Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(4)

2022年10月10日 06時30分09秒 | Weblog
(引き続き「ガラスの動物園」のネタバレご注意)
 柴田先生が「自己の中の死」というときには、書かれてはいないけれども、ある思考を前提としている点が重要である。
 それは、西欧の伝統的な心身二元論であり、それに基づく「精神と身体の分離」という「死」の定義(ホメロスの「オデュッセイア」第11歌「ネキア」(【第11歌】冥界のオデュッセウスとテイレシアス)がその代表とされる)である。
(柴田先生は、あまりにも自明のこととして説明を省いたのかもしれないが、これが必ずしも自明でないことは、ニーチェやハイデガーを読んだことのある人なら分かるはずである。)
 心身二元論によれば、「死」は「精神(魂)」(animus)と 「身体」( corpus)の”完全な”分離と定義されるわけだが、”不完全な”分離もあるわけで、その例がエイハブとローラというわけである。
 かくして、柴田先生は、エイハブの状況を「自己の中の他者、自己の中にひそむ死」と表現したのだろう。
 エイハブとローラが抱える共通の問題は、脚(足)の物理的・機能的な喪失というものだが、エイハブの行動が「死」を招いてしまうのは、心身二元論に基づき、「自我」を「精神」と「身体」の統合されたものとして、更に言えば、「精神」が主人となって「身体」を支配している状態として捉えているからなのである。
 これに対し、ローラは、別の「死」の定義、すなわち「死」=「時間の停止」に基づき、「ガラスの動物園」という「仮の/一時的な死」の世界へと逃避しようとしたかのようだが、この試みは失敗に終わる。
 この定義だと、「時間が停止していない世界」=「他者」からの侵入が避けられず、ローラが自分の世界(「ガラスの動物園」)を守るためには、現実に自殺するしかないことになってしまうからである。
 かといって、エイハブのアプローチに望みがないことは、現在のプーチン大統領を見れば分かる。
 プーチンにとっての「脚(足)」(喪失した自己の一部=身体)は、ウクライナと考えられるからである。
 やや大袈裟な言い方かもしれないが、心身二元論は、身体を「棺桶」にしてしまう危険を孕んでおり、これから脱出しようとすると、大抵の場合、他者か、そうでなければ自分自身を傷つけてしまうのである。
 
海外招聘公演 ガラスの動物園 The Glass Menagerie
 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ「いっぽうにはジムの道があり、もういっぽうには、うまく定義できないけれど、別の存在の仕方、沈黙の可能性とでもいうものがあるかのようだと。後者は、たぶんローラの道です。・・・けれども、このローラの道は人々がそれをたどっていける道のひとつというわけにはいきませんーーー少なくともこの世では。」(公演パンフレットより)

 もし、エイハブかローラかの二者択一を迫られたとすれば、私は、躊躇なくローラを選ぶ。
 そして、イヴォ・ヴァン・ホーヴェに異を唱えて、「まだローラには希望がある。この世でも、彼女と同じ道をたどっていくことは出来る」と言ってみたい。
 少なくとも、その方が、エイハブ=プーチンになるよりはマシだろうから。
 
コメント
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