くどいように言うが、小説というものは、マクロかつミクロに「精読」すべきものである。「マクロ」にというのは全体の構造を把握するためであり、「ミクロ」にというのは昨日指摘したとおりディテールに「神(生命)が宿る」からである。
さて、「午後の曳航」において、二等航海士:竜二は、彼の憧れの対象=生きる原動力のことを「海」と呼んでみたり、「大義」と呼んでみたり、はたまた「熱帯の太陽」と呼んでみたりするものの、結局その実態はとらえがたく、低次元な日常生活に安住してしまい、少年たちに「処刑」されてしまう。
バーディーは、ここで「白鯨」の一節を思い出すのである。
「あのナルシスの物語・・・には、・・・もっと深い意味がある。しかもそれと同じ姿を、わたしたちはあらゆる河や海のなかに見る。それは捉えようとして捉えられぬ生の幻妖(あやかし)の姿だ。そしてこれが生のすべてを解く鍵なのだ」(新潮文庫、田中西二郎訳「白鯨」(上)p40)
洞察に富む見事な指摘である。こういう一節を読み落とさないためにも、精読は重要なのだ。
・・・「熱帯の太陽」、「海」といったものは、結局のところ生の象徴(それ自体は認識の対象になりえない)に過ぎないというのが、やや短絡的ではあるが、目下の結論である。
さて、「午後の曳航」において、二等航海士:竜二は、彼の憧れの対象=生きる原動力のことを「海」と呼んでみたり、「大義」と呼んでみたり、はたまた「熱帯の太陽」と呼んでみたりするものの、結局その実態はとらえがたく、低次元な日常生活に安住してしまい、少年たちに「処刑」されてしまう。
バーディーは、ここで「白鯨」の一節を思い出すのである。
「あのナルシスの物語・・・には、・・・もっと深い意味がある。しかもそれと同じ姿を、わたしたちはあらゆる河や海のなかに見る。それは捉えようとして捉えられぬ生の幻妖(あやかし)の姿だ。そしてこれが生のすべてを解く鍵なのだ」(新潮文庫、田中西二郎訳「白鯨」(上)p40)
洞察に富む見事な指摘である。こういう一節を読み落とさないためにも、精読は重要なのだ。
・・・「熱帯の太陽」、「海」といったものは、結局のところ生の象徴(それ自体は認識の対象になりえない)に過ぎないというのが、やや短絡的ではあるが、目下の結論である。