パレストリーナ:ミサ曲集 第9巻《主よ、われ御身に依り頼みたり》 -キリエ
モラレス:天の女王、喜びませ (レジーナ・チェリ)
パレストリーナ:ミサ曲集 第12巻《汝はペテロなり》 -グローリア
フェスタ:あなたは何にもまして美しい
カルパントラ:哀歌
パレストリーナ:ミサ曲集 第2巻《教皇マルチェルスのミサ》 -クレド
アレグリ:ミゼレーレ (神よ、われを憐れみたまえ)
パレストリーナ:ミサ曲《主よ、感謝を捧げます》より-サンクトゥス
ジョスカン・デ・プレ:万物の連なりを超えて
パレストリーナ:ミサ・ブレヴィス、 -アニュス・デイ
モラレス:天の女王、喜びませ (レジーナ・チェリ)
パレストリーナ:ミサ曲集 第12巻《汝はペテロなり》 -グローリア
フェスタ:あなたは何にもまして美しい
カルパントラ:哀歌
パレストリーナ:ミサ曲集 第2巻《教皇マルチェルスのミサ》 -クレド
アレグリ:ミゼレーレ (神よ、われを憐れみたまえ)
パレストリーナ:ミサ曲《主よ、感謝を捧げます》より-サンクトゥス
ジョスカン・デ・プレ:万物の連なりを超えて
パレストリーナ:ミサ・ブレヴィス、 -アニュス・デイ
(アンコール)
Henry Percell:Hear my prayer, O Lord
チケットは完売で、3階席までぎっしりと席が埋まっている。
私は初めて聴くので詳しくないのだが、結成50周年記念ワールドツアーということと、システィーナ礼拝堂で400年継承される秘曲「ミゼレーレ」が演奏されるということで、こういうことになったのかもしれない。
確かに、「ミゼレーレ」はアカペラ教会音楽の頂点と言える曲で、一度は聴くべき曲の一つだろう。
だが、私が最も強い印象を受けたのは、「ミゼレーレ」ではなく、パレストリーナの「クレド」である。
Palestrina:Missa Papae Maecelli (Credo)
Deum de Deo; Lumen de Lumine;
Deum verum de Deo vero;
genitum, non factum;
consubstantialem Patri;
per quem omnia facta sunt.
(神から出た神であり、光から発した光であり、
本当の神から出た本当の神であって、
作られることなく、生まれ出て、
父と一体であり、
その方によって万物が作られた(そのイエスを信じます))(訳:三ヶ尻正)
注目すべきは、「つくる」と「うむ」(うまれでる)という2つの動詞であり、ここに顕れた思考は、日本の伝統的な思考とはおよそ対極にある。
「世界の諸神話にある宇宙(天地万物人間をふくむ)の創生論を見ると、その発想の基底に流れている三つの基本動詞にぶつかる。「つくる」と「うむ」と「なる」である。・・・
「つくる」論理を純粋化すると、つくるものとつくられるものとは、主体と客体としてまったく非連続になり、それだけ「うむ」論理ーーそこではうむものとうまれるものとの間には血の連続性があるーーから離れる。その意味では、「つくる」にたいして、「うむ」と「なる」とが対峙する位置を占める。けれども他方から見ると、「A(たとえば世界)がなる」=(生る、あるいは成る)といえば、主語がAであることは自明だが、これに対して「生む」も「つくる」も他動詞だからして、「Aを生む」あるいは「Aをつくる」といえば、どうしてもAの外に、誰がという主語Xが問われなければ、完結的な命題をなさない。この点では、「うむ」と「つくる」とは同じ側にあって、「なる」に対立することになる。」(p359~361)
「クレド」は、ユダヤ=キリスト教系列の世界創造神話を前提としているわけだが、この歌詞から、「うむ」かつ「つくる」主体である神とイエスに、「つくられる」客体である(われわれ人間を含む)万物がみごとに対置されているのが分かる。
また、ここに「なる」という動詞が出て来ないのは当然である。
これを許すと、神とイエスの「主体」たる地位を脅かすことになるからである。
面白いのは、丸山先生が言うところの「血の連続性」、正確には「ゲノムの連続性」が、genitum (もとは gingere :生む) という動詞によって表現されているところ。
これによって、神→イエスの連続性(ないし同一性?)は、ゲノムの同一性を根拠としていることが明らかとなる。
ちなみに、このゲノムの同一性を「フォルム」(イデア)によって判定するのが、(ユダヤ=キリスト教を含む)西欧文明を通底する思考であるというのは私の仮説である(「父」の承継?(4))。
ここで、聖母マリアの存在が無視され、神がイエスを生んだという表現になっているのは、マリアのゲノムが混入することを認めるのはさすがにまずいためだろう。
以上に対して、西欧のゲノムに相当するものが、日本の「イエ」(苗字、屋号)であることは言うまでもない。
この点、丸山先生は、
「家系(いえ)の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。」(p422)
と指摘するが、果たしてこれは正しいといえるのだろうか?
中央政界について言うと、歴代の首相の経歴を見ただけでも、「家系(いえ)の無窮な連続」は続いているのではないだろうか?
まあ、今秋にも予想される総裁選の顔ぶれを見れば分かるのだろう。
・・・待てよ、その前に都知事選があるではないか!
ポスターや政見放送をみる限り、都民はむしろ「イエなき子」になってしまっているのではないか?