿という小規模な宿場町があった。
 取手宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 取手は、宿場町であるだけではなく、利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったことから、二百軒程度の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。旧道筋には2005年現在も、多少の古建築を見出すことができる。
 
 取手宿と藤代宿との間には小貝川水系の低湿地があり、小貝川は暴れ川であったことから、この区間は東から西へ「本通り」「中通り」「椚木廻り」「大廻り」とルートがわかれ、増水時の迂回路が用意されていた。

                                                   (以上、「Wikipedia」参照。)

 (15:05)次の宿まで行こうと思いましたが、来客があるというので、今回はここまで。
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小金~我孫子~取手。その4。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-06 21:50:35 | 水戸街道

 「我孫子宿」を出て、この先、いよいよ「利根川」を渡って、「取手宿」へ向かいます。


しばらく進むと「成田街道」との追分(分岐点)。

 三叉路のところに「成田道」道標など石塔が建っています。
    

直進する道が「成田街道」。

左斜めに進むのが「旧水戸街道」。
                                               「追分」を振り返って望む。

 JR「成田線」の踏切には「浜街道踏切」とあります。
    

そのまま進むと、旧道はJR線に突き当たります。  

このガードは「通行禁止」。

 その先の常磐線ガードをくぐって、線路の向こう側に出ます。この辺りの旧道はよく分かりません。その先はインターチェンジ風になっていて、どう歩くのか、迷いました。
 「我孫子市教育委員会」の建物脇を通り、右手の「老人福祉施設」の先を左に曲がります。ようやく旧道に復帰できた? 
    

 左手に「柴崎神社」を見て、そのまま進むと、「国道6号線」の「柴崎交差点」に出ます。その先、国道に沿って進みますが、旧道はこの辺りでどのように進んでいたのか? 「国道6号線」東側には旧道が残っているようなので、「青山台」交差点で右に折れて、国道沿いに進みます。
「6号線」方面を振り返る。

クランク状の道筋。振り返って望む。

右折、左折すると、古い家並みが続き、渡し場がその先に。

 突き当たりが、「利根川」の土手。



1880年代のようす。明治になってかつて渡し場は廃止され、現在の国道6号線・「利根川大橋」付近になっているようです。



現在のようす。「国道6号線」と「常磐線」。

 「大利根橋」付近の昔と今。





(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 いよいよ「利根川」を渡ります。現在、下流の常磐線の先に取手市が行っている「渡し船」があるようです。20分近く歩きます。けっこう長い。風は冷たいし、・・・。
    

広い河川敷はゴルフ練習場。

 川幅もけっこうあります。常磐線の鉄橋。
    
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小金~我孫子~取手。その3。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-05 19:33:26 | 水戸街道

 この先、旧水戸街道は、「国道356号線」となります。しばらく進むと、「旧道」はJR線に分断されてしまうので、国道と離れて、跨線橋を渡ります。
 「我孫子市立第4小」の脇を進むと、「我孫子宿」に入ります。

    
                                                来た道を振り返って望む。

この先から「我孫子宿」。

(12:14)宿場らしい鈎型に曲がった道になります。
    

我孫子宿(あびこしゅく)
 水戸街道千住宿から4つ目の宿場町。現在の千葉県我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる。
 本陣・脇本陣が置かれた大規模な宿場町で、東西に1km弱の範囲に広がっている。宿場町東端から数百m水戸側に離れたところには、成田方面に向う街道筋との追分があり、石碑が建てられている。天保14年(1843)では家数114軒、本陣1,脇本陣1軒。常備人馬は10人、10疋。
 旧道筋が拡幅されたこともあり、ほとんど古建築は残されていない。本陣跡も、説明が付された杭が立てられているだけである。

               (「Wikipedia」より)

 (12:25)さて、やっとJR我孫子駅前に着きました。それほど大きな駅ではないようす。さっそく、知人に電話。

「もしもし、今、我孫子駅前にいるんだけれど」
「あっそう、なんでまた? 」
「ほら、水戸街道歩きでここまで来たのさ。」
「それはご苦労様です。」
「飯でも一緒に食おうかと思って。」
「大変残念でしたね。今、銚子に来ているんですよ。銚子。」
「えっ、せっかくの休みの日なのに。」
「キノコの採集でさ、来てるんだよ。けっこう今日は寒いね、ご苦労さん。」
「ホント、風が冷たいよ。」
「僕のうちはさ、天元台駅の方だから。」
「いないうちに行ってどうするんだよ。」
「ここが私のうちかって確認してもらってもいいよ。」
「そんなの意味ないじゃない。これから取手に向かうところだよ。」
「お疲れさん。寒い中、ま、頑張って下さい。」
「このへんに飯屋はあまりなさそうだね。」
「う~ん、老舗のうなぎ屋はその先の方にあるけれどね。」
「ご馳走してくれるならいいけど。」
「銚子だから無理だよ。」

・・・
 
 大いに当てが外れて、「日高屋」に入りました。先週の街道歩きに続いて同じチェーン店に。

我孫子にゆかりのある文化人。そういえば志賀直哉なども。

 さて、再開。我孫子宿の中心地を進みます。

    
                             (12:59)「割烹旅館 角松本店」。

せめて写真だけでも。(HPより)

その先で道は左に折れます。振り返って望む。

道標「従是子ノ神道」と解説板。

水戸道中と我孫子宿の町並み
 江戸幕府は今から約400年前の江戸時代初めから、江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備しました。江戸と水戸とを結ぶ「水戸道中」は水戸徳川家や常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、東海道などの「五街道」に次いで重視されました。水戸道中は奥州街道の千住宿から分岐し、新宿(葛飾区)~松戸宿~小金宿~我孫子宿を結び、江戸初期は布佐から竜ケ崎経由で水戸を目指していましたが、天和2(1682)年には第一小学校入口交差点を北に進み、取手宿を譬喩するルートに変更されたことが資料から判明しています。
 江戸中期の宝暦8(1758)年に書かれた「土浦水戸道中絵図」の我孫子宿(吾孫子と表記)では、カギの手状に曲がった道に沿って70軒ほど家並みが続き、幕府や大名等の公用旅行者の宿泊所である「本陣」(小熊郷右衛門宅)が白い蔵を伴って建っている様子が描写されています(本陣は現在地の北約50㍍)。また、現在地付近には伝馬(馬・人足)と公用文書の輸送(継飛脚)を管轄する役所である「問屋場」が置かれていました。本陣、問屋ばともどのような建物が建っていたのか不明ですが、ここから約1キロ東にある旧村川別荘の母屋は、本陣の離れを大正10(1921)年に解体移築したものと伝えられ、当地角に立つ寛政元(1789)年の「子の神道標」と合わせて、江戸時代の我孫子宿を偲ぶ数少ない資料となっています。

  平成24年3月           我孫子市教育委員会

    

その先、左手に「我孫子本陣跡」碑。 
 この付近には江戸時代の参勤交代などのときに大名などの宿泊・休憩場所として使われた「本陣」がありました。

  平成13年3月           我孫子市教育委員会


 今度は大きく右に曲がりますが、その手前、左手には「脇本陣跡・小熊邸」。今も現役の茅葺き屋根のおうち。
    

交差点の左手には「割烹・鈴木屋」。

そこから来た道を振り返って望む。

 鈴木屋は明治12年に成田街道沿いの宿場町・我孫子の宿という場所に宿屋を構えたのがはじまりです
 おかげさまで137年店を営んでくることができましたこと 心より感謝申し上げます
 我孫子は都心より35分という便利な立地ながら北に雄大な利根川をひかえ南に水鳥の群れる手賀沼をのぞむ緑ふかく、豊かな水に恵まれたその風光明媚な景色から「北の鎌倉」と呼ばれ、かつて志賀直哉をはじめ多くの文人たちに愛されてきました
 時が流れ町の景観がかわりゆくなか 今もなおその自然は多くの人の心に安らぎを与えてくれます
 鈴木屋も日本料理の伝統を受け継ぎつつ、「どこか心安らぐ場所」であり続けたいと願っております

・・・

(以上「鈴木屋」HPより)

 ここでは、毎月、「わいわい亭 寄席」を開催しているとのことです。
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小金~我孫子~取手。その2。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-03 20:35:10 | 水戸街道
 (10:52)「柏神社」前を行きます。北柏から我孫子へ向かいます。

 柏神社脇の解説板。

水戸街道の木戸
 江戸時代、柏市域の一部は小金牧といわれた幕府直轄の馬の放養地、供給地であり、当時の水戸街道はこの牧の中を通過していました。その情景は下の「水戸土浦道中絵図」から探ることができます。
 牧の中を水戸街道が画面東西に走りぬけ、その街道沿いには松並木と想われる樹木、周辺の野原には野馬の群れる姿が見られます。牧のはずれには木戸(「柏木戸」「新木戸」)が置かれ、その周囲には野馬土手が築かれている様子がわかります。
 水戸街道は、水戸藩士の通行や人々の物資の輸送などに使われた重要な道でした。そのため牧と村の出入口には木戸を作り、人々の往来を確保し、無宿者や浪人者などにも対処するための関所の役目も果たしていました。明治時代になって地租改正が行われ土地に番地がつくようになると、柏木戸のあったところが柏一番地となりました。
 現在、木戸は残されていませんが、水戸街道の「新木戸」や成田街道(現在の県道我孫子・関宿線)と言われた「花野井木戸」「船戸木戸」などが今でもバスの停留所の名称として使われています。

駅前商店街。

(10:57)「巻石堂病院」。

ユニークな道標? 

(11:12)「国道16号線」と交差します。    
                                         「旧水戸街道入口」。

たどってきた道(柏方向)。  

これからたどる道(我孫子方向)。

 (11:21)JR常磐線跨線橋を渡ります。正面の建物は、「ハート柏迎賓館」。
    

「ハート柏迎賓館」。
                        ここは、結婚式、歓送迎会、パティーなどに利用されているようです。

線路に沿って進みます。

民家の脇に古い馬頭観音道標。「ながれやまみち」、正面に「馬頭観音」。    


 しばらく進むと、「国道6号線」北柏入口交差点になります。旧道は寸断されるので、陸橋下をくぐります。「国道」の向こうは、大規模物流施設「ロジポート北柏」。

    
                        (11:33)呼塚河岸跡(呼塚橋から。正面は常磐線、その先は手賀沼)


「根戸大坂」。緩やかに右に左に曲がる道筋。

根戸地区。大きなおうちが目立ちます。
    

「災害用井戸 協力の家」。

(11:47)JR「北柏駅」を過ぎた左手に「東陽寺」。

    
                           邸内にたくさんの石像が並ぶおうち。

しばらく進むと、右に大きく曲がります。

昔ながらの大きな農家、そして、祠。  

(12:00)「国道6号線」根戸交差点を渡ります。

    
来た道を振り返って望む。                                  我孫子方向を望む。
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小金~我孫子~取手。その1。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-02 19:00:04 | 水戸街道

 11月23日(祝)。曇り。風冷たし。水戸街道第2日目となります。
 我孫子に知人がいるので、うまくしたら飯でもご馳走してもらおうかと、そんな魂胆で。

 北小金駅を降りて前回の「道標」のところまで。「小金宿」から「国道6号線」に向かいます。


(9:28)今日はけっこう肌寒い。イチョウ並木。

国道6号線との交差点が「根木内」。左側の丘陵が「根木内城跡」。
    
 「北小金」駅方向を振り返って望む。                     

 一帯は、「根木内歴史公園」として整備されています。丘陵奥に広がっています。

(9:37)案内板。 

根木内歴史公園
 松戸市内には戦国時代の城郭が10ヶ所以上あったと考えられています。残念ながら大半は急激な市街化によって消滅してしまいました。当時の面影を残しているのは、ここ根木内城跡と小金城跡の2ヶ所です。
 根木内歴史公園には、「空堀」「土塁」「土橋」などがよく残されています。戦国時代を物語る歴史遺産として、地域の誇りとも言える遺跡です。・・・

城のはじまり 戦国時代がはじまった15世紀中ごろ
築城者    原氏または高城氏(下総国守護千葉氏に関わる武家)
城の役割   小金城の東側を守る拠点・街道の監視など 
城のおわり  豊臣秀吉が天下統一を果たした16世紀末(1590年ごろ)
城郭の規模  東西200m、南北500m(公園の南北を含む推定範囲)

 ゆるやかな坂道を行くと、「柏市」に入ります。
    

右手に庚申塚。   「庚申塚」バス停。

民家の入口付近にあった聖徳太子塔・庚申塔。「中新宿村」とあります。
  

(9:57)その先、香取神社の境内に「一里塚の碑」。
    

一里塚の碑
 この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります
 むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を生やし 旅人たちの目じるしとも 濃い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは嬉しくも美しい 自然と人間との かかわりでもありました 
 ここにも 一里塚があって 長い年月の程を朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です
 過ぎゆく 忽忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この碑を建てました
 昭和六十二年秋 氏子総代
  下陰を さがしてよぶや 親の馬 一茶

 注:この句は、小金牧の放馬を詠んだ句で、季語は下陰。一茶(この頃、48歳)は、文化7年(1810年)6月14日、流山から小金原を経て守谷に向かいます。

   十四 晴  小金原  布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。(『七番日記』より)

 余談ですが、「七番(しちばん)日記」は、一茶48歳から56歳までの句日記で、特に若い妻をめとり、「交合」(セックス)の回数などの記録が赤裸々に綴られているのでも有名な生活記録「日記」です。昼夜を分かたず交合し、子作りに励むようす、精力剤のことなどもあり。(まさかこうして公にされるとは思っていなかった? ということはないでしょうが。) 

 「七番日記」中、有名な句を一句。痩蛙まけるな一茶是に有

旧道沿いには農家風の古いおうち。

 (10:19)直線の旧道は、かつて松並木になっていたそうです。
解説板。

水戸街道の松並木
 江戸時代、水戸街道(水戸道、水戸道中)は、江戸と水戸を結ぶ重要な街道でした。日本橋から千住、江戸川を渡り、松戸、柏の小金牧の中を通り、我孫子で利根川を渡り取手、牛久、土浦を経て水戸に至る行程です。現在、この旧道に沿って国道6号線やJR常磐線が走っています。
 水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていましたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、道に迷うことがあったようです。そこで、水戸藩から資金を与えられた街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木のはじまりといわれています。
 昭和50年代までこの付近には、当時をしのぶ松並木が見られましたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、現在では残されていません。
     
    平成19年10月 柏市教育委員会

 現在のようす。「南柏駅東口」交差点を過ぎた先、「とんこつラーメン店」のところから西に「日光東往還」が始まっています。常磐線跨線橋を渡って西北に向かいます。


日光東往還
 日光東照宮参詣の為に造られた日光街道の脇往還である。水戸街道小金宿 - 我孫子宿間の追分と日光街道石橋宿 - 雀宮宿間の追分を結んでいた。
 日光東往還は、水戸街道小金宿と我孫子宿の間、向小金より北東、かつての小金牧内、現在の柏市豊四季字新木戸(JR常磐線南柏駅付近)で分岐し、関宿、結城といった城下町を経て、日光街道石橋宿と雀宮宿の間、かつての河内郡茂原新田御料、現在の下野市下古山と河内郡上三川町鞘堂の境付近(JR宇都宮線宇都宮貨物ターミナル駅付近)で日光街道に合流する官道であった。その道程は20里34町(約82キロメートル)に及ぶ。参詣目的のほかに周辺大名の参勤交代や物資の輸送、庶民にも利用された。関宿道、結城街道、結城道、多功道という名称もあったほか、江戸幕府による正式名称は関宿通多功道であった。
 現在、周辺住民からは旧日光街道と呼ばれるほか久世街道、結城街道などとも呼ばれる。前述の南柏駅付近を走る国道6号には「旧日光街道入口」という交差点も存在する。
                                                            (以上、「Wikipedia」参照)

(10:25)その付近にある「新木戸」バス停。

    

1880年代のようす。「日光東往還」との追分付近。


現在のようす。すっかり住宅地に。



「雷神社」。

(10:43)JR柏駅前の賑やかな街並みに。

《付》

小金牧 ~開墾と野付村の生活~
 水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

鹿狩絵図(大久保忠寛家蔵)

 小金が原は40里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約2千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。200年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。
 牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜20メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか30キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。

(以上、HPより)
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型通りの猿芝居。何度も何度も見せられる国民。

2016-12-01 19:56:23 | 世間世界
カジノ法案審議入り=自民、今国会成立の意向

 いつものパターン。アベもそれを見越して、強気の態度。「たかがこんな法案ごときで、与党から離れることはないでしょ。」「君たちが賛成しなくても、維新の会が賛成するから」
 この法案、「日本維新の会」への恩を売る法案。ここで恩を売れば、ますます改憲の際には大賛成する。他の法案も、思い通りに。
 「日本維新の会」。今や自公政権の補完勢力として、アベ政権提案の法案にことごとく賛成、賛成。野党、特に「民進党」への憎悪はアベ顔負け。
 しかし、選挙となると頼りになるのは、創価学会の組織票。「維新の会」は吹く風任せの政党(組織といえるかどうか)。結果的に獲得した議席数のみ当てにしている。
 なんといっても、怪しげな信仰心に根ざして、集票活動に手弁当で頑張る「運動員」を抱える組織が頼り。
 衆院選。最近はその時期などもまずアベが公明党党首にささやくことになっている、らしい。
 今夏の「都議選大勝利」が至上命令の公明党・創価学会。出来たら新年早々に、それがだめなら秋口。秋になると時機を失する可能性大。伝家の宝刀をいつ抜くか。フリーハンドでいたい。
 ならば、国民の非難を浴びるかもしれない法案は、今国会ですべて通しておけばいつでもOK。のど元過ぎれば何とやら。年が明ければすっかり忘れて、・・・間髪を入れず選挙で大勝利。これを公明党もしかとご承知の上の猿芝居。こうしてまたも、・・・。

 それにしても、「カジノ法案」に賛成とは!
                                                                               以上
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