法窓夜話 六 ソクラテス、最後の教訓
「凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子眷族(けんぞく)を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距(はな)れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻(はいれい)するものではないか。」
ソクラテスの最期については、よく「悪法もまた法なり」という説明がなされることがあるが、これは誤解を招く表現である。
クリトーンによれば、ソクラテスは上のように語ったということだから、ソクラテスとしては、アテネ市の刑法の拘束力は、「黙契」すなわち「合意」にあると考えていることが明らかである。抽象的な「国家」が、一方的に「悪法」を定め、これを適用したという考え方ではないのである。
ちなみに、ソクラテスの発想を応用すれば、仮に我が国の法律が改悪され、ソクラテスのような事態が発生するおそれが生じたというのであれば、速やかに国外逃亡すればよいということになるだろう。
「凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子眷族(けんぞく)を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距(はな)れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻(はいれい)するものではないか。」
ソクラテスの最期については、よく「悪法もまた法なり」という説明がなされることがあるが、これは誤解を招く表現である。
クリトーンによれば、ソクラテスは上のように語ったということだから、ソクラテスとしては、アテネ市の刑法の拘束力は、「黙契」すなわち「合意」にあると考えていることが明らかである。抽象的な「国家」が、一方的に「悪法」を定め、これを適用したという考え方ではないのである。
ちなみに、ソクラテスの発想を応用すれば、仮に我が国の法律が改悪され、ソクラテスのような事態が発生するおそれが生じたというのであれば、速やかに国外逃亡すればよいということになるだろう。