「饗宴」は、おそらく10のシーンで構成されている。
「おそらく」というのは、シーン番号を示すカンペが登場するのはシーン4~7(?)だけで、あとはカンペが出て来ないからである。
10というのは、プラトンの「饗宴」が(プロローグとエピローグ付きで)10の章から構成されることにちなんだものかもしれない。
以下、やや記憶に曖昧なところがあるが、各シーンの概要を記してみる。
① 1階に出演者7名全員(?)が登場。壁の中央付近にある「L」又は「V」の字の下半分を、唐沢絵美里さんが上塗りする。彼女は移動式のカメラを操作して、1階を動き回る(視覚上の「二重(二段階)構造」が示される)。
② 2階の中央にごく普通のテーブルが1台と赤い椅子が5、6脚。テーブルの左側にレコードプレーヤー(?)、右側にアップライトピアノ。男性2名✖女性2名がテーブルを囲んで座る。ピアノの右・テーブルから離れた場所に今村春陽さんが佇む(彼は「透明化・周縁化される人たち」の代表か?)。
男性2人は、席を立ってピアノを弾き、語り合い、席に戻るという動作を繰り返す。
ピアノはプラトン流の「男性によって定義された芸術」を示していると思われ、男性2人は「精神性」という自己完結的な領域に閉じこもっているかのようだ。
これに対して、女性2人は、足を組む・開く・閉じる・体を折り曲げる、などの機械的な動作を繰り返し、ステレオタイプ化された「身体としての女性」を表現しているようだ。
こういう状況なので、プラトンの「対話篇」のような”対話”は成立しない。
この時点では、2階は、「お上品で、建前ばかり立派な人たち」のためのスペースのように思える。
③ 突然1階に野坂弘さんが現れ、インディアンの虐殺、ナチスによるホロコースト、ガザ紛争における市民の被害などについて語り、それを聞いて「笑う」という小噺、というか一人芝居を繰り返す。
これによって、「笑い」は「無関心」を前提としていることが暴露されるが、野坂さんの語りは、初めは笑い声で、最後は暴力的な音(シンバル音?)でかき消され、聞こえなくなってしまう。
ここでは、「笑い」→「無関心」→(一種の)「暴力」という関係性と、これらが「愛」の対極にあることが明かされる。
つまり、野坂さんは、「愛」について語るのではなく、「愛」の反対にあるものをまず語るのである。
また、野坂さんの主張は、「『笑い』が可能となるのは、カメラの介在=映像化によって、生の現実から安全な距離を保っているからではないか?」と言う問題提起を含んでいることが推測出来る(映像の落とし穴)。
④ 2階に男性1名が登場し、初めてシーン番号を示すカンペが示される。
彼がレコードプレーヤーのスイッチを押すと、バッハの無伴奏チェロ組曲1番のプレリュードが流れる(「芸術を”支配”しようとする男性」)。
そこに女性1名が登場し、テーブルの上に仰向けになる。
男性は、女性の足を何度か動かした後、ネクタイ(男性性の象徴!)でくるぶし付近を縛ってしまう。
あれ?2階でも、一対一の状況になると、男は本性をあらわしてきた!
そう言えば、官舎で準強姦という事件もあった。
動けなくなったと思いきや、女性は足を縛られたままぴょんぴょん飛び跳ねて男性から逃げ、そこに唐沢さんが駆け付けて男性の前に立ちはだかる。
女性二人は男性に中指を立てて示し、ジェスチャーによって、抵抗の後の勝利を宣言する。
ここでは、「『身体としての女性』の解放」が描かれているようだ。
シーン3と同様、ここでも、「愛」に対立するもの、すなわち「人間の『客体(=モノ)化』という思考」が描かれている。
⑤ 2階に野坂さんと思しき男性1人、ここでもシーン番号がカンペで示される。
彼はピアノでバッハの無伴奏チェロ組曲1番のプレリュードを弾くが、第5小節目くらいで弾き損ない、何度か引いた後続けるのを断念してテーブルに戻る(「芸術の”支配”に失敗する男性」)。
すると、エレベータからクマが現れ、男性に向かってくる。
男性は、テーブルを乗り越えて逃げようとするが、転落してひっくり返ってしまう。
クマはテーブルの上から男性を見下ろすが、クマの背後(?)から、男性(池貝峻さん?)と女性が現れ、テーブル上から(野坂さんと思しき)男性に手を伸ばそうとする(が届かない)。
テーブル上の男女は、プラトンの「饗宴」第5章を手掛かりにすれば、アンドロギュノス(両性具有)を示していることになるだろう。