『日本文学史序説』補講 加藤 周一 著
大江健三郎「加藤さんは、東京での1945年の希望に、真剣に向き合い続けた人です。チェコで新しい運動が起これば、強い共感を寄せながら、日本のことも考える、こういう人を誇らしい日本人、世界的な人、本当の知識人だと思います。私はその人を記憶し続けたい。新しい加藤周一が次つぎ現れる、まず若い加藤周一読者が10万人生じてそれを準備するのが、私の希望です。」(p342)
「新しい加藤周一氏」が沢山生まれれば、確かに日本はより良くなるかもしれない。
こういう風に、大江先生は加藤氏を手放しで礼賛するけれども、懸念が全くないわけではない。
個人的には、加藤氏の、「作品ではなく、作者を”全否定”する」かのごとき言説(愛情なき辛口など)は、やや危険だと思う。
もちろん、加藤氏の真意は、その時代時代の「多数派」を形成している(病んだ)思考に対する批判にあったのかもしれない。
だが、例えば、次の加藤氏の言説を見ると、どうやらそれは怪しい。
「19世紀半ばの福澤にとってナポレオンの戦争はわりに近い話でした。ナポレオンは最後のロシア攻撃で敗けましたが、それまでは連戦連勝です。コルシカから出て来た身分の低いナポレオンが戦えばかならず勝った。どうしてなのか。司馬[遼太郎]さんが書けば軍事的天才になるでしょう(笑)。」(p237)
またしても司馬遼太郎批判だが、ここでイメージされている司馬作品は、おそらく「竜馬がゆく」などだろう(台所からキッチンへ(11))。
つまり、加藤氏がやり玉に挙げているのは、登場人物の超越的・神秘的な”天才”によってすべてを説明してしまうような思考、要するに権威主義・神秘主義に連なる思考なのだろう。
だが、司馬作品の中には、そうではない、例えば、何度か挙げた「殉死」のような小説もあるし、何より、「だって、史実ではなく、小説(フィクション)なんだから」。
なので、私としては、「新しい加藤周一」は、もうちょっとマイルドな人物であって欲しいと思う。
大江健三郎「加藤さんは、東京での1945年の希望に、真剣に向き合い続けた人です。チェコで新しい運動が起これば、強い共感を寄せながら、日本のことも考える、こういう人を誇らしい日本人、世界的な人、本当の知識人だと思います。私はその人を記憶し続けたい。新しい加藤周一が次つぎ現れる、まず若い加藤周一読者が10万人生じてそれを準備するのが、私の希望です。」(p342)
「新しい加藤周一氏」が沢山生まれれば、確かに日本はより良くなるかもしれない。
こういう風に、大江先生は加藤氏を手放しで礼賛するけれども、懸念が全くないわけではない。
個人的には、加藤氏の、「作品ではなく、作者を”全否定”する」かのごとき言説(愛情なき辛口など)は、やや危険だと思う。
もちろん、加藤氏の真意は、その時代時代の「多数派」を形成している(病んだ)思考に対する批判にあったのかもしれない。
だが、例えば、次の加藤氏の言説を見ると、どうやらそれは怪しい。
「19世紀半ばの福澤にとってナポレオンの戦争はわりに近い話でした。ナポレオンは最後のロシア攻撃で敗けましたが、それまでは連戦連勝です。コルシカから出て来た身分の低いナポレオンが戦えばかならず勝った。どうしてなのか。司馬[遼太郎]さんが書けば軍事的天才になるでしょう(笑)。」(p237)
またしても司馬遼太郎批判だが、ここでイメージされている司馬作品は、おそらく「竜馬がゆく」などだろう(台所からキッチンへ(11))。
つまり、加藤氏がやり玉に挙げているのは、登場人物の超越的・神秘的な”天才”によってすべてを説明してしまうような思考、要するに権威主義・神秘主義に連なる思考なのだろう。
だが、司馬作品の中には、そうではない、例えば、何度か挙げた「殉死」のような小説もあるし、何より、「だって、史実ではなく、小説(フィクション)なんだから」。
なので、私としては、「新しい加藤周一」は、もうちょっとマイルドな人物であって欲しいと思う。