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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その4。古利根橋。起点から10㎞。旧日光街道。川の駅ふじつか。藤塚橋。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-13 21:23:21 | 中川を遡る

               水管橋と並んで「古利根橋」。

     対岸は、越谷市。

下流を振り返る。

「始点(中川合流点)から8.13㎞」。

先に見える橋が「古利根川橋」。

国道4号線バイパス。             

古利根橋を振り返る。

古利根川橋をくぐります。橋のたもとにうどんのお店が。土手沿いに幟がはためく。

水原秋桜子の句。青葭の そよぎて禽は 水に入りぬ

                              ※「青葭」夏の季語

釣り人一人。

植え終えたばかりの田んぼ。

ここにも小舟。

                     うち捨てられたまま。

「起点(中川合流点)から10㎞」。東武線「一ノ割駅」まであとわずか。

          

「川の駅ふじつか」案内図。

①大落古利根川周辺には、流作場と呼ばれる田んぼがありました。流作場とは、河川堤防内の田んぼのことで、洪水のときは収穫がありません。ハンノキは、かさがけ(木の間にロープを張り稲を干すこと)に利用されました。

②むかしは川でカラスガイ取りが行われていました。

③藤塚地域では、河畔砂丘が形成されました。河畔砂丘は、大きな河川の平野部に作られる特殊な地形で、川の氾濫と季節風によって作られます。

                  この付近の今昔。

                                                                   

1880年代のようす。渡船場がある。川沿いが旧日光街道。     2010年代のようす。藤塚橋が架かっている。

                                                                          1880年代のようす。自然堤防があり、微耕地が広がっています。

「藤塚橋」。この橋を渡って「一ノ割駅」へ。

「起点から11.24㎞」。

川の中央に木がポツンと。

東武伊勢崎線「一ノ割駅」。

「一ノ割」は、古くは「下総(しもうさ)の国」に属し「市野(いちの)割(わり)村」と呼ばれていました。 その後、田畑となっている土地を、一ノ割、ニノ割と分けて呼んだ事から、明治時代には「一ノ割村」となったそうです。 大正15年、東武伊勢崎線の新駅開設時には、地名から「一ノ割駅」と命名されました。

今回は、ここまで。

次回、「大落古利根川」の起点まで歩くことに。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その3。桜並木。かがり火公園。堂面橋・渡し。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-12 20:29:27 | 中川を遡る

               土手沿いに桜並木が続きます。

解説板。

             地元の方の環境整備の熱意を感じます。

亀が悠々と。

「大落古利根川リバーウォーキング」。

       距離が示され、目安になって助かります。

「堂面橋」。

その先に、「かがり火公園」。

遊歩道から下流を望む。

上流方向。

               釣りをする人がテラスに腰掛けて。

解説板。高浜虚子の句 藻刈り舟 つなぎ上りし 昼餉かな

                     ※「藻刈り舟」=藻を刈るために用いる小舟。季語は夏。

同じく 泳ぎ児や 河童のごとく 藻をかぶる

さらに、この付近にあった「堂面の渡し」の解説が。

『武蔵国郡村誌』の埼玉郡向畑村の項には「耕作渡 村道に属し村の東方 古利根川の下流にあり 渡船一艘 私渡」とあります。昭和30年(1955)の初代堂面橋架橋まで営業していました。また、堂面橋周辺は、大落古利根川沿いの桜並木と富士山、川面に映る夕焼けといった良好な景観が望めるポイントとなります。

また、松伏町の名の由来や特色の解説も。

(由来は省略)・・・江戸川、中川、大落古利根川の3本の河川が流れ、春には川辺がからし菜や桜で彩られるほど、多くの自然が残っています。町の北部と南部に広がる水田、点在する屋敷林といった貴重な田園風景が町の景観のとくしょくとなっています。・・・

この付近の今昔。

1880年代のようす。渡し場がある。

     ただし、街道等の渡しではなく、上記にもあるように耕作地への行き来に利用されたもののようだ。

2010年代のようす。

       三角形のところが「かがり火公園」。

大河の趣。

「始点(中川合流点)から6㎞」。

その先に、古い距離標(「6.2K」)。

先に進みます。

右手に旧土手。

新旧土手の間に水田。

緑道が続きます。たまに散歩する人たちと行き違う。

木製の小舟が一艘、川面に。

                まだ現役のような印象。これで行き来するのでしょうか。

緑道のすぐ脇にも畑地。

               春日部市に入ります。

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水元公園。花菖蒲。「芝木好子『葛飾の女』」碑。

2022-06-11 20:45:24 | じじばばがゆく

菖蒲の咲く頃の葛飾は美しい 田園は青葉に霞んで 雲雀が鳴く 堤の桜も花見のころは人が出盛ったが それも過ぎると 水に柳の眺めのよい季節になる 沼地の多い土地柄で 田の畦にも菖蒲が咲いた

                                        『葛飾の女』より 芝木好子

師である日本画家への思慕を絶つため、葛飾に嫁していった女弟子の懊悩を、水郷の景物を背景に描いた作品。

6月10日(金)。水元公園の花菖蒲を見に出かけました。

水元公園の「花菖蒲田圃」「みずもと桜堤」と「小合溜」の間に大きく広がっています。

    ○一帯。

           小合溜の対岸は、埼玉県三郷市。

          睡蓮。

                     1880年代のようす。

「小合溜井」(現在の「水元公園」)への流れの一部が、現在の「大場川」となっている。

                     2010年代のようす。

かつての流れが現在も市区の境になっている(足立区、葛飾区、八潮市、三郷市)。

けっこうな人出。 

1年目のものから3,4年目のものまで。若い菖蒲から最盛期の菖蒲、そして熟し切った菖蒲と、田圃ごとに区分けされ、それぞれが精一杯、見事な花を楽しませてくれます。 

             

            

        1年生から3,4年生。それぞれの生育ぶりがよく分かります。

所々に四阿があって、花菖蒲を眺めながら、ユックリとくつろげます。

        

土日には屋台なども出て、華やいだ雰囲気に。3年ぶりのお祭りです。

コロナ禍で外出もままならなかった年寄り、足の不自由な人など、梅雨の晴れ間、つかの間の散策を楽しんでいるようです。

向こうにステージや屋台が。

               

          花菖蒲の咲く田圃には、木橋が架けられ、身近に観察できます。

ガクアジサイと花菖蒲。

                       アジサイも最盛期です。

キンシバイも存在感あり。

                    

中国原産で、和名は中国名の「金糸梅」に由来し、これは5枚の花弁を梅に、長く突き出た雄蕊を金の糸に喩えたもの。

             

田圃が点在し、それぞれ楽しみながら散策できます。「堀切菖蒲園」や「小岩菖蒲園」とはまた違った味わい。

            (「講談社文庫」HPより)

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その2。松伏町。ウォーキングロード。古利根堰。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-10 20:25:03 | 中川を遡る

            「水と緑のネットワーク」案内板。

        左岸も右岸もウォーキングコースとして整備されています。

中川との合流点を振り返る。

          左岸は、松伏(まつぶし)町。対岸は、越谷市。

ところで、「松伏町」とは?

松伏町は、埼玉県の東南部、北葛飾郡のやや南に位置し、都心から30km内の首都圏近郊整備地帯に属しており、東は江戸川を隔てて千葉県野田市、南は吉川市、西は大落古利根川を境に越谷市、また、北は春日部市に接しています。
 町域は、東西約4km、南北約7.5kmと南北に長い形をなしていて、行政区域面積は、16.20平方kmです。

 地形は、一部北部の台地を除いて標高4mから6mの氾濫平野自然堤防で形成された、ほぼ平坦地です。

(地名の由来は、)松伏町の名の由来
 「まつぶし」という地名の由来には2説あります。ひとつは、巷説に、
中世末期に松伏に移住した石川民部家が移植させた松の樹形が伏せ松であったから、とする説です。もうひとつは地形由来説で、「ぶし」とは河川が形成した自然堤防地形を意味し、松の生えた「ぶし」が地名の起こりとなったといいます。

(この項、「松伏町」HPより)

河川敷にも遊歩道が。

     林と茅と芝と。

          「始点(中川合流点)から1.3㎞」。

その下に加藤楸邨の句畔塗りて 新しき野が 息づけり(る)

※季語「畔塗り」=春、畦を土で塗り固めること。

田んぼを取り囲んでいる土の壁に田んぼの土を塗り付けて、割れ目や穴を塞ぎ、防水加工をすること。モグラやケラが開けた穴から水が漏れるのも防ぐ。

(「」より)

「ふれあい橋」。

上流に「水管橋」。

対岸左奥は、「増林公園」。

             

両岸とも河川敷が広く、土手も低くて、開放感があります。

土手のすぐ脇には、畑。

川面と河川敷と土手とその外側とあまり高低差がありません。川が運んできた土砂によって微高地が形成されているようです。

      

川幅は狭いが、緑豊か。

            快適なウォーキングロード。

前方に「古利根堰」が見えてきます。

「寿橋」。

「古利根堰」。

上流側は最大貯水量2,000千㎥、貯水面積109haに及ぶ松伏溜井となっていて、右岸側から瓦曽根溜井に送水する「逆川」(「葛西用水」)の取水をしている頭首工。

※「頭首工」

農業用水を河川から取水するため、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門、堰堤、土砂吐等)のこと。用水路の頭の部分にあたることからこのように呼ばれている。

大落古利根川の水位を調整するためのもので、最初に設置されたのは寛永7年(1630)という記録が残っています。古利根堰をダムのように利用し川の流れを制限することで、洪水防止のために隣を流れる逆川へ水を逃したり、稲作が開始される5月頃には、川から水を引き込み、農業用水を確保したりしています。堰の利用時の水位と、普段の水位の高低差は約3メートルにもなります。また、多くの水を溜めた様子は「松伏溜井」と呼ばれ、昔から親しまれてきました。
(「松伏今昔物語」より)

水門の右手に「逆川(葛西用水)」取水口。

「松伏溜井」。

                 この付近の今昔。

1880年代のようす。2010年代のようす。

川幅がめっきり広くなります。ここで小休止。

「始点(中川合流点)から4㎞」。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「一ノ割駅」。その1。大落古利根川(おおおとしふるとねがわ。サギコロニー。合流点。(「中川」を遡る。第3回目。)

2022-06-09 20:32:21 | 中川を遡る

                「月の公園」。ネーミングの根拠が今ひとつ。

今回は、「中川」を歩き、分岐点から「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」へ向かいます。

大落古利根川

埼玉県を流れる一級河川利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル

江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。

起点の碑(久喜市内)

現在の起点は久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋である。杉戸町・宮代町春日部市越谷市松伏町の境界付近を流れ、中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。起点には上流から葛西用水路が流れ込んでいる。名の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。大河の頃の名残で流域には発達した河畔砂丘自然堤防が見られる

古利根川と上流の葛西用水路の一部は江戸時代以前の利根川本流であり、利根川の主要分流である会の川浅間川とが合流した地点(加須市川口)から南流し東京湾へ注いだ。古い流路(最下流については隅田川)は、武蔵国下総国葛飾郡)の当初の境界だった。

最下流は葛飾区亀有付近で二つに分流し、江戸川区西葛西付近を河口に持つ東の河道は中川(現在の旧中川)、葛飾区小菅墨田区向島付近を通り現在の横十間川付近の河口へ向かう西の河道隅田川と呼ばれた(「古隅田川」)。両者の河口は接近しており、挟まれた位置には亀戸島があった。東京湾へ注ぐ分流量の比は近世にかけて後者から前者の河道へ移った。

杉戸町高野付近は高野川とも呼ばれ、中世の奥州街道が川を渡っていた鎌倉街道)。

利根川東遷以前には、戦国時代に太田道灌江戸城を築いたときの石材運搬や、兵糧米の輸送に使われた

文禄3年(1594年)に会の川の流頭が締め切られ元和7年(1621年)に浅間川久喜市佐間で南への流れが締め切られたため、利根川から切り離され古利根川と呼ばれるようになった。

1918年(大正7年)の開削工事で庄内古川下流が松伏町下赤岩(越谷市との境)付近で古利根川へ接続された。庄内古川および合流点から河口に至る旧古利根川河道は全て中川とされた。

(この項、「Wikipedia」より)

大落古利根川の河道は上流の葛西用水から連続しており、久喜市と杉戸町の境にある葛西橋から松伏町下赤岩付近で中川に合流するまでの延長26.7km、流域面積182.3kmの区間が一級河川となっています。

※現在も、利根川の流れは「利根大堰」から埼玉用水、葛西用水路等を経由して流れ込んでいます。利根川から葛西用水路への取水口(跡)は、「利根川」歩きの時、羽生市付近で探索しました。「葛西用水路」は、途中、「古利根堰」から分流し、南下します。

1000年前のようす。

利根川東遷事業。

(地図は「」より)

ということで、かつて「中川」が上流では「古利根川」と呼称されていたこともあり、「中川」から「(大落)古利根川」に向かい、その起点まで歩くことにしました。

JR武蔵野線・吉川駅で下車に、西に向かうとすぐ中川の土手に。ただし、護岸工事中のため下の道を進み、「月の公園」のところで土手に上がります。

JR武蔵野線の鉄橋。

「吉越橋」。

対岸は、越谷市。

              左奥には、「レイクタウン」が広がっています。

長年、周辺の問題となっていた中川綾瀬川元荒川流域の治水と新市街地整備を同時に実施するため、区画整理地内に大規模な治水施設として大相模調節池を造成、同時に池の周辺に商業施設や集合住宅、公園などを誘致・建設し、調節池の周辺一帯をニュータウンとして整備した、と。

「吉川橋」。

            橋の向こうが「元荒川」合流点。

※「元荒川」は、江戸時代以前の荒川本流。ここで利根川と荒川が合流していた。

吉川市マンホール(仕切り弁)。ナマズが描かれている。

上流からの「吉川橋」。

      

川面や林にシラサギの姿が。

水管橋付近にはたくさん。

対岸にサギコロニー (サギ繁殖地)。

             合流する川は、「新方(にいがた)川」。

たくさんのシラサギが飛び交う。車が激しく行き交う道路端でしばし観察。対岸にはカメラマンが。

「新川橋」。

木洩れ陽の下、ゲートボール。

前方に中川と大落古利根川との合流点。

「弥生橋」から中川下流を望む。

上流を望む。

ここから左に曲がり、「大落古利根川」左岸を歩きます。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。中川は開削されていない。

                     2010年代のようす。北に向かう川が中川。

     古利根川の旧河道が西側に残っている。そのため、この地域は中川をはさんで、吉川市に所属する。

     古利根川に建設中の橋脚。「国道4号線バイパス」工事のようです。

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権現堂川調整池(行幸湖)~権現堂堤~中川。アジサイ。(「中川」を遡る。番外編)

2022-06-08 20:57:57 | 中川を遡る

       

6月7日。曇り、時々雨。

6年前の夏。「日光道中(日光街道)」歩きのとき、幸手から栗橋の途中、「権現堂堤」を歩きました。そのときに、権現堂堤は桜の名所ですが、アジサイも植えられていて、咲く時期にはさぞすばらしいだろうな、と思いました。

前日、東京地方も梅雨入り。その権現堂堤へ行ってみました。「あじさい祭り」も開催され、梅雨空の下、けっこう人も出ていました。満開まではもう少し日にちがかかりそうですが、しっとりと雨に濡れたアジサイがすてきでした。

さて、歩くならと、東武日光線「南栗橋駅」で下車。「権現堂(川)調整池(行幸湖―みゆきこ)」から歩き始め、「権現堂堤」へ。そして、中川を少し下流まで歩きました。

・・・

権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)に、はじめて権現堂堤が切れてより、幾度も決壊をしてきました。その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われ江戸を守る堤として大切に管理されておりました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の破堤により濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難していましたが、それも根こそぎ流され平野村須賀間に流れ着き無残にも75名という流死者が出てしまいました。このため、現在でも犠牲者の供養が行われております。

この後も、幾度にも水害に襲われ、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ております。

母娘の順礼の悲話」もこのときのものとされております。

文政9年(1826年)には、度重なる堤の決壊に困り、堤の補強にと上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えられましたが、根づかず何度か植えなおしが行われました。ですが、結局根づかなかったようです。

この頃になると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)頃には、堤通りへ竹や木が植え付けられ林同様に茂る場所や屋敷同様に堤を囲い、河岸場の便利に任せ小段を切りならし、作付けのための小段とその他を掘り返し苗木を植え付けるなどの実態が指摘されております。野菜などの栽培をするようになったのもこの頃だと思われます。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を視察するために駕籠を止めさせました。このとき、堤の名を行幸堤とすることが許され、記念碑を建てるために金100円が下賜されました。

この頃、権現堂堤周辺は見渡す限り平野で堤上からは、西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に「幸手町誌」を刊行した後上辰雄氏は、権現堂堤の風光として次のように記しています。

「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は遠い昔より、人々の憩いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、その都度修復を行い権現堂堤と共に人々は暮らしてきたのです。

※「母娘の巡礼の悲話」

権現堂堤の中央には、「順礼の碑」や「供養塔」が建っています。

享和2年(1802年)、長雨が続き堤が切れ、幾度修理しても大雨が降りだすと一夜のうちに切れてしまうというありさまでした。

ある時、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていましたが、大被害と続く工事の疲れに、口をきく元気さえも失っていました。その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかったのです。

母順礼が堤の切れ口をのぞきこんで、「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。人身御供(ひとみごくう)を立てなければなるまい。」と言いました。そこで、堤奉行は「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。すると重苦しい空気を破り誰ともなく「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。母順礼はこの声を聞くと、「私が人柱になろう。」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。これを見た娘順礼もあっというまにその後を追いました。

すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たといいます。

この順礼母娘を供養するため昭和11年に石碑が建てられ、この碑には明治時代の日本画家結城素明(ゆうきそめい)による母娘順礼像が刻まれています。

※昭和58年3月24日市指定史跡となっています。

(この項、「」HPより)

・・・

           この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

「権現堂川」として表記。左の通りが「陸羽街道(日光街道)」。権現堂川に沿って北上し、栗橋で利根川を渡る。

                     2010年代のようす。

権現堂堤は「中川」沿いのところ。現在の権現堂川(現在の中川の一部)は北の利根川、東の江戸川で仕切られている。

                     1880年代のようす。

大きく南にカーブする流れが「権現堂川」。途中から南下する流れが江戸川。中川は、まだない。

この付近は、明治になっても、利根川・江戸川・権現堂川が複雑に絡み合って、水害、その対処など、長年の治水の取り組みは辛酸をなめるような状況だった。そして、現在に至っている。

説明板の向こう、高台にあるのが、「巡礼の碑」。

さて、今回の歩き。

南栗橋駅から東に向かい、「行幸湖」へ。途中、「旧日光街道」を横切ります。

        湖沿いに桜並木が続きます。

モニュメント・噴水。

中川との水門から。

中川。

             「権現堂堤」は中川沿いにあります。

「外野橋」を渡って目的地に。

「権現堂桜堤」解説板。

ガクアジサイ。

          

様々な色と種類。

アジサイの保存会テントの中に、「火の鳥」など。アジサイの即売会が開催中。けっこう買う人もいます。係の方が育て方など懇切に教えてくれます。

          

駐車場もいっぱい。

さて、中川を下流に向かって歩き始めます。遠くに雨に煙る筑波山が。

               対岸は、茨城県五霞町。

中川の土手は工事中で、通行止め。到着地点まで川沿いをほとんど歩けず、雨の中、大きな公園や工業団地の脇をひたすら歩きました。

到着直前にやっと土手の上へ。

右「中川」左「権現堂川」。

「中川」は、権現堂川の右岸堤防を人工的に開削して南側へ流すようにしたもの。

権現堂橋のすぐ上流側に権現堂堰(跡)があります。

激しい流れ。権現堂橋。

「宇和田公園」(一部は、かつての権現堂川の右岸にあたる)の先、「ひばりヶ丘工業団地入口」バス停で、「東武動物公園駅」行きのバスに乗車します。「朝日バス」は「日光東往還」歩きで利用しましたが、今回も。

雨が降ったり、止んだり、時折強い雨脚のときも。約10㎞。

        「中川」。下流を望む。

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その5。共和橋。海から24.0㎞。八条橋。新中川水道橋。武蔵野線・吉川駅。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-07 20:32:21 | 中川を遡る

疾走するボート。

           対岸は、「中川やし おフラワー パーク」、「中川やしお水辺の楽校」。

人工のワンドも。

その隣は、「フラワーパーク・マリーナ」。

     

すぐ「共和橋」が。

                首都高6号線と県道が併走する橋。

橋の下から上流を望む。

「(海から)24.0㎞」という立て札。

振り返る。共和橋。

八潮排水機場。        

猛スピードで旋回するボート。

東京ガス管橋。

「潮郷橋」。

             「東京外環道」と「国道298号線」が通過する橋。

※橋の名は「八潮市」と「三郷市」結ぶところから。

橋の下から下流を望む。

樋門。水鳥の姿(↓)。

「八条橋」。

対岸は、八潮市。

           

橋の名前の由来は、かつてここに八条の渡しがあったことから。八条は八潮市の前身の八条村からである。1961年(昭和36年)架設の現行の橋は、橋長は139.3メートル、総幅員は6.6メートル、有効幅員6メートルの8径間の鋼鈑桁橋の永久橋である。歩道は下流側のみに設置されている。交通量がかなり多く、老朽化が進んだため、拡幅し架け替える計画がある。

八条の渡し

橋が開通する以前は「八条の渡し」と呼ばれる、埼玉郡八条村と葛飾郡上彦名村を結び、川幅六十間(約108.6メートル)を渡る渡船三艘を有する官設の渡船(官渡)であった]。渡船はいつから開設されていたか定かではないが、足利持氏1419年応永26年)の御教書に河関について記されていたことからその頃までには存在したとされる。なお、応永年間当時は利根川の本流であった。 渡船賃(通行料)は5文で、1日の通行量は多い日で約2000人であった

            この付近の今昔。

                                                                   

1880年代のようす。渡し場がある。               2010年代のようす。ほぼ同じ位置に橋。

「吉川市」に入ります。

この先は工事中のため、立入禁止。土手下の道路に下ります。

     

                     

「なまずの里、吉川市」。

ずいぶん前、この付近で(店名を忘れましたが)、なまずを食べたことがありました。天ぷら風にしたものでした。淡泊な味でしたが、ヒゲが妙に気になりました。やはりうなぎがよろしいようで。

赤く塗られた橋は、「新中川水道橋」。自転車や人が通れます。

                けっこう川からの高さがあります。

下流を望む。

上流を望む。

                  上流には「JR武蔵野線」の鉄橋。

         遙か遠くに「スカイツリー」(↓)。

ようやくJR武蔵野線「吉川駅」に着きました。今回は、ここまで。

     

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その4。コクボマリーナ。新中川橋。つくばエクスプレス。三郷放水路。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-05 20:19:20 | 中川を遡る

右手にマリーナが見えてきます。「コクボマリーナ」。

           

コクボマリーナは、中川沿いにある陸置きのマリーナ。個人でも団体でも利用でき、会員同士でのイベントなども開催している、アットホームで気軽な雰囲気が特長。広く取られたボートヤードは、遠隔操作カメラによる24時間管理体制を敷いており、防犯対策がしっかり取られている。東京湾へのクルージングポイントとして知られ、マリーナからは荒川や江戸川のいずれかを選んで東京湾へ向かう。(「」HPより)

この地域は、かつては右岸側が大きく西に広がって、ヨシが茂る水辺になっていました。

現在の流れに改修した際に、陸地として造成されました。

1880年代のようす。

 右岸が大きくカーブしている。川の名も「古利根川」となっている。

2010年代のようす。道路はかつての土手。

この先に「修徳高校 八潮修徳球場」。

ユニークな趣の「鳥内排水機場水門」。

八潮市のマンホール。

            魚をくわえているシラサギ(※市の鳥はハクセキレイ)のデザイン。

河川敷の農地。

「新中川橋」。

橋のたもとで小休止。

周辺の道路地図。

対岸は、三郷市戸ヶ崎付近。

         遠くに見えるのは、外環道

「新中川橋」を渡って、八潮市から左岸・三郷市に移ります。

        

          

対岸の「マリーナJOY」。

廃船が山積みされているような印象。昨年11月に、ここで廃材が燃える火災が発生しました。

土手には花々が。土手歩きらしくなります。

つくばエクスプレスの鉄橋。

                 ちょうど通過中。けっこう早いスピード。

「八潮駅」方向。

遠くに東京スカイツリー(↓)。

             地図上の方向と眺める方向が一致して一安心。

三郷放水路。
 
埼玉県三郷市中川から江戸川を結ぶ国土交通省管理の放水路。全長約1.5km。三郷市を東西に横断する形で整備されている。

中川・綾瀬川流域は特に低層のため、水はけが悪く、水が溜まりやすい地形である上、都市化の進展により大雨が降ると度々洪水になり、流域住民を悩ませていた。また中川下流部は、工場生活排水により、水質汚濁が深刻化していた。こうした状況を改善すべく、本放水路が1973年昭和48年)に建設された。(「Wikipedia」より)

中川口。

             四阿でゆっくり休憩。

つくばエクスプレス。

               

三郷市のマンホール。

                   三郷市の市の花「サツキ」が描かれている。

来た道を振り返る。

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その3。垳(がけ)川。東京オイルターミナル。塩止橋。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-04 20:36:01 | 中川を遡る

左手に「垳(がけ)川」沿いの遊歩道があります。

        

足立区と埼玉県との県境にあたります。
 足立区側は西に綾瀬川、花畑川(花畑運河・綾瀬川と中川を結ぶ)や垳(がけ)川、東には中川。葛飾区側は大場川と、このあたりは、川に囲まれた地域。水害防止、水質改善などのための水門(樋門)が目立ちます。「六ツ木水門」「稲荷下樋管」、「新大場川水門」等。
 昭和30年代後半まで、このあたりは水田地帯。さらには、水運も盛んでした。その後は、宅地開発。このあたりの川も生活排水、工場排水のために濁って悪臭までも。下水道の完備などで、再び川の流れを取り戻していく。そんな水と人々との関わり合いの歴史もあります。
 垳(がけ)川の東端、中川との接続点に昭和54(1979)年に完成したのが埼玉県の垳川排水機場。垳川は綾瀬川本流で、江戸初期に綾瀬川から切り離され、江戸中期の1729年には中川とも切り離されて、河川としての機能を失ってしまいました。中間部で北から合流する葛西用水路の溜池としての役割を果たしてきましたが、ひとたび大雨で増水すると浸水騒ぎ。
 そこで、増水時には水害防止のため、綾瀬川や中川に排水する施設が設置されました。現在、その役目を担っているのが、垳川排水機場。

中川と垳川をつなぐ稲荷下樋管。



垳川の流れ。この遊歩道も散策したことがあり、ブログでも紹介済みです。

※「垳川」

「垳」という文字はJIS第二水準漢字であるが、この地名ならびにこの地を流れる垳川の名を表記する以外には使われない国字であり、地域文字とされる文字である。

この字・読みの起源について八潮市は1981年に「第2次八潮の民俗調査」の調査報告書の中でがカケ(捌け)る様子を意味しており、水が流れるとき「土」が流されて「行」くという字を当てたものとしている。一方、早稲田大学教授で日本語学者の笹原宏之は、文字通り崖の意味であって河岸の斜面を意味しており、崖を意味する中世の漢字「圻」が字形揺れによりこの地では「垳」に変化して定着したものという見解を発表している2012年に区画整理により、本地名が変更されようとしていたことがあるが、「垳」が希少漢字であることから、獨協大学職員によって「『垳』を守る会」が立ち上げられ、地名の保存運動が行われた。のちに、「八潮の地名から学ぶ会」といった団体に発展し、本地名に限らず、日本全国の方言漢字を取り扱うようになった。(「Wikipedia」より)

余談ですが、「方言漢字」は全国に存在し、葛飾の「」の「勹」の中を「人」とか「ヒ」などと書くのも、方言漢字の一種のようです。

振り返ると、遠くにスカイツリー(↓)が霞んで見えます。

方角は合っていますが、中川の対岸に見えるので、違和感が。中川がいかに曲がりくねっているか、如実に分かります。

ゴーフルで名高い「上野風月堂」工場。

「風月堂」の「風」は、が正しい。

その先には、

               三愛オブリ(株)・東京オイルターミナル 。

中川には、

              

東京オイルターミナル。石油製品の荷役をするための桟橋と油槽が設けられています。開設は、平成10年11月。

途中で見かけた小型タンカーはここの関係だったようです。

「塩止橋」。

          

中川の河口から19.1 kmの地点に位置し、埼玉県内では中川に架かる最下流の橋である。明治年間の藤橋(後述)に代わり、大正年間に開削された中川の新流路に新たに架けられた橋である。かつての中川は八潮市と三郷市の市境に沿って流れ、大場川閘門橋付近より下流側も中川(古利根川)の一部だった。流路跡上に八潮市と三郷市の市境を成している。橋の名前の由来は潮止村から。その潮止とは東京湾からの海水が潮の干満によってこの付近まで遡上することに因む感潮河川)。なお、中川は昭和20年頃までは以南の呼称であり、それより以北を古利根川と称していた

戸ヶ崎の渡し

「戸ヶ崎の渡し」は埼玉郡大瀬村と葛飾郡戸ヶ崎村を結び、川幅80(約145.5メートル)余を渡る人舟馬舟各二艘を有する官設の渡船(官渡])であった。渡船はいつから開設されていたか定かではないが、南北朝期に当地に河が置かれていたことからその頃までには存在したとされる。渡船には中世より存在した河岸場が併設されていた。この渡船場は藤橋の架設により廃止された

藤橋

北埼玉郡大瀬村北葛飾郡戸ヶ崎村の境を流れる中川(古利根川)の旧流路上存在した里道である水戸脇往還(後の吉川新宿線)の「戸ヶ崎の渡し」の場所に藤橋が架けられていた

1880年明治13年)6月23日、戸ヶ崎村の加藤翠渓(すいけい)や小右衛門新田日比谷晁(てう)により木造橋の架橋の許可を出願1881年(明治14年)1月17に内務卿より架橋の許可が下り、私費を投じて9月3日に着工し、1882年(明治15年)12月25日に竣工され、架設者の人名である加藤家と佐藤家の「藤」の字に因んで藤橋と名付けられた。架橋に要した費用は2000円であった。橋の長さは33間3(約54.5メートル)、幅員は1間13尺(約2.7メートル)の木橋であった。この橋は架橋に掛かった費用を29ヵ年かけて償却するため、通行料を徴収する賃銭橋であった。通行料は徒歩1人・人力車1両・大七以上の荷車1両は各5厘、牛・馬は1疋8厘、馬車・牛車は1銭であった1920年(大正9年)4月1日に県道路線「吉川新宿線」と認定され、橋は埼玉県に移管された。 この橋は明治43年の大水害が契機となり、中川の河川改修が1920年(大正9年)より着手され蛇行部をショートカットする直線的な捷水路1925年(大正14年)に開削されたことにより廃止された

(この項、「Wikipedia」参照)

1880年代のようす。戸ヶ崎の渡し場が記されている。

2010年代のようす。完全に街中になっている。

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その2。古隅田川跡。佐野いこいの森。六ツ木水門。新大場川水門。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-03 20:33:30 | 中川を遡る

「中川橋」(上流から)。


「足立区長門排水機場跡」。

「古隅田川」の起点となっています。また、葛飾区と足立区との区界になっています。

現在の足立区と葛飾区の境界線は、亀有駅東南・常磐線鉄橋下流の中川橋(旧水戸街道)付近から綾瀬駅の西南・小菅東京拘置所脇まで、くねくねと曲がって続いている。これが「古隅田川」跡。
 その昔、大化元年(645)の頃、国、郡、里が制定され、住田河(隅田川、古隅田川)の現・足立区側が武蔵国足立郡、現・葛飾区側が下総国葛飾郡として両国の境界が設定されました。以後、今に至るまで、足立区と葛飾区との境界線として引き継がれています。

※「古隅田川」は埼玉県にもあります。なお、この「隅田川」跡の散策はかつてブログに掲載しました。

振り返る。

JR常磐線鉄橋。

対岸(金町方向)のようす。

かつては、「三菱製紙」の大きな工場がありましたが、移転し、その後再開発が進められ、東京理科大キャンパスや大きな公園などになりました。

この付近の移り変わり。

     

1970年代のようす。線路の北に広がる工場。

     

2010年代後半のようす。中央上が東京理科大を含む広大な再開発地域。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)                   

前方に「飯塚橋」。

   

「飯塚橋」から先は、護岸工事のため、立入禁止区間。

大谷田の住宅地に迂回して、「船宿・船十九」のところで、やっと土手へ。

ここからは快適な遊歩道に。

「(海から)17.5㎞」という標石が。

土手下に「佐野いこいの 森」。

                        長屋門風のトイレ。

※「佐野いこいの森」は、もともと旧佐野家という大きなお屋敷の屋敷林。足立区が買い取って、とくに手をいれず、自然のままの状態を公開している。

かつての訪問記事より。

佐野いこいの森は江戸時代から残る屋敷林。スダジイ、ケヤキ、マテバシイなど約30種(約500本)の樹木があり、様々な野鳥も訪れる生態系上貴重な森です。 区民の皆さんに森と親しんでいただき、その大切さを感じてもらうことで、魅力ある自然とみどりを守っていきたいと考えています。(「足立区」HPより)
 
古くからの大地主(新田開発)の佐野家屋敷林の一部を一般公開しています。周囲を堀に囲われ、林内には内堀が残っています。自然のまま残されていて、細い遊歩道をゆっくり歩きながら、奥深い林のようす、どこからともなく聞こえる鳥のさえずり、足下の木漏れ陽、・・・。じっくりと自然を堪能できます。森の中は、静寂そのもの。

足下は、下草で覆われています。木々も朽ちたまま。

周囲を囲む内堀の跡。

土手からのようす。

・・・

先に進みます。

六ツ木水門。「花畑運河」の中川側水門。

※「花畑運河」東京都足立区東部に位置し埼玉県との県境付近を流れる。東京近郊農村地帯と都心を連絡する舟運の利便化のために1931年昭和6年)に、「中川」と「綾瀬川」を結ぶ運河として開削された。

           「中川」流入口。

対岸には、「新大場川水門」。

※「大場川」東京都葛飾区の水元公園では、大場川の水を取水している。その後、閘門橋を越えた先で川幅が大きく広がる。流路は東京都葛飾区の境となり中川に合流する。この幅広い中川合流点付近の大場川の流路はもとは古利根川(中川)の一部であった。(「Wikioedia」による)

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

   大場川が中川(古利根川)の本流であったことが分かる。

                     2010年代のようす。

上部の蛇行部分をショートカットして現在の中川の流れになった。(「同」より)

                     1880年代のようす。

「小合溜井」(現在の「水元公園」)への流れの一部が、現在の「大場川」となっている。(「同」より)

                     2010年代のようす。

かつての流れが現在も市区の境になっている(足立区、葛飾区、八潮市、三郷市)。

 

            
 

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京成線「青砥駅」~JR武蔵野線「吉川駅」。その1。青砥橋・高砂橋。新中川。護岸工事。再開発。東洋インキ。(「中川」を遡る。第2回目。)

2022-06-02 19:32:26 | 中川を遡る

                     青砥橋。

今回は、ここからスタート。上流に向かい、「新中川水道橋」へ。けっこうな距離の歩きです。日ざしも強く、暑くなってきました。

青砥橋付近の護岸工事。

この先も、工事区間があって迂回せざるをえないところもあるようです。

2年前、こんな事故がありました。

東京葛飾区の環7・青砥橋でクレーン倒れ1人けが(19/10/09)https://www.youtube.com › watch

青砥橋の上に、川で作業中のクレーンが倒れてオートバイが下敷きになりました。
 
橋の上り下りが急なので、歩くのも自転車も大変。エレベータを敷設する要望が多いようです。

 

正面は「新中川」。

                        右手に「新中川通水記念公園」。

葛飾区・高砂橋下流で「中川」と分岐して南に下り、江戸川・瑞江付近で「旧江戸川」と合流します。

以前、自転車で往復したことがあります。往復およそ3時間(写真を撮ったり少し寄り道して)。ほぼ一直線。両岸とも遊歩道・サイクリングロードがほぼ完備しています。左岸(東側)を下りました。

概念図。開削工事前のようす。

                  田畑が目立つ。青色が新中川。(「今昔マップ」より)
 
 1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風によって東京東部大規模に浸水被害を受けたことで、本格的に中川改修が検討され、1949(昭和24)年、中川放水路(新中川)の開削が始まり、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963(昭和38)年3月に中川放水路は完成しました。その後、一級河川に指定され、河川名が「新中川」と改称されました。

新中川は橋が多く、それぞれ特徴ある橋をしています。次々と架かっている橋を眺めて渡るのも楽しみな川です。

《主な橋》

・上一色橋(蔵前橋通り・江戸川区)
・上一色中橋
・JR総武本線新中川橋梁
・辰巳新橋
・小岩大橋(千葉街道)
・松本橋
・鹿骨新橋
・鹿本橋
・大杉橋
・一之江橋(京葉道路)
・新椿橋
・首都高速7号小松川線
・南椿橋
・春江橋
・涼風橋
・明和橋
・瑞江大橋
・新今井橋(新大橋通り)
・瑞穂大橋

「辰巳新橋」。ニールセンローゼ形式の橋。

夜景。TVドラマなどの舞台にもなっているそうです。

「鹿骨新橋」。

「大杉橋」。

沿川流域や遠方からも主塔と斜長ケーブルが目立ち、優雅なハープ橋にも見えるとのこと。

・・・

これは中川に架かる「高砂橋」。右岸から望む。

江戸時代から明治時代にかけて現在の高砂橋付近には「曲金の渡し」と呼ばれる中川の渡船があり、江戸市中の人々が柴又帝釈天への参詣路として利用していた。この「曲金の渡し」は享保14年(1729年)に開設、宝暦8年(1758年)に場所替えをするなどしながらながく利用されていた

1928年 (昭和3年) の東京府の産業道路改良費の一部(橋梁費)によって当時の府県道28号(浅草松戸線)に架橋された。橋は1932年 (昭和7年) 7月開通。架け替え工事は1993年(平成5年)に着手、2003年(平成15年)3月に開通した

(この項、「Wikipedia」参照)

この橋も特徴的で遠くからもよく見えます。

「新中川通水記念公園」から望む高砂橋。

この付近の今昔。

1880年代のようす。渡し場があります。

      川を渡って右に延びる道が「柴又帝釈天」への道。2本の用水路は小合溜からの流れ。

2010年代のようす。

        上が京成線鉄橋、下が高砂橋。用水路跡は道路に。

京成線鉄橋。

左手に「慈恵医大葛飾医療センター」。地元では長年、「青戸病院」として親しみ深い病院です。

その北側には大きな工場がありました。

        

※1ここにあった工場は、「東京タングステン」、「東洋インキ」でした。両社とも社名は変わったものの、現役で活躍している企業です。

※2いい意味でも悪い意味でも、60年代・70年代、学生運動・労働運動・言論界で影響を与えた吉本隆明(「りゅうめい」と呼んでしまいます)は、若い頃、「東洋インキ青戸工場」に勤めていました。

東工大を出て、研究職をしつつ、労組運動を担っていました。分会機関誌を書いていた、とか。お花茶屋に住んでいたこともあります(以前、京成線「お花茶屋駅」前に「よしもと書店」という本屋さんがありましたが、関係があったのでしょうか? )。

吉本ばななの父親ですが、晩年の言動はどうも・・・、という印象ですが。

大きな高層マンションと公園。

        すっかり変わってしまいました。

「中川大橋」。

         「国道6号線(水戸街道)」の橋。渋滞が激しく、新宿・金町付近で拡幅工事が計画されています。

左手前方には「アリオ亀有」。

正面遠くに「中川橋」。

               対岸のJR「金町駅」周辺、再開発地域の高層マンションなどが見えます。

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都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その6。上平井橋。外谷汐入庭園。平和橋・本奥戸橋・奥戸橋。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-06-01 20:44:28 | 中川を遡る

             いよいよ現中川を遡ることに。

中川に架かる上平井橋。

        頭上は首都高環状線「かつしかハープ橋」。荒川の対岸に旧中川。

上平井水門。

中川が荒川放水路によって分断される前、この付近には渡船場がありました。

1880年代のようす。↓が渡船場。    

2010年代のようす。上が上平井橋。

  左に見えるのが綾瀬川。隅田川に流れていた綾瀬川も分断されています。

「外谷汐入庭園」(上平井橋の右手)。ここは、訪問したことがあります。

中川の流れを引き入れて潮の満ち干に合わせる趣向を凝らした庭園。昭和の初めにできた、中川の左岸・上平井橋付近にあるあまり目立たない庭園。しかし、木立に囲まれ、池も緑もよく整えられています。

庭石などは自然石を用いている。

           中川からの引き込み口跡。

  

・・・

葛飾区に入っても、旧中川と同じように曲がりくねっています。

                     1880年代のようす。曲がり方が並ではない。

                     2010年代のようす。右の川は、「新中川」。 

今でも蛇行している「中川」は、かつては流路が幅広く、氾濫原や入り込む流水もありました。環七「青砥橋」の手前のようす。

赤く囲ったところ。黄色い線は「環七」。(「今昔マップ」より加工)
そこを埋め立てて整地して葛飾区運動施設がつくられています。かつての中川に流れ込んでいた水路跡がその周辺道路として残っています。 

    

土手と地面との落差が大きい。住宅は眼下に。洪水に見舞われたらオオゴト。護岸工事が進められています。

かつては、台風などの度に浸水被害が出ていました。

次の橋が「平和橋」。

初代の橋は終戦間もない1947年 (昭和22年) 6月開通、橋長144.2 m、幅員6 mの仮設木製であった

架橋からわずか3カ月後の1947年 (昭和22年) 9月14日から15日にかけて関東地方カスリーン台風 の通過に伴う豪雨に見舞われた。その後、天候は回復しても中川の水位は上昇し続け9月19日には葛飾区長による避難命令が下される状況になり 最終的に橋の本田川端町側(現在の東立石、東四つ木)、約二分の一が落下した。 このとき平和橋同様に上流の奥戸橋、下流の上平井橋という木橋がともに落下しているが、これらの橋がしばらく手つかずの状態にある中、平和橋だけは10月中には復旧工事に取りかかっており、1947年 (昭和22年) 12月30日に復旧している
1957年、仮設橋から永久橋への架け替えが決定し、1960年 (昭和35年) 5月、竣工した。(「Wikipedia」参照)

平和橋付近は、流れに沿ってテラスが整備され、遊歩道になっています。

            

中川は、かつては綾瀬川と並んで、川の汚染度が高いことで全国に悪名を馳せていましたが、かなり改善されてきているようです。

魚なども戻ってきている、とか。もう少し上流に行くと、釣りを楽しむ人がけっこういます。

遠くにスカイツリー。出発点からずいぶん歩いてきました。

東立石緑地公園。

工場の跡地を整備して大きな公園にしたもの。緑も多く、芝生広場や長い滑り台などがあります。

そこで、小休止。

「本奥戸橋」。

江戸時代から明治時代にかけて現在の本奥戸橋西詰は江戸市中の人々が柴又帝釈天への参詣路として利用していたことで、人々の往来があり1755年宝暦5年)に道しるべが建てられている 。また付近には「奥戸の渡し」と呼ばれる中川の渡船場があった名称は、その上流に1914年(大正3年)4月に架橋された「奥戸橋」が既に存在したため、これに対して名付けられたという

1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風によって、上流の奥戸橋や下流の平和橋上平井橋といった木橋が中川の増水によって相次いで破損、流出する中、本奥戸橋は鋼橋ということもあり大きな被害を免れたとみられる。その後、本奥戸橋の周辺は花火大会寒中水泳大会など地域のイベントの場としてしばらくの間利用されていた。

1988年(昭和63年)、現在の橋に架け替えられた。 (「Wikipedia」参照)
 
 
橋のたもとにある地蔵尊と道標。
 
          道標には、「右江戸みち、左おくとみち、まかりかね道 渡し場道」と刻まれている。
 
※「まかりかね(曲金)」は、現在の高砂の旧地名。中川の曲がりくねったところを示している。
 
護岸工事用の監視船。 
 
昔ながらの家。  
 
「奥戸橋」。 
 

奥戸橋付近は下総国府に続く古代東海道の推定路にあたり、同時に江戸時代以降の"立石道"のルート上に位置していたため、古くより人々の往来があったと考えられる。一方、中川のうち奥戸橋の架かる付近は享保年間に新たに開削された部分である。そしてこの箇所には「奥戸新田の渡し」または「新渡」と呼ばれる渡船が明治時代に存在した

東京府南葛飾郡奥戸村は東京都心方面である西方の村境が中川になっていた。そしてこの中川を渡る手段は5箇所の渡船曲金の渡し、諏訪野の渡し、奥戸新田の渡し奥戸の渡し上平井の渡し)しかなく 不便だったため、1912年 (大正元年) 10月、奥戸村大字奥戸新田の石井源治ほか19人によって私設による橋梁架設の出願が行われ、翌1913年 (大正2年) 6月、竣工日より15年間は所定の賃料を徴収する賃取橋として認可された。架設は当時の奥戸村長 関根保太郎を理事長とする「奥戸村中川架橋協会」によって7月より開始され、翌1914年 (大正3年) 3月竣工、4月1日に開通した。橋は木造で長さ77間、幅2間半(長さ140 m、幅4.5 m)であり、経費15,500円のうち、2,800円は影響を受ける渡船への損害賠償に充てられたという。私設の賃取橋だった奥戸橋はその後、東京府によって買収、管理されることになった。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

「歴史的農業環境閲覧システム」によると、1880年代には「本奥戸橋」、「奥戸橋」付近では3ヶ所の渡し場が記されている。

                                     1880年代のようす。

前方に「環七・青砥橋」が見えてきたところで、今回は終了。

振り返る。

                         
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