Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

熱帯の太陽

2007年09月23日 21時32分11秒 | Weblog
 くどいように言うが、小説というものは、マクロかつミクロに「精読」すべきものである。「マクロ」にというのは全体の構造を把握するためであり、「ミクロ」にというのは昨日指摘したとおりディテールに「神(生命)が宿る」からである。
 さて、「午後の曳航」において、二等航海士:竜二は、彼の憧れの対象=生きる原動力のことを「海」と呼んでみたり、「大義」と呼んでみたり、はたまた「熱帯の太陽」と呼んでみたりするものの、結局その実態はとらえがたく、低次元な日常生活に安住してしまい、少年たちに「処刑」されてしまう。
 バーディーは、ここで「白鯨」の一節を思い出すのである。

「あのナルシスの物語・・・には、・・・もっと深い意味がある。しかもそれと同じ姿を、わたしたちはあらゆる河や海のなかに見る。それは捉えようとして捉えられぬ生の幻妖(あやかし)の姿だ。そしてこれが生のすべてを解く鍵なのだ」(新潮文庫、田中西二郎訳「白鯨」(上)p40)

 洞察に富む見事な指摘である。こういう一節を読み落とさないためにも、精読は重要なのだ。
 ・・・「熱帯の太陽」、「海」といったものは、結局のところ生の象徴(それ自体は認識の対象になりえない)に過ぎないというのが、やや短絡的ではあるが、目下の結論である。
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貧乏自慢

2007年09月23日 10時23分47秒 | Weblog
 最近ときどき、「バーディーさんはエリートコースを歩んできたんですね」などと言われるたびに、「ヒトの気も知らないで」とやや落ち込んでしまう。
 自費で留学した時点で全財産を失ったにほぼ等しいわけであり、再就職に失敗して蒔き直しを計っていた際には、現在のネカフェ難民に近い生活を送っていたのである。
 当時の収入は月額7~8万円のアルバイト代、支出は家賃等が3万円、残りをなけなしの貯蓄の取り崩しで賄っていた。水道光熱費節減のため、真夏であってもクーラーは基本的にお客さんが来た時だけつけ、風呂は浴槽に半分しか入れない。一日のうち1食はヨーグルト、稀に外食する時にも1000円以上のものは頼まない。
 結局、会社を辞めて自費で留学することはギャンブルなのである。だが、山登りの経験から、私は必ず「エスケープルート」を確保するようにしており、その1つが、当時発足が予定されていた法科大学院だった。私たちの代はロースクール1期生なのである。
 さて、ロースクールに入ると、月額8万8000円(プラス入学時一時金30万円)の奨学金が出た。そのころには(貯蓄が尽きたことから)親から仕送りが出るようになり、家庭教師のアルバイトをしたりしていたうえ、アパートは3万円台のところに住んでいたから、これで何とか生活できたのである。もっとも、それでもネカフェ難民と同様の生活ではあったが・・・。
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神は細部に宿る

2007年09月22日 23時28分03秒 | Weblog
 昔読んだ小説を再読する場合には、「精読」つまり一言一句咀嚼するように読むに限る。
 そういえば、このあいだ日々に新たなる読書で指摘した内容について、訂正すべき点がある。それは、映画版でもちゃんと、原作に忠実な部屋の造りになっていたということである(DVDを見直してみて分かった)。
 「午後の曳航」の主人公の少年:登の部屋と母とその愛人の部屋との位置関係は、精読しないことには明らかにならない。冒頭部分ではあまりはっきりしないのだが、決定的に分かるのは、何と145ページ目である。

  竜二はふと、隣室との堺壁(さかいかべ)の腰板のところに目をとめた。古風な造りで、その上辺に波形の木彫の枠が走っている。その一個所から、闇のなかへ、ぼんやりと小さな光りがにじんでいる。(注:この穴から登は母と竜二の情交を覗いていたのである)。

 「堺壁」とか「腰板」という語の意味を知らないとこれも難しいかも。いずれにせよ、映画化したアメリカ人は、原作をよく読んでいたということだろう。
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会費減縮問題

2007年09月22日 08時37分58秒 | Weblog
会費を下げるのなら、全員にしろ。 (PINEさんのブログより)
 会費の減縮というのは、おそらく、新人弁護士が大量に発生するため、就職にあふれて会費もロクに払えない連中が増えるのを、予測してのことだろう。新60期に合わせたな。
 私は、弁護士登録したときから、経営弁護士として事務所の経費を負担してきたが、事務所経費の他に月約7万円の弁護士会費の支払いは本当に大変だった。
私だけでなく、みんな、歯を食いしばって、弁護士会費を払ってきたのだ。


 バーディーの納める会費は、PINEさんの約半分。東京は弁護士が多い分、会費も安くなるということなのだろうか。それでも、負担は決して軽くない。
 同級生の中にも、果敢に田舎で就職した人たちが結構いるが、田舎に行くほど会費が高いというのは今ひとつ納得がいかないだろう。
 月7万円=年84万円。いまどき年俸350万円の弁護士だっているのに、これでは生活していくのがやっとだろう。
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通勤の問題

2007年09月22日 00時11分14秒 | Weblog
 仕事柄、住居をどこにするかは重要な問題である。というのも、弁護士というのは実に移動の多い商売だからである。
 もともと金融機関で営業をしていたバーディーは、「移動時間を最短にする」ないし「移動時間に仕事をする」ことが常に念頭にある。手っ取り早いのは「職住一致」である。
 さすがに事務所や裁判所の付近に住むわけにはいかないから、事務所や裁判所・検察庁、拘置所等に電車で一本でいけるところに住むのがよい。しかも、座っていけるように、始発が出ているところが最高だ。
 ・・・と考えてくると、偶然にも、今住んでいるところは上記条件をほぼ満たしている。なんとラッキー!
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制約の下で

2007年09月20日 22時07分03秒 | Weblog
 弁護士に限らず「士業」の人間は、毎日が勉強である。バーディーは差当たり消費者事件に出くわすことが多そうなので、専門書を購入して勉強している。
 はじめに買ったのが、消費者法講義 第2版で、これは即戦力となるすぐれものである。だが私には、もう1冊買いたかった本がある。それは、大村敦志教授の消費者法である。この本は、消費者法の沿革や政策論などについての記述が大半で即戦力となりがたいため、予算と時間の制約上、購入を差し控えたのである。
 私は大学時代、民法総則、物権法と家族法を大村教授に習い、彼のアカデミック路線が気に入っていた。だが、実務家になると、目先の事件を迅速かつ低コストで解決するよう強いられるため、中々アカデミック路線を貫くことが出来ない。
 だが、消費者法は、近代法における「合理的人間」の修正を図る法なのだから、本来は基礎理論をきっちり学んでおく方が良いのである。
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世代の壁

2007年09月20日 00時21分17秒 | Weblog
 べテランの弁護士の方から聞くに、最近の若手弁護士は、依頼者、端的には破産申立人の立場に立った活動できていないという。それは、私見によればもっともなことである。なぜならば、その若手弁護士自体、生活の基盤がしっかりしていないために、まず「自分の生活ありき」というスタンスで仕事をしているからである。

これは、世代間格差の問題であるため、年配の方には理解が難しい。要するに、職を得ることが容易でなかった世代にとって、顧客の生活がどうなろうとそれは「市場原理」の赴くところなのであって、自分の知ったことではない、という発想が根底にあると思われるのである。
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生きるための「観念」

2007年09月19日 07時23分05秒 | Weblog
 贈る言葉 改版 (新潮文庫 し 10-1) (文庫) が新潮文庫の「人生で二度読む本」に選ばれたのは当然である。いわゆる70年安保の時代を生きた世代:団塊の世代の純粋さをよくあらわしている。
 主人公は、
「人は、観念なしに、意味ある生を持つことはできない」
と信じる田舎出の青年である。そして、その恋人は、「平凡な家庭の主婦」になることを忌み嫌い、外交官を目指し寸暇を惜しんで勉強する冴えない女学生である。その考えはある意味で一貫しており、彼女は主人公と肉体関係を持つことを頑強に拒み続ける。
 主人公は、「観念と性欲」を対立するものかのようにとらえる。それは、「観念なき意味なき生」と「観念によって意味を与えられた生」の対立と通ずるものがある。だが、私見ではここで既に誤りがある。どちらも人間の脳内の生成物に過ぎないからである。
 皮肉にも、最終的に主人公は「死んだ心で暮らしていく」はめになり、その元恋人も、外交官になる夢をアッサリ捨てて、商社マンの妻として平凡に暮らしていくこととなる。
 ・・・それにしても、「当時の人たちは純粋だなー、それに比べて・・・」と考えさせてしまう小説である。
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体力勝負のペーパー・テスト

2007年09月18日 22時11分24秒 | Weblog
 今日は午後から弁護士会の義務研修。懐かしい顔ぶれと再会する。
 話題は自然と二回試験の不合格者のことに。どうも、女性の不合格者が多い感じがする。
 そういえば、科目別では、民事弁護、民事裁判、刑事裁判、刑事弁護、検察の順に不合格者が多かったが、試験日程はこの逆である。とすると、疲労度と比例して不合格者が増えているのかもしれない。実際、民事弁護などは、後期の起案よりも格段に易しい問題だったと多くの人が指摘しているのである。
 あくまで私見であるが、今回の二回試験は真夏(8月13日から17日の5日間、9時45分着席~17時50分終了)に行われたこともあって、体力を計るペーパー・テストになってしまったのではないだろうか。
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帝政ロシアのベル・エポック

2007年09月17日 11時59分46秒 | Weblog
 東京都庭園美術館に行くと、今日が「ディアギレフのロシアバレエと舞台芸術」の最終日である。学生時代もサラリーマン時代も、バーディーはこういう催し物はまず駆けつけたものだ(その後の冬の時代-無収入時代には殆どこういう「衝動」を抑制していたのだが・・・)。そこですかさず入館する。
 ディアギレフとかニジンスキー(写真:バーバリー・コーストより)・・・「こんな時代があったのか」と思わせるくらい目を見張る衣装や舞台芸術であるが、こういう芸術を生み出すのは、昔から政治的には文明の末期と決まっている。いわゆるフランスのベル・エポックも、実は政治的な衰退の始まりの予兆だったのである。
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