…このように見てくると、ロースクールの将来には明るい材料がないかのようにも思えてくる。ところが、必ずしもそうではない(と思う)。私は、現在2年次に在学中のある勉強会に注目している。それは、30代後半(社会人出身)、30代前半(現行司法試験からの転向)、20代半ば(法学部卒)の3人から成る小さな勉強会である。みな精神的に「大人」であり、信頼関係が構築されているのがミソ。そして、3人で論文式試験の問題を検討するのである。
3人というと人数が少なすぎるようにも思えるが、これ以上になると集まるのにときとして支障が生じたり、議論が散漫になったり、ひどい場合には勉強が遊びに転じたりする可能性がある。少なくとも、実情を見る限り、10人前後で構成される勉強会だからといって、しっかり勉強をやっているわけではない(会社の会議でもそうであるが)。「3人寄れば文殊の知恵」、合議体の裁判所も3人の裁判官で構成されるではないか。
このような勉強会方式は、実は、ロースクールの外部評価委員でもあった古川貞二郎元官房副長官が提唱されたものである。古川氏は、大学4年生のころ国家公務員試験の受験に失敗し、いわば滑り止めで受験した長崎県庁に入庁した。ところが、そこで法令審査を担当する部署に配属されたのが、人生の大きな転機となった。そこにおいて古川氏が同僚との活発な討論を通じてえたものは、生涯にわたる糧になったという。その後古川氏は当時の厚生省に入省し、事務次官を経て、内閣官房副長官という、官僚としてトップの地位に就いたのである。ちなみに、古川氏は、内閣官房副長官時代にも、「他者の知恵」を借りるべく、閣議等に用いる資料を奥さんに読んでもらい、問題点を指摘してもらっていたという。
…私見だが、長年司法試験の勉強をやっている人の中には、他者との接触を絶っている(あるいは絶たれている)ためか、往々にしてコミュニケーション能力や文章表現力が衰えている人がいる。しかも、そのことを他人から指摘されても、素直に聞き入れようとしない人が多いように見受けられる。こうした状況のもとで、10年、あるいは20年という歳月を費やしてしまうのは、本人にとっても社会にとっても不幸なことというほかない。他人の指摘、特に批判的なそれは、宝の山である(「良薬口に苦し」)。所詮人間は一人では生きてゆけないということを、しっかりと再認識すべきであると思う。
このような観点からすれば、ロースクールは、他者との討論を通じて、コミュニケーション能力や文章表現力を高めるための、格好の場所を提供してくれるのではないか、と期待されるのである。
3人というと人数が少なすぎるようにも思えるが、これ以上になると集まるのにときとして支障が生じたり、議論が散漫になったり、ひどい場合には勉強が遊びに転じたりする可能性がある。少なくとも、実情を見る限り、10人前後で構成される勉強会だからといって、しっかり勉強をやっているわけではない(会社の会議でもそうであるが)。「3人寄れば文殊の知恵」、合議体の裁判所も3人の裁判官で構成されるではないか。
このような勉強会方式は、実は、ロースクールの外部評価委員でもあった古川貞二郎元官房副長官が提唱されたものである。古川氏は、大学4年生のころ国家公務員試験の受験に失敗し、いわば滑り止めで受験した長崎県庁に入庁した。ところが、そこで法令審査を担当する部署に配属されたのが、人生の大きな転機となった。そこにおいて古川氏が同僚との活発な討論を通じてえたものは、生涯にわたる糧になったという。その後古川氏は当時の厚生省に入省し、事務次官を経て、内閣官房副長官という、官僚としてトップの地位に就いたのである。ちなみに、古川氏は、内閣官房副長官時代にも、「他者の知恵」を借りるべく、閣議等に用いる資料を奥さんに読んでもらい、問題点を指摘してもらっていたという。
…私見だが、長年司法試験の勉強をやっている人の中には、他者との接触を絶っている(あるいは絶たれている)ためか、往々にしてコミュニケーション能力や文章表現力が衰えている人がいる。しかも、そのことを他人から指摘されても、素直に聞き入れようとしない人が多いように見受けられる。こうした状況のもとで、10年、あるいは20年という歳月を費やしてしまうのは、本人にとっても社会にとっても不幸なことというほかない。他人の指摘、特に批判的なそれは、宝の山である(「良薬口に苦し」)。所詮人間は一人では生きてゆけないということを、しっかりと再認識すべきであると思う。
このような観点からすれば、ロースクールは、他者との討論を通じて、コミュニケーション能力や文章表現力を高めるための、格好の場所を提供してくれるのではないか、と期待されるのである。