Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

愛情ある辛口(2)

2021年11月01日 06時30分45秒 | Weblog
なぜ村上春樹はノーベル賞を取れないのか 「選ばれないこと」を誇るべきだ
 「春樹の作品に登場するのも、多くの場合、疎外意識を抱えた人物だ。とはいえ、春樹ワールドの住民の不自由は、イシグロの登場人物ほど切羽つまってはいない。春樹の描く人間は、自分をとりまく「なじめない状況」に距離をたもち、これと批判的にかかわる。イシグロの世界では、「意のままにできない現実」のただ中に、人びとはいや応なく巻きこまれる。
 イシグロの小説は、春樹の作品より深刻な印象をのこす。先ほどカフカを引きあいに出したが、過去の「大文学」に読後感が似ているのは春樹よりイシグロだ。


 村上作品のうち「ノルウェイの森」しか読んでない私に批評する資格はないが、この指摘は腑に落ちる。
 「イシグロはカフカの継承者であるが、村上氏はそうではない」という指摘には、辛口ではあるものの愛情がほの見える。
 カフカの小説、特に「審判」(「訴訟」とする翻訳もある)には、ある「社会」の中で「個人」が否応なく「不自由」な状況におかれてもがく姿が鋭く描かれている。
 村上作品には、「社会」から疎外された「個人」と、ある程度の「不自由」は登場するけれども、これらの関係は必ずしも明確ではない。
 また、「社会」と「個人」の相克はぼやけてしまっているし、「不自由」も切羽詰まってはいないということのようだ。
 これは吉本ばなな氏の初期の作品にも言えることであるが、私見では、やはり育ちの良さと社会経験の乏しさが影響している。
 だが、人間ないし社会の「悪」を捉えきれない作家の小説にも、それなりの味わい方はあるはずである。
高慢と偏見」などは、そういうたぐいの小説の典型ではないかと思う。
 
コメント
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