おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

菜の花。河津ザクラ。オオヒカンザクラ。カンヒザクラ。梅。そしてスカイツリー。(隅田川情景。その2。)

2022-03-15 21:57:53 | 隅田川

              隅田川堤にて。

このところ急に気温が上がってきました。ソメイヨシノも花芽がふくらんできました。足もとには菜の花が満開。梅はそろそろ終わりの時期? そんな隅田川土手のようすです。

※撮影が3月11日だったのでもうすっかり様変わりしているかもしれません。季節の急な変化に気分も身体もついて行けない今日このごろです。

      

満開の満開の河津ザクラ。

    墨堤通りにて。 

       

オオヒカンザクラが咲き始めました。

               11日の開花状況。

ところが、14日には。

ほぼ満開に。

              

高速道路下には、

                カンヒザクラ(寒緋桜)。鮮やかな緋色。

解説板。

桜の原種の一つ。ベトナム、中国南部、台湾、沖縄、石垣島、奄美大島に分布する。釣り鐘状の花が特徴。寒いときに濃い緋色の花を咲かせるので、「カンヒザクラ」と呼ぶ。「ヒカンザクラ(緋寒桜)」とも呼ばれる。

花の色は白から濃い桃色まで様々。鼻の大きさは1.5~2.5㎝程度。

石垣島で自生するものは国の天然記念物に指定されている。沖縄で「桜」と言えばカンヒザクラのこと。ソメイヨシノの成育が難しい沖縄や奄美地方では、このカンヒザクラに対して開花予想・開花宣言が発表される。

沖縄では1月から2月に開花し、関東以南では2月~3月に架けて花を咲かせる。

この桜とオオシマザクラの自然雑種、サトザクラ群「河津桜(カワズザクラ)が近年、有名になり観光名所に植えられている。

  

まだ梅も咲き誇っています。

            隅田公園(浅草側)にて。

 満開の枝垂れ。

        

      

  

   若い木。枝の先まで花を咲かせています。

一つの木に紅白の花が。

白木蓮の花。テラスにて。何本も見事な花を咲かせています。

花言葉:『気高さ』『高潔な心』『荘厳』『崇敬』『崇高』など。

             「向島百花園」門前にて。

「コロナ蔓延防止」のため、今年も梅の季節に訪れることが出来ませんでした(これで3年連続)。

来年こそは、と。         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都鳥・ユリカモメ。言問団子。言問橋。業平橋。子規。(隅田川情景。その1。)

2022-03-14 20:33:12 | 隅田川

                     「都鳥」ユリカモメ。

隅田川には都鳥がたくさん。そろそろ夏毛も生えてきて、まもなく北国に帰る季節。 

         もうすぐ見られなくなります。                              

近づいても逃げない。目と鼻の先に。

   

       桜橋にて。

  テラスにて。

           

 

          

隅田川夕景。

都鳥「ユリカモメ」といえば。「言問団子」の店先。

名にし負はゞばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

「都」という名を持っているのなら、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのかと。

この歌は、『伊勢物語』の『東下り』にある歌で、主人公の「昔、男」(在原業平が想定されている)が、東国への旅の道中、隅田川で目にした鳥の名前を都鳥と聞いて詠んだ歌。

『古今和歌集』では、この歌の作者は在原業平とされている。

「隅田川」に架かる言問通り・「言問橋」。

こちらは「大横川(親水公園)」に架かる浅草通り・「業平橋」。

かつてはすぐ近くにある東武浅草線の駅名としてありましたが、今は、「とうきょうスカイツリー」駅となっています。

「業平」は、この付近の町名や小学校や公園名として、存在しています。 

         正岡子規の句碑。雪の日の隅田は青し都鳥 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線川間駅~川間駅。その6。金野井大橋。東武野田線鉄橋。川間駅。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-13 20:12:17 | 江戸川を歩く

                      まめバス「岡田河岸」バス停。

ここに河岸があったのでしょうか? 

「海から46.5㎞」。

眼下の田園風景。

上流方向。

「国道16号線(東京環状道路)」・「春日部野田バイパス金野井大橋」。

街道歩き・川歩きでおなじみの「国道16号線」とは、ここではじめて遭遇します。

下流方向。

利根川によって「金野井」地区が東(左岸)西(右岸)に分かれています。

遠くに東武野田線(「アーバンパークライン」)の鉄橋が見えてきます。

   

「海から44.5㎞」。

上流方向。砂州が目に付く。

単線の鉄橋。

大宮方面行き。

船橋方面行き。

路線図。

                              (「ジョルダン」より)

今回の「江戸川」歩きはここまで。「川間駅」に向かいます。

江戸川と利根川の間に位置するところから、明治22年に旧中里・東金野井・船形・尾崎の4ヵ村を合併したおりに「川間村」と命名されました。
昭和32年に野田市に編入されたこの町に駅ができたのは昭和5年で、駅名は旧村名が生かされて命名されました。

この項、「」HPより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線川間駅~川間駅。その5。関宿滑空場。グライダー。「海から48㎞」。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-12 18:55:05 | 江戸川を歩く

                     関宿滑空場。

    「海から49.0㎞」。

                                                                           2010年代のようす。(「歴史的農業環境システム」より)

菜の花が咲く土手に座り、しばし見物。次々と飛んだり、降りたりするので、少しも見飽きません。

    着陸するグライダー。

軽飛行機。

黄色い飛行機とワイヤーでつながったグライダー。いよいよ出発です。

          

あっという間に大空へ。

「妻沼滑空場」で見たグライダーは、地上の車にワイヤーでつなぎ(ウインチ曳航)、宙に浮くと外れて(外して)滑空するものでした。

        妻沼滑空場にて。

    

           「NPO法人関宿滑空場」格納庫。

さあ、出発です。

      

          

               

ちょうどこの日(3月5日)に飛んでいた方の投稿記事を見つけました。以下借用させていただきます。

※小生が見物していた時間は、午後1時半過ぎでした。

・・・

京浜ソアリングクラブ」HPより

通常活動日の3月6日(日)は冬型の気圧配置で強い北西風の予報で、土曜日(5日)に活動しました。

天候は晴れ、弱い南の風から強くなり時々15ktとなり14時頃の早めの撤収です。

juniorの撤収ロング後 機体回収待ちに撮りました

※この黄色の飛行機とつながれた白いグライダーを、当方は右の土手の上から眺めていたかも。

まだお日様は高いけど早めの撤収です バラしだしたら更に風強くなり気を使いました

    (投稿者・sasamotoさん)

・・・

「海から48.0㎞」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月11日「東日本大震災」から11年目。福島第一原発事故から11年。「学習会」講演記録。

2022-03-11 20:09:12 | 平和

              爆発後の3号機原子炉建屋の外観(2011年3月15日撮影)

現在のようす。

 「東日本大震災」から11年が経ちました。地震発生当時、新宿の都庁にいて、大きな縦揺れ、横揺れでただ座席に座り込んでいたのを、昨日のように思います。

 その日の夕方、同僚が「原発があぶない」と。すぐ福島にいた娘さんに「早く避難した方がいい」と連絡していたことが印象深く残っています。

 その後の推移をみると、ひとたび原発事故が起こると、人々の生命や暮らしが大変な事態になるという現実を思い知らされます。

 ウクライナでロシア軍がチェルノブイリ原発に攻撃をした、他の原発にも砲弾を、という報道を見聞きするたびに、「福島原発事故」の悲惨さ、現状をきちんととらえ直す必要がある、と。

 昨年12月、下記のような講演会に参加しました。発言内容を参加した方で発言内容をPCにそのまま打ち込める方がいて(速記者のようです)、その記録も参考にしながら、その内容をおおまかに掲載します。

福島第一原発の1号機~4号機(2020年撮影)

2021年12月4日

福島原発事故から10年
          見えない化される事故被害をどう伝える?

講 師 満田夏花(みつたかんな)さん

①原発ゼロにしなければならないこれだけの理由

 311の前は、原発がないと電気が足りなくなる、原発は安い、原発は安全とか、私たちは刷り込まれていたと思いますが、もはやそれを信じている人は誰もいないという感じですね。
 国際的にみると再生可能エネルギーが急成長しています。(グラフを示して) これは、世界の、太陽光、風力および原発の設備容量の推移なんですが、かなり昔に風力も太陽光も原発を上回っている。実際の発電も上回ったというようなニュースが最近流れていました。
 日本も今東日本では原発ゼロの状況が続いています。宮城県の女川原発では来年以降動くんじゃないかということで、県民が県民投票条例を求めて県議会に提出しましたが、否決されました。茨城の東海第2原発も2022年以降に動くかもしれないのですが、県知事も含め周辺自治体が慎重です。各地で色々な住民の反対運動や訴訟も起こって、一旦稼働したものも止まったりしています。原発というのは技術的のみならず社会的にも不安定な電源になっています。
 四国電力エリアの2018年5月20日の電力の供給と需要を表した図(画像を示しながら)で見ると、需要の線を供給が上回っている状態で調整しなくてはいけない。一日のうち数時間の間なのですが、再生可能エネルギー100%という状況は作られているですが、太陽光は変動型の再生可能エネルギーなので、それをどういう風にうまく調整していくのかが課題になっています。
 言うまでもなく、原発は高いです。特に、建設費が高騰していて、今一基建てると1兆円くらいかかってしまう状況で、政府の計算でも原発は太陽光より高いというような結果になっています。国際的にも、太陽光とか風力は導入が進むにつれてどんどん安くなってきています。原発は事故とかトラブルがあるたびに後付けで安全対策が必要になり、事故のコストは政府試算でも21.5兆円です。この負担は東電が負担すると見せかけて、社会全体でこのコストを負担するという仕組みができてしまってます。
 先般、COP26がグラスゴーで開かれました。石炭火力に脚光があたったんですが、原子力産業の皆さんも、気候変動対策に原発を使おうという動きをしていましたが、本当に気候変動対策になるのでしょうか。実は原発を気候変動対策にすべきでない理由がいくつもあります。(ビデオ視聴)

1)解決不能な核のゴミ……核のゴミの放射能が十分に低くなるには10万年かかる。地下300mにうず
めるというが、場所も決まっていない。

2)原発のコスト……近年原発の建設費は一基あたり1兆円以上、地震や津波、火災などに対する安全対策の額は5兆円を超える

3)原発は不安定でリスクが大きい……福島第一原発はすべての電源を失い、炉心が冷却できなくなり、
原子炉建屋があいついで爆発。全国各地での原発を巡るトラブル、あわやという事故、データの改ざん、運転差し止め訴訟。社会的にも技術的にもリスクが高く、安定しているとはとても言えない。

4)原発止めてもCO2は減少……2014年からCO2の排出量は減少傾向。再生可能エネルギーの増加と電
力需要の減少が理由。一方、原発増加の過去50年、CO2は増加。原発の存在そのものが、電力の大量
消費を促進した側面がある

5) 再生可能エネルギー100%は可能……日本でも、需要の100%を再生可能エネルギーでまかなえるエリア、時間帯が出てきている。変動型の再生可能エネルギーを揚水発電や他地域との融通で調整する仕組みも進む。再生可能エネルギーの拡大や、省エネルギーこそ、確実で有効な気候変動対策

 第6次エネルギー基本計画が10月に閣議決定されましたが、原発は「低廉かつ安定的な電力供給、地球温暖化への対応」と相変わらずで、前回同様2030年度の電力供給量に占める割合が20~22%ということになっています。今は4%程度ですから20~22%というのは、実現不可能と思われる数字です。
核燃サイクルはすでに破綻しています。六ケ所再処理工場は25回も工事の完成時期が延びて、動かないうちからもう老朽化しているという状況になっています。非常に危険な高レベル廃液を生み出して、その過程で大量の放射性物質が環境中に出てしまうという怖い施設です。何としても止めたい。

②終わらない原発事故と被害の見えない化

(アニメーションを示して)これは原発事故の直後の放射性物質を含んだ「プルーム」と呼ばれる大気の塊の流れを再現したもので、風向きによっては内陸の方に行っているのがお分かりだと思います。県境とか関係ないんです。3月15日、北西の方向にプルームが伸びて、その時に雨とか雪が降って、放射性物質が地上に降って、セシウムが土に固着して、細長く飯館方面に伸びるエリアに強い放射性物質の汚染が残ってしまったと言われています。

今、各地の原発は、30キロ圏の自治体が避難計画を作ることになっているんですが、単純な距離など全然関係ないのが(画像で)お分かりだと思います。
 福島の震災関連死は多いです。原発事故によって避難を強いられた人、すごく長い避難を強いられ、元々の暮らし、生きがいを失ってしまった、もともとのコミュニティが壊れてしまった、というのが原因だと思います。自殺された方もたくさんいます。
 2011年4月、文科省が学校施設の利用基準を年20ミリシーベルトにしようと福島県の教育委員会に通知を出しました。国際勧告では公衆の被ばく限度は1ミリシーベルトです。訓練された作業員の方が働く基準、放射線管理区域の基準も年5ミリシーベルト、白血病の労災認定の基準も年5ミリシーベルト。年20ミリシーベルトを子どもも含む一般公衆に強いるのかということで、父母たちが撤回を迫るということがありました。FoE JAPANもいっしょに取り組んだ運動のひとつです。文部科学省は20ミリを撤回はしなかったけれど、年1ミリシーベルトを目指すというあいまいな通知を送り直しました。
福島第一原発事故とチェルノブイリ原発事故の対応を比べると差が歴然としています(画像を示しながら)。チェルノブイリ原発事故の場合は年5ミリシーベルト以上は強制避難。年1~5ミリシーベルトは移住の権利。つまり、避難した人に対して、国家としてのサポートがあったということなんですね。
 ところが日本は20キロ圏という距離と、放射線量としては年20ミリシーベルト以上を避難指示の区域としました。チェルノブイリの方は、土壌汚染の基準も設けていたんですが、日本の場合は空間線量だけで、土壌の問題を言っても特段問題にされませんでした。
 (この画像は)2011年当初の住民たちの声ですが、避難指示が出た地域以外の人たちからも苦難に満ちた声があがりました。FoE JAPANとしてこういう声を集めて、文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会にこういう人たちにも賠償すべきだと言いました。国連の人権理事会の関係の調査をしている人たちにもこれを英訳して送りました。
 その甲斐があったのか、2012年6月、私たちが「子ども被災者支援法」と呼んだ「避難した人もとどまっている人も帰還した人も、それぞれが自らの選択を行えるように、国が適切に支援する」という趣旨の法律が議員立法でできました。しかしこの支援法は棚上げされ、実施されなかったんです。基本方針を決めることになっていたのに全然決まらずに2013年まで来て、訴訟を起こされる段になって基本方針が閣議決定されました。すべて骨抜き、被災者とか支援者が言ってることはすべて無視した内容でした。一番問題だったのは、支援対象区域というのを法律では線量(我々は「1ミリシーベルト以上」と主張)で決めることにしたのに、福島県の浜通りと中通りという地域で切られました。しかも支援内容が、既存の施策の寄せ集めで、支援法で追加的にこういう支援がある、というのはほぼなくなりました。
 そうこうするうちに避難指示区域はどんどん打ち切られ、今はこのピンクの帰還困難区域が残るのみです。2020年の3月に海側に常磐線が通り、それより前に高速道路が開通し、それより前に国道6号線も通れるようになるという感じで、どんどん避難指示区域は解除されていきました。2020年、オリンピックイヤーに合わせたように、「帰還困難区域解除」という見出しが新聞に踊りました。

 今は、空間線量自体は下がっています。それは喜ばしいことだと思います。問題は土壌汚染で、空間線量ほどは下がっていません。例えば私たちが支援している南相馬市の原町区の土壌汚染の状況でいうと、青色で描いてあるところ以外は全部放射線管理区域以上の汚染になっています。

 避難者はやはりどんどん減っています。帰りたいと思って帰った人も多いんですが、避難継続が無理で帰らざるを得なかった方々もいらっしゃいます。避難者数は減っていますが、カウントされていない避難者もいらっしゃって、福島県発表の数字は35703人と書いてありますが、市町村が把握している避難者を足し合わせるとその2倍ぐらいになっています。     

 2017年3月に区域外避難(自主避難)対象者の住宅支援が打ち切られ死活問題となったのですが、7割くらいの人は福島に帰らずに避難継続を選択されました。東京都が7月に行ったアンケート調査では世帯収入10万円未満が22%とか、5万円未満という人が8.7%とか、厳しい状況に置かれているということがわかります。国は実態調査をしませんでした。

 新潟県の検証委員会が昨年出した報告では(画像を示して)ご覧のように「様々な喪失や分断が生じている」とか「人間関係を取り戻せていない」とか「仕事とか生きがいとかを失っている」とか、「母子避難の孤立感」が挙げられています。女性の方がすごく危機感を感じて、自分の子どもを守らなきゃとか、自分も守らなきゃということで避難をしているのですが、里帰りしてすごく責められたり、事故はとっくに終わっているのに何で帰ってこないのとか。いつまで甘えてるんだ、「賠償金をもらっているだろう」とか……。孤立感もあって精神的に追い詰められてしまう方もいらっしゃいます。

 帰還した人はどうなっているのか?(画像を示して)黄色のところは事故前の人口、真ん中の黄緑のところが直近の人口、一番下の緑は実際に住んでいる人口です。実際に住んでいる人の数は数割、実際に住んでいる人の数には、東電関係者とか、子会社の関係者とか、政府のイノベーション・コースト構想でITとかロボットとかモックアップ施設とかその企業の人も含まれているので、もともとの住人はさらに少ないと思います。

③ばらまかれる放射性物質 ALPS処理汚染水をめぐる状況

 汚染水(政府は「処理水」という)もたいへん大きな問題になっています。原発のデブリを冷やした水と地下水が混じりあった水をくみ上げて一部はまた冷却水に使い、多核種除去装置(ALPS)を通したものを今タンクに貯めています。凍土壁をお金をかけて作ったのですが、全然地下水を止められていないので今も流入が止まっていない状況にあります。
 タンクの中には860兆ベクレルのトリチウム、その他にもヨウ素129とかルテニウム106とかストロンチウム90などの放射性物質が基準を越えて残留していてその総量は不明ですが、7割の水で基準越えが発生しており、東電の発表でも基準の最大2万倍です。東電はトリチウム以外の放射性物質については、二次処理して基準以下にしてから放出すると言っていますが、やはり総量は不明です。

今の計画は、この処理汚染水を海水で100倍以上に希釈して一日当たり数十万トン(プール100杯分)以上を30年くらいかけて海洋に放出する、2024年4月1日に開始するということです。東電は海底トンネルを1キロ掘って放出する、風評被害については押さえる、風評被害が起きたら賠償すると説明しています。
 トリチウムは通常の原発からも出されています。福島第一原発の場合は、2010年の実績で2兆ベクレルのトリチウムが海に出されていたそうです。現在、タンクの中にたまっているトリチウムは、その400倍くらい。国内の普通の原発ではトリチウム以外の放射性物質は検出限界以下ですが、福島第一原発の処理水にもトリチウム以外の放射性物質も含まれているわけで、30年間流し続けていいのかということが問われています。
 沸騰水型の原発では、炉心に触れた水と冷却水は別系統になるので、炉心に触れた水は海には流していないのですが、処理汚染水は炉心に触れているので、何が入っているのかわからないのが怖いのです。
 トリチウム自体も、政府は安全な物質であるかのように広報していますが、安全かどうか、放射性物質なので量に応じた影響は当然のことながらあるわけです。水素の同位体なので有機化合物の水素と置き換わってしまって、生物の体の中に入る。DNAを構成する水素原子と置き換わって、ダイレクトにDNAを損傷する。放射線を出してDNAを損傷することもあるかもしれません。

 最後に。私としては風評被害という言葉がすごく気になっています。私どもがたとえば「トリチウムは危険」と言うと、「風評を引き起こす者」というレッテル張りされるわけです。冷静な議論ができないし、問題提起しづらくなりますよね。「風評被害」で加害者の責任をあいまいにするのは、嫌なやり方だと思っています。放射性物質はこれ以上海に流すべきではない、原発も止めるべきだと思います。

福島第一原発。

※写真はすべて「」HPより)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月10日。「東京(下町)大空襲」から77年。(附)墨田区立第二寺島小学校の「くすのき」。

2022-03-10 20:24:13 | 平和

     焦土と化した本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの(「Wikipedia」より)。

右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館※この建物は戦後、「「日大講堂」となる。1983年(昭和58年)老朽化が激しくなっていたため、解体。解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。)

「太平洋戦争」末期。昭和20年(1945)3月10日未明。米軍の絨毯爆撃によって、東京の隅田川東部の本所、深川、向島といった下町を焼け尽くしたときから、すでに76年の月日が流れました。このブログでも取り上げたことがあります。

①で掲載した府立三中(現両国中・高校)は、この時の惨禍を悼み、その後、3月10日には「卒業式」という晴れがましい催しを行わない伝統があったそうです。

このブログでも何回か取り上げています。そのうちのいくつかを再掲。

①江東橋付近。旧制府立三中『百周年記念誌』より。

「江東橋」。大横川親水公園。
 東京大空襲。1945(昭和20)年3月10日未明。東京下町地区、現在の台東・墨田・江東区を襲った米軍による焼夷弾・無差別絨毯爆撃による死者、約10万人とも。その正確な死傷者の数は、いまだに分かりません。
 特に、本所深川地区は数万に及ぶ死者とたくさんの負傷者が出ました。ここは、もともと木造家屋が密集していた地域。次々と火の手が上がっていきましたが、四方から迫る炎で逃げまどう人々。その被災民の避難路を断ったのが、この地域に縦横に走る、隅田川などの河川・運河でした。
 逃げまどう人はこれらの河川にかかる橋に両側から殺到しました。橋の上で焼死する者、逃げ場を水に求めて川に飛び込む人。その水中もけっして安全ではなく、高熱の火流が川の上をなめるように渡ったといいます。また、3月中旬の真夜中、冷たい水の中に身を浸し、水死した者もいました。
 翌朝、隅田川など下町の橋の上や水中には、黒こげの死体や水死体が浮かび、地獄そのもの様相を呈しました。
 府立三中(現在の都立両国高校)は、錦糸町駅の南西、大横川にかかる橋・江東橋のたもと付近にある学校。この時の空襲で校舎の一部が 焼失することになります。当時、錦糸町駅の方向から西へ向かう避難民と両国方面から江東橋を渡り、三中に逃げ込もうとする人々は、校門から学校の中に入ることが出来ず、再び江東橋へ戻ろうとする人も多かったといいます。避難場所として多くの住民が避難して来る中、学校では、校長をはじめ教職員が必死に消火活動や避難民受け入れに当たります。この学校の「創立百周年記念誌」(2002年発行)には、当時の生々しい体験(当時の生徒達の声)がたくさん掲載されています。この日の真夜中の惨状、阿鼻叫喚の地獄を知ることが出来ます。
(その一)
 「一面の火の玉、火の塊は一体何が燃えているのであろうか。大きいのはドラム缶ほどの物体が炎を上げながら十数米の高さを飛んで行くのである。多分、火の勢いは既に北側は電車通りの向かい側、西側は江東橋の架かっている辺りまで迫っていたのではなかろうか。避難してきた人々の必死の叫びや、バリバリと物の燃える音、・・・」
 次々と校舎が延焼する中、南側に位置するプールに飛び込んで、凍るような冷たい水の中で一夜を明かし、命が助かった者もいました。一瞬の運・不運が、人の生死を分けました。

(その二)
 「人と煙に追われ、逃げ惑う群衆の中で私達家族はその波に呑み込まれた。家の近くの江東橋の上は火焔と熱風に追われる狂乱の大群衆、それはまさに煮えたぎる地獄の釜の中の様相である。人々は酷熱風火に耐えられず我先に厳寒の死の川へ飛び込んだ。私達家族も猛火に追われ次々に飛び降りた。母は、3歳の弟を背に身をひるがえした。幸い川岸の筏の上に助けあげることが出来た。
・・・その時岸辺の家々があっという間に猛火に包まれた。その熱気で我が身は湯気のかたまりとなった。焼け落ちた家々の向こうを仰ぎ見ると、我が母校は窓々から火焔と黒煙を吹き上げ炎上中であった。
・・・猛烈な火焔と火の粉は川面へ吹き付け、筏にも火が付いた。我々は必死で消火に努めた。呼吸はつまり、目ははれふさがりこの世の姿ではなかった。猛火と熱風との闘いもやっと終わり空も白んできた。3月十日の寒空に朝日が差し込んできたころ、辺りは完全に焼き尽くされていた。」

 この筆者一家は、幸いにも生き延びましたが、生きて夜明けを迎えた人は少数でした。三中の教員で、当日、宿直していた方は、十日朝の江東橋下(大横川)の惨状を「熱風に耐えられず飛び込んだ人々はほとんど全員が寒さで命を落とし、水面がみえなくなるまで死体で埋めてしまった」と、後日、記しています。
 それから、64年の月日が経ちました。
 写真は、現在の江東橋のようすです。橋の下に、大横川の流れはなくなり、一帯が親水公園として広い管理された水面があるだけです。
 京葉道路に架かる橋もきれいに強固な橋として一新され、阿鼻叫喚の地獄図は想像もできません。
 
②錦糸公園。仮埋葬。
JR錦糸町駅のすぐ北東側にある「錦糸公園」。東京大空襲では、1万余の遺体がこの公園に仮埋葬されました。死体は人目につかない公園に集められ、火葬することなく仮埋葬された。錦糸公園1万5千体、上野公園8400体、隅田公園4900体など、公園と空き地は一時しのぎの墓地と早変わりした。仮埋葬された遺体は、戦後三年後に掘り起こされ、墨田区横網町の東京都慰霊堂内の昭和大戦殉職者納骨堂に納められた。写真は、終戦直後のままに残されたと思われる公園の一角。
 
③「本所吾妻橋」付近。
逃げまどう人々は、行き先々で河川に阻まれて、多くの人々が犠牲になりました。言問橋の上だけでも千名近くが焼死しています。また広い川面を火がなめるように渡ったという、恐怖、かつ信じられないような光景を証言する人もいます。一夜明けてからの惨状は目を覆うものばかりでした。一面の焼け野原、おびただしい死体、川には、焼死体、水死体が無数に浮かぶ・・・。
 
④「飛木稲荷神社」の大イチョウ。
目通り回り約4.8メートル、樹齢はおよそ500年から600年と考えられており、墨田区内に現存する樹木では最古とされる。戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、樹勢が衰えたが、現在は回復。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝える希少な存在。 
         
 
⑤旧江戸川区の文書庫。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
すっかり焼け野原のなかで焼け残った二階建、特殊コンクリートブロック建物。後世に、戦争の惨禍を語り継ぐため、周りを整地し、こぢんまりとしていることが、かえって戦争の被害の大きさを無言で語っているかのようです。内部は見ることは出来ませんが、掲示された写真からその惨状がはっきりと残っています。外壁は痛み方が激しいためか、補強がなされていて、痛々しい感じです。                                       この文書庫正面に「世代を結ぶ平和像」が立っています。「小松川さくらホール」の小さな公園の中、木々に囲まれた中にあります。

⑥東京都慰霊堂。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災による遭難死者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の多かった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に1930年(昭和5年)に建てられた。その後、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲などによる殉難者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、1951年(昭和26)年に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されている。

⑦爆弾によって曲がった旧「浅草国際劇場」の鉄骨、壁。その一部が東武線・鐘ヶ淵駅近くの多聞寺にある。

⑧浅草寺境内にあるイチョウの木が、戦禍にも負けず焼けただれたまま、復活して緑豊かになっている。

焼け焦げた痕がはっきり残っている。本堂の向かって右手。休憩所近く。

⑨隅田川沿いには、橋のたもとや隅田公園などに被災者の慰霊碑があります。

   「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。

戦災によって亡くなられた方々の碑

 隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄のもとに忘れさられようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。昭和61年3月 台東区

⑩「言問橋の縁石」。
 ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。
    

・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

「東京スカイツリー」では今日を慰霊の日としてライトアップするそうです。

荒川・「四つ木橋」から。

遠すぎるので、下の写真を借用。

(「東京新聞」より。)

(明日は、「東日本大震災」の慰霊としてライトアップするとか。)

(附)東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき」。

樹齢400年とも伝えられる「くすのき」は、高さ約6m、幹回り約2.7m、幹の中に大きな空洞ができているが、見事蘇り、校庭のど真ん中にどっしりと構えています

この「くすのき」が東京大空襲の戦禍にも耐えて今もある、ということを聞きました。

さっそく今日、訪問しました。放課後の校庭。何人か子どもたちが遊んでいました。

             

        

                 

 

「東京大空襲」の体験者もほとんどいなくなりました。語り継ぎ、戦争の悲劇を二度と繰り返さないために。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線川間駅~川間駅。その4。大凧あげ祭り。いちいのホール。将棋・関根名人。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-09 20:44:10 | 江戸川を歩く

         

         野田・関宿と春日部・西宝珠花を結ぶ幹線道路のようで、車がけっこう行き来しています。

「↑松戸流山 →春日部」。

左手奥に「関宿中央(バス)ターミナル」があります。朝、東武線・川間駅から朝日バスに乗り、ここで、「野田市まめバス」に乗り換え、「関宿城博物館」へ向かいました。

 「宝珠花橋」東詰。

               「海から51.0㎞」。    

橋のたもとにあるモニュメント。

                 河川舟運(かせんしゅううん)が盛んだったことを偲ばせる。

    

サッカーグランド。

この対岸の河川敷が「大凧あげ祭り会場」になっています。

5月の連休。薫風の大空に、縦15m・横11m・重さ800kgの2張の大凧が飛揚

大凧の歴史

大凧に関する史料の初出は西宝珠花にある小流寺の過去帳である。  この過去帳によれば、天保12年(西暦1841年)9月11日に出羽の国の僧「浄信」が、各地巡礼の折に小流寺に宿泊し、土地の人々を集めて養蚕の豊作占いとして凧あげを伝えたことが記されている。人々は喜び合って、その翌年より繭の収穫時期に凧を揚げるようになったと伝えられている。

当時の流通手段は、舟運が主であり、東北地方や関東一円から江戸(東京)への舟運交通として江戸川が大きな役割を果たしていた。その舟運の要所として、宝珠花は大いに賑わい、この地方の文化経済の中心として繁栄していた。

 そこで人寄せのため、繭の収穫前に行っていた凧あげを旧5月の端午節句に男子出生のお祝いとして行うようになった。各戸で子どもの名前や紋章を書いた凧を作り、凧あげ祭りを行うようになった。一部において、凧合戦も行われたようである。

 各戸で揚げていた凧が、いつの頃からか共同で揚げるようになり、凧の大きさも徐々に大きくなり、明治の初期には現在の半分の大きさに、明治中期頃には現在の大きさになったと伝えられている。これまで、戦争や河川改修による宝珠花の移転等で中止された年もあったが、大凧の歴史と伝統は、多くの人々によって継承されこの地に息づいている。

 大凧あげ祭りは、昭和42年までは「宝珠花の大凧あげ祭り」であったが、昭和43年から「庄和の大凧あげ祭り」となり、平成17年10月1日の旧春日部市と庄和町の合併により、「春日部の大凧あげ祭り」と実施主催が変更となっている。

凧文字の変遷

 大凧の凧文字はその年の世相を反映した文字を公募により選定している。
子凧文字は市内の小学5年生から募集し選定している。

2019年度

(この項、「」HPより)

昨年は中止になりましたが、今年は着々と準備が進んでいます。

         (「同」HPより)

先に進みます。

振り返る。

左手に「いちいのホール」。

平成15年6月6日、野田市と関宿町は合併し、新しい野田市が発足。
平成16年4月1日、旧関宿町役場庁舎を支所・図書館・コミュニティ会館・関根名人記念館などの入る複合施設「いちいのホール」としてオープンした。

※「いちい」は旧関宿町の木であった「イチイ」に由来。

※「関根名人」将棋棋士。

千葉県東宝珠花(ひがしほうしゅばな)(現野田市)の生まれ。11歳で11世伊藤宗印名人に入門棋界の不振時代に全国を行脚(あんぎゃ)、修行し、弟子の発掘に尽くした。1905年(明治38)8段、21年(大正10)13世名人となる。35年(昭和10)名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立した。親分肌で人間味にあふれ、対阪田三吉戦をはじめ棋道行脚に数多くの逸話を残す。後進の育成にも尽力し、門下には土居市太郎金易二郎(こんやすじろう)、花田長太郎木村義雄(よしお)など名棋士を出している。直門に限らず明治・大正生まれの棋士には彼に指導感化された者が多い。関根流の「春風のやうにさらりと指すべし」の名人戦講評、泰然とした正座対局、あふれる人情味は、大名人の風格があった。野田市東宝珠花に将棋の駒をかたどった墓碑がある。

[原田泰夫]『木村義雄他監修『日本将棋大系13』(1980・筑摩書房)』(「コトバンク」より)

後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎木村義雄を筆頭に8人を輩出している。また、その直弟子らも数多くのプロ棋士を輩出しており、孫弟子にも名伯楽として知られる高柳敏夫花村元司がいるなど、現代の将棋界において関根門下の系譜が最大の数を誇る。タイトルホルダーも数多く輩出しており、名人経験者だけでも、実力制第一代名人となる木村以降、塚田正夫中原誠加藤一二三羽生善治森内俊之がいる。(「Wikipedia」より)

将棋界のことはほとんど分かりません(藤井聡太君の大活躍ぶりは知っています)が、この方は、すごい名人だったんですね。

河川敷の工事現場が続く。

ほぼ真横にグライダーが。

面白い看板。  

右は分かりますが(でも、「いたずらしちゃうよ?」はアウトかな?)、左の「活用工事現場」「人工衛星を利用し位置を算出します」とは?

「海から49.5㎞」。

              「関宿滑空場」。

         地上にも空にも軽飛行機やグライダーが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線川間駅~川間駅。その3。渡良瀬遊水池ヨシ焼き。「海から55.0㎞」。関宿。宝珠花橋。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-08 20:17:14 | 江戸川を歩く

3月5日(土)。利根川と江戸川の分岐点から目撃した、怪しげな雲の正体は、渡良瀬遊水池ヨシ焼きの煙だったのですね。

  

4市2町などでつくる「渡良瀬遊水地ヨシ焼き連絡会」が害虫駆除や湿地の環境保全などを目的に実施している。昨年は荒天で中止したため、2年ぶりとなった。

 午前8時半、遊水地の各所で一斉に火入れ。土手に並んだ見学者は、ヨシが春風にあおられ燃え上がる様子を写真に収めていた。

 同会は「例年より早く燃えた。ドローンも使い、鎮火確認もスムーズにできた」とした。

       

(この項、「下野新聞チャンネル」HP。映像は「YouTube」より))

※栃木市内でもそのときの灰が降ってきたようです。

閑話休題。さて、「江戸川」歩きの続き。

眼下の田園風景。

歩き始めたときを除き、江戸川の水面をはっきり見る機会がなかったのですが、ここでやっと身近に。

       

「海から55㎞」。

             土手に座って小休止。

のどかな風景。

飛行機の姿が向こうに(↓)。

この先にある「関宿滑空場」に向かうようです。

    「海から54.0㎞」。

川の中央に工作物が。

岩? 杭? 橋の跡?

船の航行には危険なようです。いったい何でしょうか? ご存じの方は教えて下さい。

眼下に関宿の家並み。

振り返る。

関宿みんなのスポーツの広場。

「海から51.5㎞」。

       向こうに見える橋は「宝珠花橋」。旧東・西宝珠花村(現在の春日部市と野田市)を結ぶ橋。

宝珠花村(ほうしゅばなむら)は埼玉県の東部、北葛飾郡に属していた。現在の春日部市西宝珠花と、千葉県野田市東宝珠花にあたる。江戸川河川敷で行われる大凧揚げで知られる。

讀賣新聞 2007年(平成19年)5月12日(土曜日)朝刊
地名を歩く 36
西宝珠花(にしほうしゅばな)(春日部市)
~帆を干した河川の町~

 春日部市北東部、千葉県と接する江P川の堤防沿いに住宅地、田圃地帯が広がる。堤防にほぼ並行して走る目抜き通りにある古い木造建築は、1952年ごろの堤防拡張工事で集団移転したものだ。

 時代をさかのぼって1640年ごろ、下総の国と呼ばれた時代、この地域に人工水路として江戸川が開かれ、「宝珠花」地区は二つに分断される。一つは東宝珠花(現千葉県野田市)、もう一つが西宝珠花だ。

 新たに整備された江戸川に、物資を運ぶほっかけ舟が往来するようになった。現在の西宝珠花あたりは、荷物の揚げ下ろしや船宿、呉服問屋などで栄え、有数の河岸となる。約40キロメートルほど離れた江戸の町から、荷を積んで川を上ってきた船頭たちは、ここに舟を留め、体を休めたり、ぬれた帆を干したりしたという。

 この土地に少なくとも8代前から住み続ける小川建一さん(79)は「『帆を干す』という音がいつしか『ほうしゅ』という音に置き換わった」という土地の言い伝えを教えてくれた。

 春日部市文化財保護課は「昔、ほうしゅという音に何かしら漢字をあてる必要が生じた際に、イメージの良い『宝珠』いう字を使ったのではないか」と指摘する。

 一方、角川日本地名大辞典は「『はな』は大地の鼻先、『ほうしゅ』は榜示(ほうし)で、境界になった地の意」と明記。江戸川で二分された地を示しているという。

 約300年ほど前、河岸だった所は今、広大な河川敷となった。毎年5月、端午の節句を祝う「大凧(おおだこ)あげ祭り」でにぎわっている。

(この項、「」HPより)

                     1880年代のようす。東西に「寶珠花村」。

 渡船場があり、右岸は、河岸として賑わっている。現在は、河川敷になってしまっているようだ。

                     2010年代のようす。河川敷が広がる。

     右岸の河川敷が「大凧(おおだこ)あげ祭り」の会場。

※「なみき」は漢字では「次木」。

※「江戸川」は「利根川」から分岐した「人工水路」であることが分かります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線川間駅~川間駅。その2。関宿城趾。関宿城大手門跡(「とんかつ合掌」)。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-07 20:22:24 | 江戸川を歩く

           利根川の向こうには相変わらず怪しげな雲が。

土手下を見ると、何やら石碑が。遠回りしてそこへ向かいます。

「関宿城趾」碑。

「関宿城博物館」の南西500mほどの江戸川河川敷一帯が、「関宿城」だった。城跡は度重なる河川改修のため、3分の2が江戸川土手の下になり、さらに田畑の開発で、小さな雑木林の中に関宿城本丸跡(碑)が残るのみ。

             

                   北に「関宿城博物館」の模擬天守閣が見える。

解説板。

東を望む。

そのまま土手下の道を進む。

       

この先、左手に、

関宿城大手門と城を囲む土塁・堀。

関宿城は利根川、江戸川、逆川に挟まれ、城の周りに土塁と堀を巡らした堅牢な守りの平城でした。本丸を取り囲む二の丸や三の丸、発端曲輪、天神曲輪の他、その南側には家臣団の屋敷が置かれました。ここは、大手門があった場所で、野田方面から北上する日光東往還が関宿城に接する表玄関です。すぐ脇には城を囲む外堀の名残が見られます。

※関宿城大手門は、幕末に戦費調達のために豪族に売却され、現在は、栃木県下野市のとんかつ店に移築されている、とか。

というと、「日光道中」歩きの際、たしかに見かけました。その時は知りませんでしたが、写真には撮ってあります。

「とんかつ合掌」。まさかこの大きな門が「関宿城大手門」とは!

この先左手、旧「日光東往還」沿いに「関所跡」碑があるのですが、見逃してしまいます。

遠くに「関宿橋」。

振り返る。怪しげな雲の塊。

       対岸。

               関宿橋。  

「海から57.5㎞」。

「川の国埼玉へようこそ」。

                          対岸は、埼玉県幸手市。

      

両側は菜の花畑。

「海から57.0㎞」。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線川間駅~川間駅。その1。利根川との分岐点。浚渫船。「海から59.25㎞」。菜の花。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-06 18:31:52 | 江戸川を歩く

                「利根川」から「江戸川」が分岐する地点。右が利根川、左が江戸川。

そこからの江戸川。

3月5日(土)。晴れ。

さっそく、「関宿城博物館」までやってきました。

東武線「川間駅」からバスを乗り継いで、10時前に「関宿城博物館」へ。

そこから「利根川」と「江戸川」との分岐点まで歩き、そこから江戸川土手を、再び東武線「川間駅」まで。

利用した鉄道は「川間駅」から「川間駅」というわけです。

まず「江戸川」について。

総延長59.5㎞。茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点(関宿水閘門のやや上流)で利根川と分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境を南に向かう。千葉県市川市付近で、本流である江戸川と旧流路である旧江戸川に分かれる。

現在の江戸川の最下流部は放水路として建設され、行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り、千葉県市川市で東京湾に注ぐ。1960年河川法改正に伴い、この区間の名称が江戸川放水路から江戸川になったものの、依然として「江戸川放水路」と呼ばれることも多い。

現在でも天然ウナギが捕れるほか、江戸川の河口付近は、三番瀬など東京湾でも数少ない干潟が広がる地域でもあり、トビハゼの北限生息地となっている。汽水性の希少なトンボであるヒヌマイトトンボの生息地の一つでもある。

利根川から江戸川に流れる水は関宿水門で水量を調整され、江戸川下流の住宅地が水害に遭いにくいようになっている。江戸川は北千葉導水路からの水を合わせて首都圏上水道を支えている。しかし、江戸川が比較的人口の多い地域を流れるため、水質が良いとは言えず、浄水場によっては高度浄水処理を行っている(東京都水道局金町浄水場など)。

(この項、「Wikipedia」より)

東京の東部・下町に住む人間には「荒川」「中川」と並び、とてもなじみの深い川です。

今回は、左岸を歩くことにしましたので、河口まで千葉県側を歩くことになります。その1回目。

先端まで行けるか心配でしたが、護岸工事用のしっかりした道(砂利道ですが)が先端まで続いていました。

平日は工事のため、立入禁止か?

江戸川の流れ。

      利根川の対岸。

しばらく眺めます。

                    中央は利根川に架かる「圏央道」の橋脚。

一面霞んだような空模様。赤城山方向に奇妙な雲の塊。黒い噴煙を上げているような部分も。雨雲のような感じもないし、・・・。赤城山が噴火するわけはないはずです。いったい?

遠くに関宿城。

       

利根川の河川敷(葦)。

振り返る。

                右が利根川、左が江戸川。どちらも葦が茂っています。怪しい雲も。

「関宿城博物館」の下まで戻り、いよいよ江戸川を下ります。

     

          

  雨が降る気配はなさそう。

土手に上がると、  

 

  解説板。 

川底を浚う(浚渫)       

川の作用

川の作用には浸食、運搬、堆積という作用があります。浸食とは、川の流れによって川底や川岸が削られることです。洪水時にはこの作用が大きくなります。そして、削られた砂や土は、川の流れに乗って下流へ運ばれます。これが運搬です。下流に運ばれた砂や土は、流れの遅い場所の川底に溜まります。これが堆積です。

浚渫の必要性

砂や土の堆積によって川底が高くなると、洪水時に氾濫しやすくなったり、船の運航に支障をきたすため、川底の土や砂を浚う必要があります。機械のない時代、浚渫は鋤簾(じょれん)という道具を使って人力で行っていました。この作業には、多くの人々、費用・日数を必要としていました。やがて、明治時代に西欧諸国から浚渫船が輸入され、浚渫工事の効率化が図られました。

  

先に進みます。

「海から59.25㎞」。

関宿の田園風景。

土手一面の菜の花。

                 

     前回(2月23日)から一気に緑が増えて、「啓蟄」らしい季節に。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その5。東北新幹線。利根川橋。房川渡し。栗橋関所趾。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-03-04 20:14:13 | 利根川を歩く

                  「東北新幹線」。

橋脚付近でも護岸工事が進んでいます。なかなか土手に上がる道がないまま、県道を進みます。

整備が進む道路。

土手に近づく。

新設された土手に上がる階段。上は未整備の公園と整備された土手の道。

久々に見る利根川の流れ。

                       東北新幹線の橋脚と筑波山。

栗橋(宿)の街並み。

宿場だった栗橋には「日光街道(道中)」歩きの際に通過しました。

栗橋宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
 慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
 栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。

下流を望む。

                       「海から129.5㎞」。     

上流には、「国道4号線(日光街道)・利根川橋」が。

       

利根川橋
 埼玉県久喜市栗橋北と、茨城県古河市中田を結ぶ利根川に架かる道路橋である。
 江戸時代この場所の右岸には栗橋関所、左岸には中田宿があり、その間を渡船で結んでいた。橋は東海道の大井川と同じような江戸防衛という軍事的な理由などで建設されなかったが、徳川将軍が江戸から日光東照宮へ参拝するときだけは、和船を並べ上に板を渡した船橋(せんきょう)が作られた。
 明治時代に入り、明治天皇が何度か東北巡幸した際も、仮設橋を用いて一行を渡河していた。やがて陸軍の近代化に伴って、部隊の移動に支障があるような河川に架橋する計画が持ち上がり、1924年(大正13年)に内務省の手によって旧上り橋が完成した。利根川の中・下流域で最初に架けられた近代的な道路橋である。
 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による災害後の利根川改修工事によって、堤防のかさ上げと古河側の引堤が行われ、それにあわせて橋脚のかさ上げと橋桁が増やされた。
 やがて高度経済成長期を迎え、交通量が増加したことから1966年(昭和41年)に上流側に新橋を建設、1924年に建設された旧橋を旧上り・新橋を下り専用とした。
 近年、橋を通る車両の大型化による負荷の増大と、建設から80年近くが経ったことによる老朽化や、橋脚数が多いことによる出水時の河川に対する悪影響などの理由により、旧上り橋が架け替えられることになり、2005年(平成17年)から旧上り橋の下流側で工事が行われ、2009年(平成21年)12月に新上り橋が供用を開始した。廃橋となる旧上り橋は撤去されるが、土木工学史上価値のある近代化遺産であることから古河総合公園内で一部が保存される予定である。
(以上、「Wikipedia」参照)

利根川橋のたもとへ。

                    遠くに赤城山。  

          

                 奥武蔵の山々が遠くに。 

道路脇の一画に石碑が。「栗橋関所趾」の碑でした。

 

   解説板。

・・・この碑は、大正13年(1924)に旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の書で旧堤上に建碑されたものである。度重なる堤防改修工事で、この碑も移動を繰り返してきた。この地は現在行われている利根川の堤防強化対策事業に伴い、仮移転したものである。

房川渡と栗橋関所
 江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じた。したがって、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが設置された。 この舟渡しに置かれた関所が栗橋関所であった。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。 中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。
 1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。 

全景。  

                     1880年代のようす。渡し場がある。

                     2010年代のようす。利根川橋が工事中。

2016年6月・「日光街道歩き」のときも、この付近で利根川護岸工事が大規模に行われ、周辺一帯が区画整理などで掘り返されていました。

河川敷では工事中。

                    上流にはJR宇都宮線の鉄橋。

利根川歩きの上流編の出発地に到着。これで銚子河口からここまでつながりました。

      

            「利根川を歩く」第1回目(2021年10月)のときの写真。 

利根川橋と筑波山。     

東武線「栗橋駅」に向かいます。

「国交省 利根川上流河川事務所」前庭に、護岸工事で使われた機関車・貨車が展示されています。

庁舎の一角に、加藤製作所製の小型機関車(自重7t・日野自動車製70馬力エンジン搭載)と、ナベトロ(積載量1m3)と呼ばれる貨車3台が連結されて保存されています。増水期の度に猛り狂ってきた利根川を諫めるべく、繰り返されてきた治水工事の担い手として活躍した旧建設省所有機です。

 こういったトロッコに限らず、大昔の建設省はトラックやブルドーザーなどの施工機械も、施工に必要な材料も、場合によっては人夫も全て自前で調達し、直営で工事を遂行していました。
 現在は工事を発注し請負契約を結んで施工しますから、施工機械も材料も作業員も請負企業持ち(一部特殊な材料は支給することがあります)。現・国土交通省が施工機械を保有することはありません。あるとすれば、災害時に出動する排水ポンプ車か、投光器搭載車くらいのものです。

 トロッコ自体は、今でもトンネル工事などで用いられているので、実は然程珍しいものではありません。
 このトロッコ機関車が貴重なのは、機関車自体の古さに加え、発注機関が公共事業を直営していた時代の名残を今に伝えるからです。(「国交省 利根川上流河川事務所」HPより)

栗橋駅にあったポスター。

             こういう企画があるとは知りませんでした。

掲示されている宿場をすでにクリアしてしまっている小生には今さらですが、すばらしいアイデアだと思います。

さて、これで「利根川を歩く」は、沼田の手前までつながりました。その先の上流は、雪が溶ける陽春になってから出かけることにします。

利根川から江戸川が分岐する「関宿城博物館」まで行ったので、次回は、「江戸川」を歩いて下ることにします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河津ザクラ。ウメ。隅田公園。+曳舟川・めだかの小道。

2022-03-02 20:30:29 | じじばばがゆく

めっきり春らしくなりそうな気配。まだまだ寒の戻りもありそうですが。

今朝の隅田公園。

例年より少し遅れ気味だった河津ザクラ。やっと鮮やかな花が咲き始めました。

            

水鳥がたくさん水面に。

          

殺風景な冬景色から少しずつ木々の花が色づき、葉も薄緑色に。ソメイヨシノも花の芽が出始めてきました。

もうすぐ春の賑わいに。

ウメの花も。  

 

 

ちょっと気が早いですが、長命寺の桜餅でも買って帰りましょうか。

(追)曳舟川の河津ザクラ。 

                   

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その4。新利根川橋。旧赤堀川。五霞町。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-03-01 21:02:53 | 利根川を歩く

            河川敷の工事が盛んに行われています。

新利根川橋。

              国道4号線・春日部古河バイパスが通る。

        

茨城県猿島郡五霞町と茨城県猿島郡境町との間の利根川赤堀川)を渡る、国道4号春日部古河バイパスである。

1981年昭和56年)4月7日日本道路公団が建設し、20年の償還期間を設けた有料道路として、往復2車線の暫定供用を開始した。2001年平成13年)4月7日に無料開放され、国道4号春日部古河バイパスの一部として管理されている。なお橋脚・橋台等の下部工は竣工時から往復4車線分準備していたものの、長らく暫定2車線のままであった。その後、圏央道の建設工事に並行する形で、4車線化工事を実施し、2015年(平成27年)3月27日に4車線化された

上流の利根川橋の交通量の負担軽減が、架橋目的の一つであったが、有料橋だった当時、通行料金を嫌って所要時間がそれほど変わらない、下流の境大橋へ迂回する車両が殆どで、当初計画していた建設費用や用地費用129億円を通行料金で徴収する償還計画が、計244億円の債務を抱えたまま償還が破綻した

(この項、「Wikipedia」より)

※現在の利根川は、江戸時代、「赤堀川」として開削された。

     

1880年代のようす。現利根川は、「赤堀川」と記されている。南方に流れるのが「権現堂川」。

 

     

2010年代のようす。左は「東北新幹線」。右に、「国道4号線バイパス」と「圏央道」が利根川を渡っている。

浅間山噴火による土砂堆積などの問題に対する治水の目的で、文化6年(1809年)と明治4年(1871年)の2度にわたって行われた赤堀川拡幅を行い、利根川の水の大半が常陸川方面に流れるようになり、赤堀川は事実上利根川の本流が流れることとなった。昭和3年(1928年)に権現堂川が廃されて以降は、かつての赤堀川・常陸川筋が完全に利根川の本流となっている。

土手には咲き始めた菜の花。

                遠くに浅間山。

正面右に赤城山、左に浅間山。

対岸は、茨城県古河市。

  筑波山。

「海から126㎞」。

  遠くに日光連山。

振り返る。

舗装道路はここまで。この先は工事中。

「海から127㎞」。

           

土手下の県道に下ります。

 

迂回して進む。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする