Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

2月のポトラッチ・カウント(1)

2024年02月09日 06時30分00秒 | Weblog

 今月の歌舞伎座では、十八世中村勘三郎(「勘九郎」の時代が長かったので、多くの人にとっては「勘九郎」の方が通りがよいだろう。)の追善を謳った公演が開催されている。
 「猿若」というのは、初世勘三郎が1624年江戸中橋(現在の日本橋・京橋付近)に創設した「猿若座」(後の中村座)にちなんだものらしい。
 結構遅くチケットを取ったのだが、第一部(昼の部)は8列目の中央付近という絶好の位置をゲット。
 最初の演目が始まると、隣の席の二十台前半と思しき若い男性が、筋書きを片手に、オペラグラスで熱心に舞台の演技を観察しているのに気付く。
 歌舞伎座のお客さんは、当然ながら高齢者が圧倒的に多く、若い人たちは愛好家や旅行客などのため団体で来ることが多いので、「若い人が単独で観劇」というのは目立つ。
 「さては役者さんか?」と推測していたら、案の定、帰り際に松竹関係者(?)と挨拶を交わしていた。
 調べると、どうやら中村T太郎さんのようだ。
 役者さんも、「とちり席」でオペラグラス片手に演技の勉強をするのである。
 さて、今月も予想どおり、初っ端からポトラッチのオンパレードである。
 あまりに炸裂しまくるので、ポトラッチの数をカウントしてみようと思い立った。

 「野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいた。久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていた。
 一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い、恋に落ちる。それをねたまれ、久松が油問屋から帰されてきたので、久作は早速久松とお光の祝言を挙げようとする。

 ここまでは、よくある「三角関係」の話だが、この設定で注目すべきは、久松もお光も、当主である久作とは血のつながりがないということである。
 この状況で、久作は、「イエ」の承継を、(血のつながらない)二人の子の結婚によって果たそうと考えているわけである。
 それが正当化されるのは、「(DNAの断絶ではなく)「イエ」(屋号、苗字)の断絶を絶対に回避せよ」という「世間の掟」が存在するからである。
 これに対し、三角関係の方はどう展開していくのだろうか?
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サプライズ

2024年02月08日 06時30分00秒 | Weblog
《フランチェスコ・パオロ・トスティ》
いとしい女よ、私は死にたい
君なんかもう愛していない
《エルネスト・デ・クルティス》
夜の声
とても君を愛してる
忘れな草
帰れソレントへ
《G.ヴェルディ》
オペラ「椿姫」より『プロヴァンスの海と陸』
オペラ「イル・トロヴァトーレ」より『君の微笑み』
オペラ「リゴレット」より『悪魔め、鬼め』
 

 1曲目からいきなりハプニングが勃発。
 ヌッチは、プログラムは書かれていない「セヴィリアの理髪師」より「私は町の何でも屋」を歌い出したのである。
 これは、実はピアニストがけしかけたサプライズであったことが後に明かされたが、ヌッチも余り準備していなかったせいか、口が十分回っていなかったようだ。
 とはいえ、歌い終わるとブラボーが飛び交い、聴衆の興奮は1曲目からピークに達したかのようである。
 彼の歌唱は「甘いところの全くない、直球勝負」のバリトンで、力で圧倒するタイプという印象を受ける。
 例えて言うならば、「脂身がゼロの高級ビーフ」といったところか?
 曲目の多くは、女性や敵に対する男性の怒りや恨みを謳ったもので、大半の時間、彼は怒ったような顔をして歌い、歌い終わった瞬間に笑顔になるのがシュールである。
 3曲のアンコール(最後は「オー・ソレ・ミオ」)の後でアフター・トークが開催されたが、ヌッチは現在、今年の12月に上演予定の「マダマ・バタフライ(蝶々夫人)」の演出を手掛けているそうだ。
 ストーリー上の重要なくだりとして、彼は、いずれもシャープレスのセリフ:
① 「彼女(蝶々夫人)はあなた(ピンカートン)を真剣に愛しています」
②(二幕で)手紙を読み上げて「あなた(蝶々夫人)の言葉は確かに伝えます」
の2つを挙げた。
 意外や意外、ヌッチは、蝶々夫人でもピンカートンでもなく、シャープレスがストーリーを支配していると見ているようで、これも私にとってはちょっとしたサプライズであった。
 82歳というのにパワフルで、プログラムに書かれてある「有終の美」という言葉は後に撤回されるのではないかという気がする。
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普遍的なテーマ

2024年02月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「「俳優の目的は人間をつくること」・・・・・・。
 17期生の修了公演に、思い切ってテネシー・ウィリアムズの小品戯曲を選びました。
 それはひとえに、俳優にとって基本中の基本であり、同時に究極の”使命”である「人間を生み出す」ということに、真正面から取り組んでほしいと思ったからです。
 テネシー戯曲に描かれた、時代も国も生活習慣も違う人間たちに、その幾重にも重なった心のひだを持つ魅力的な人間たちに、自分の心と身体のすべてで向き合ってほしいと思ったのです。」(演出・演劇研修所長 宮田慶子氏)

 題材の選び方には納得がいくけれども、「時代も国も生活習慣も違う」というところを強調するのであれば、方向性が間違っているということになるだろう。
 というのも、テネシー・ウィリアムズほど普遍的なテーマ、要するに「人間の本質的孤独」を執拗に取り上げた戯曲作家は珍しいからである。
 したがって、アメリカの特殊な宗教的風土(ピューリタニズムなど)や生活習慣など知らなくても彼の作品は十分理解出来るし、現代の日本人の感性を活かして演じることは可能なはずなのだ。
 もっとも、実質的な処女作であり半ば自叙伝でもある「ガラスの動物園」くらいは読んでおく必要があるし(不死鳥とアダルトチルドレンと棺桶からの脱出(1))、多くの場合において、主人公はローラのように「生き辛さ」(つまり発達障害的な傾向)を抱えた人物であることを押さえておくと分かりやすい。

①『坊やのお馬』
ムーニー「おれはひとと物の見方がちがうんだ---(理屈をつけようと努力しながら)---それだけさ。ほかのやつらは---おまえも知ってるだろう―全然かまっちゃいねえんだ。食って飲んで女と寝る。なんにも知っちゃいねえ。朝になりゃ太陽はのぼる、土曜の晩にゃ給料がはいる---やつらはそれで御機嫌だ!よろしい!ところがそのうちおっぽり出されてみろ。どうなるね?子どもは育ちざかり、やがてはおやじと入れかわりに工場づとめ。こいつもやっぱり、食って飲んで女と寝て---土曜の晩にゃ給料もらって!ところがおれはな---(にがにがしげな笑い)いいか、ジェーン、おれはそれじゃ満足できねえんだ!」(p12)

②『踏みにじられたペチュニア事件』
若い男「死んだ人たちは最上の助言を与えてくれるからです。
ドロシィ「助言て、なんの?
若い男「生きている人のいろんな問題についてです。
ドロシィ「どんなことをいってくれるかしら?
若い男「ただひとこと---生きよ!
ドロシィ「生きよ?
若い男「そう、生きよ、生きよ、生きよ!彼らが知っているのは、これだけです・・・・・・これだけが彼らに残された言葉なのです!」(p67)

③『ロング・グッドバイ』
ジョー「・・・おれたちは、いつもいつも、さよならをいってるんだ---生きている時間の一瞬一刻にむかってね!それが人生と言うものさ---ながい、ながい、さようなら!(ほとんど泣かんばかりに、激しく)今日もさよなら、明日もさよなら---最後のさよならをいうまでは!なあ、シルヴァ、その最後のやつっていうのは、世のなかに対する、自分自身に対する、さよならなんだよ!(彼はたまらなくなって顔を窓のほうにそむける)出ていってくれ、おれを一人にしてくれ!」(p324)

 ・・・こんな風に、現代の日本人にも通用するテーマが繰り返し登場する。 
 なので、わざわざ”アメリカ人風に”大げさな言葉遣いやジェスチャーを使う必要などないはずなのだ。
 実際、その見本を、一昨年、フランス人であるイザベル・ユペールたちが「ガラスの動物園」で実演して見せてくれたじゃないか!
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追い込み型ピアニスト(2)

2024年02月06日 06時30分00秒 | Weblog
【演奏予定曲】
<プログラム A>2/5
ナタリー・ジョアヒム:ヴァイブラン(オルフェウス委嘱作品・2024年1月世界初演)
ショパン:ピアノ協奏曲第1番 (オルフェウス版/リー編)[ピアノ:辻井伸行]
シューマン:謝肉祭(オルフェウス版/ワズワース編) 
 

 チケットは「完売」とされていたものの、大雪のせいで客席はやや寂しく、6~7割くらいしか埋まっていない。
 私は、「オルフェウス室内管弦楽団」の公演は初めてだが、「音楽における民主主義」を標榜しているだけあって、当然コンサート・マスターはおらず、それどころか最初の音合わせもしない(まあ、楽屋で済ませて来たのかもしれないが)。
 最初の「ヴァイブラン」を全く先入観なしに聴いていたら、「森の一日~夜明けから夕暮れまで」というイメージが浮かんだ。
 木々のざわめきや鳥のさえずりを模した音楽だと感じたのだ。
 ところが、この解釈は見当違いだったようで、解説には、「先祖たちと共有するささやかな幸せと結びつくひととき」とある。
 やはり、音楽を図像・映像に置き換えて解釈しようとするのは正道ではなく、音楽はそのまま音楽として受け止めるべきなのだろう。
 さて、実質的なメインとも言うべき辻井さんのショパンのコンチェルト1番。
 1楽章はやはり”軽く”かつ”疾走感を持って”演奏すべきなのだろうが、今日の辻井さんは違った。
 ピアノの音が”鼻声”のようで、かつ、ねばっこく、重たく聴こえるのである。
 緊張やリハーサル不足、単なるコンディション不良など、いろいろ原因は考えられるのだが、二日前に同じプログラムを仙台で上演しているから、緊張やリハーサル不足ということはなかろう。
 そうすると、消去法でコンディション不良か?と思いきや、二楽章ではちょっと良くなり、3楽章で完全に本調子になった。
 それどころか、アンコールのワーグナー/リスト編「エルザの大聖堂への行列」は入魂の演奏で、稀に見る素晴らしい出来栄えである。
 何と、今日の辻井さんは、アンコールで調子がピークに達するという「追い込み型ピアニスト」だったのである。
 ところで、今日のコンサートで気になったのは、コンチェルトの1楽章が終わった時点で拍手をするお客さんが多数いたことである。
 こんな情景をサントリー・ホールで見るとは、思ってもみなかった。
 この調子だと、運営側は、「ショパン『ピアノ協奏曲第1番』は、3楽章の演奏終了後に拍手をして下さい」などと事前アナウンスをしなければなくなるかもしれない。
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後継者争いと徴表の問題

2024年02月05日 06時30分00秒 | Weblog

 「シェヘラザード」が目的でチケットを購入。
 ガラ公演では、ゾベイダと金の奴隷のパ・ド・ドゥがよく上演されるものの、1幕通しての公演はあまりなく、私はこれが初見である。
 メインはゾベイダ:木村優里さん、金の奴隷:渡邊峻郁さんという新国立劇場バレエ団のプリンシパル・コンビで、「まあ豪華!」という印象。
 木村さんは、昨年の今頃は怪我で休んでいたので、こうしてのびのびと踊る姿を見ることが出来るのは感慨深い。
 渡邊さんは例によって抜群の跳躍力で、金の奴隷役がよくハマっている。
 さて、パンフレットで目を惹くのは、バレエ団の創設者:小牧正英氏の業績をたたえる記述と、このバレエ団が氏ないし「小牧バレエ団」の正当な後継者であることを強調する記述である。
 
 「・・・日本バレエ史に残る小牧バレエ団は1983年に活動を終了しました。
 そこで小牧正英は、実弟の菊池唯夫が主宰する東京小牧バレエ団の名誉団長として、「上海バレエ・リュス」「小牧バレエ団」の名作の数々を演出・振付し、育成にも力を注いできました。今は亡き小牧正英と菊池唯夫の、「作品などの承継をしてほしい」との遺言を受け、当バレエ団の運営母体である国際バレエアカデミアの定款には、二人の言葉に従った活動内容が記載されています。
 法人格を有する団体として「小牧バレエ団」の商標登録も完了しております。二人の遺言を受け、後世に引き継ぐ知的財産と認識し、日々精進しております。」(「ごあいさつ」より抜粋)

 こうした記述の背景には、どうやらバレエ団の後継者争いの問題があるようだ。

 「小牧氏の長女である菊池マリーナ氏によれば、血の繋がらない「いとこ」の菊池宗(そう)氏と対立しているという。宗氏は、小牧氏の弟である菊池唯夫氏と養子縁組した人物だ。
「2006年、父は94歳で生涯を閉じました。その遺書には“小牧バレエ団”の商標権や歴史的資料、さらに、いとこが率いるバレエ団に“小牧”の名称を使用させる権利も私に相続させると記されていた。ところが、いとこはあたかも父の後継者のように振る舞い、父の名を勝手に利用しているのです」

 遺産の問題だと考えれば、遺言があるのだからそれで解決出来る問題のようにも思える。
 だが、そうなっていないのは、一義的な内容とはなっていないからではないだろうか?
 そうだとすると、バレエ団の正当な後継者は一体誰であるかという問題が残る。
 この種の後継者争いは天皇家でもかつてあったわけで、その際鍵を握っていたのは、”徴表”つまり「三種の神器」だった。
 バレエ団についても同様に考えると、”徴表”とは一体何かが問題となる。
 私見では、バレエのコアはコリオ(振付)なので、小牧正英氏が作成したコリオの権利を有している者・団体が、おそらく正当な後継者ということになるだろう。
 そこでパンフレットを見ると、
 「原振付:ミハイル・フォーキン、ニコライ・ミハイロヴィチ・ソコルスキー、小牧正英
 「演出・振付:森山直美
とある。
 この権利関係を調べれば、おのずと白黒が分かるのではないかと考えるのだ。
 但し、三種の神器や錦の御旗がそうであるように、昔に作られたコリオの真贋を判断する手段は、おそらく基本的には存在しないのではないだろうか?
 ・・・それにしても、この振付は、ガラ公演で見慣れているフォーキンの振付と比べると、殆ど原型をとどめていないくらい違っているのに驚く。
 パ・ド・ドゥのラストでゾベイダと金の奴隷が寝そべって抱き合うくだりもない。
 その代わり、動きが激しいしアクロバティックなリフトもあって、なかなかよいコリオで、自分的には好みである。

 
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好き嫌いと芸術性の問題

2024年02月04日 06時30分00秒 | Weblog
 「彼の後を継いだのは、オーレリ・デュポンだった。その総括はまだ終わっていない。デュポンは、コンテンポラリーの新作でしばしば失望させたこと、ダンサーとの関係がときに難しかったことで非難された。とくに、観客全員のお気に入りだったフランソワ・アリュを、彼女はなぜか頑なにエトワールに任命しなかった。22年4月23日に『ラ・バヤデール』でアリュは総裁からエトワールに任命されたが、しれは観客の四分の一が終演後も会場に残り、「アリュをエトワールに!デュポンは辞任を!」と叫び続けた異例の上演の二日後だった。こうして、観客とかつてこのバレエ団の女王だったエトワールとの愛情の物語が終わった。デュポンはこの年の7月31日に辞任し、アリュも11月に去った。」(p52)

 パリ・オペラ座バレエ団の前芸術監督:オーレリ・デュポンの突然の辞任の理由が明らかにされている。
 彼女の人事が、観客からは嫌がらせ、要するに「好き嫌い」に過ぎないと見え、抗議を行ったのかもしれない(それにしてもフランスらしいやり方!)。
 これに対し、彼女としては、芸術性に関する自身の判断が観客から否定されたように感じ、辞任を選んだのかもしれない。
 サラリーマンであれば、ある程度数字で業績を測ることが出来るし、それに基づいて昇格を認めることも出来る。
 だが、バレエのような芸術だと、こうした判断は難しい。
 素人である観客と、プロ中のプロである芸術監督の判断が違うことは当然あり得ることで、性質上、どちらが正しいということも言えないのである。
 ・・・そう言えば、わが国の政治家は、「好き嫌い」で人事を左右したり、手を組む政党を選んだりするのが大好きなようである。
 もっとも、「そういう政治家は辞任を!」という声があがらないところは、日本らしい。
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4000万円の響き(2)

2024年02月03日 06時30分00秒 | Weblog
ショパン/モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のアリア
「お手をどうぞ」の主題による変奏曲 変ロ長調 Op.2 [ソロ:亀井]
ショパン/エチュード・セレクション [ソロ:ユンチャン]
3つの新しいエチュード より 第1番 ヘ短調
12のエチュード Op.25 より 第1番 変イ長調「エオリアンハープ」、
第5番 ホ短調、第6番 嬰ト短調
12のエチュード Op.10 より 第10番 変イ長調、第9番 ヘ短調
12のエチュード Op.25 より 第11番 イ短調「木枯らし」
ラヴェル/ラ・ヴァルス*
ミヨー/スカラムーシュOp.165b*
サン=サーンス/組曲『動物の謝肉祭』(2台ピアノ版)*
*2台ピアノ
★アンコール チャイコフスキー くるみ割り人形組曲より「花のワルツ」

 私のとっては、昨年12月のピアノによる「第九」以来の、2台のピアノによる「4000万円の響き」である(パンフレットを見ると、「協賛:スタンウェイジャパン株式会社」とある。)。
 曲目を見ると、何となく、二人とも次のショパン・コンクールに照準を合わせているように感じる。
 ちなみに、「ドン・ジョヴァンニのアリア」は、前回覇者のブルース・リウが昨年の日本ツアーで弾いていた曲である。
 イムさんを聴くのは、昨年の東フィルとの「皇帝」(プレトニョフ指揮)以来2回目だが、どうも私には彼の演奏がしっくり来ない。
 特に「木枯らしのエチュード」などは、テンポに違和感を感じる。
 下降音階のパッセージが速すぎるため、次のパッセージで澱むかのような印象を受けるのだ。
 これも道理で、ショパンはテンポを指定しているので(ショパン エチュード(練習曲集)Op.10,Op.25【ショパンが指定したテンポ】)、「標準的なテンポ」の演奏を聴き慣れた人がこれに外れた演奏を聴くと、すぐ分かるのかもしれない。
 やはり、テンポの問題は決定的で、私見では、イムさんには、(トーマス・マンが言うところの)「熱く戯れる気分」(feurig spielender Laune) 」(「熱く戯れる気分」とテンポの問題)がもう少し欲しいように思う。
 もっとも、聴衆受けは総じて良好で(韓国からのお客さんも多い)、アンコールの「花のワルツ」が終わると客席はスタンディング・オベーションの嵐となった。
 ・・・ラフマニノフを外した代わりにチャイコフスキーを弾いたのかもしれないが、二人ともチャイコフスキー・コンクールは狙わないのかな?
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学者と裁判官

2024年02月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「今や、司法の本質を理解しているのは、宇賀克也裁判官だけ。
本来、その役割を期待されている、弁護士出身裁判官は、もうずいぶん長い間、その存在感を失っています(むしろ、落胆させられることの方が多い。袴田最高裁決定、原発最高裁判決等)。

 数年前、高橋宏志先生の研修を受けた際、興味深いお話を聴いた。
 先生は、著名な民訴法学者であるが、一時期は弁護士登録もされており、法曹向けの講義をなさったのである。
 先生は、平成の民訴法大改正の精神として、「証拠隠し・出し惜しみを許さない」点を挙げた(やや記憶が不正確かもしれない。)。
 その際に先生が挙げた具体的な条文は、① 当事者照会(163条。民事訴訟の審理を充実させるために)、② 時期に後れた攻撃防御方法の却下(157条。民事訴訟法第157条時機に後れた攻撃防御方法却下を命じた判決理由紹介1 の2つである。
 ところが、①②とも、実務では殆ど活用されていないといって良い。
 その理由は、私見では、「裁判所が使わせたくないと考えているから」に尽きる。
 例えば、①を行おうとすると、裁判所は「釈明を促すから十分でしょ」などとあれこれ理由を付けて取り下げさせるし、②はそもそも要件が厳しいうえ、要件を充足している場合でも(上級審で争われるのがいやなためか)認めない裁判官が多いのである。
 学者がよかれと思って推進した制度は、(争点が増えて審理を長引かせたくない、控訴審で争う材料を与えたくない、などという)裁判所の都合によって葬られてしまう。
 名割毒ぶどう酒事件の件でも同様の思いを抱く。
 再審制度を使いにくくしているのは、結局のところ、裁判所(と検察庁)なのである。
 この点、岡口判事はそもそも裁判官・検察官出身の最高裁判事には期待しておらず、弁護士出身裁判官に期待していたようだが、この事件では失望したことだろう。
 他の事案でもそうだが、最も常識的と思える宇賀裁判官の意見が「反対意見」になってしまうのは、やはりどう考えてもおかしい。
 今や、最高裁の唯一の良心は、学者出身の宇賀克也裁判官なのである。
 
 
 
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次と次の次、あるいは共通点としてのMPA

2024年02月01日 06時30分00秒 | Weblog
 「『上川時代』を知っている検察関係者からすれば、彼女は組織の秩序に手を突っ込んでくる厄介者。首相になれば、再度検察改革に手を付けるという懸念が内部にはある。そこで、裏金問題に絡めて上川さんの周辺調査を特に入念に進めているようだ。何か出てくれば、首相の座も危うくなるからね

 「自民党の古川禎久元法相と船田元・元経済企画庁長官は30日、茂木派(平成研究会)を退会する意向を表明した。岸田文雄首相が岸田派解散を宣言して以降、茂木派では小渕優子選対委員長や関口昌一参院議員会長ら5人が既に離脱を表明しており、古川、船田両氏を加え7人となった。ほかにも複数の議員が離脱を検討しており、茂木派は分裂含みだ。

 政界がだいぶきな臭くなってきた。
 安倍元首相の死ではっきりしたのは、この国の”キング・メーカー”は麻生氏だったということであり、現時点でもカギを握っているのはこの人だろう。
 私見では、麻生氏の構想は、「次はワンポイント・リリーフで上川氏、その次は茂木氏」というもの。
 この点について言えば、上川・茂木両氏の経歴に注目すべきである。
 二人ともハーヴァード大のケネディ・スクールを出ていて、行政学修士号(MPA)を持っている(はず)。
 「国際的に通用する政治家」という点が麻生氏のお眼鏡に適ったというのが、私の見立てである。
 茂木氏は、これに加え「反公明」というのが、麻生氏の政治観に合致しているのだろう。
 ちなみに、ケネディ・スクールでは「メモ・ライティング」が重視されており、どんな社会問題に対しても政策立案できる能力を養成するためのトレーニングが行なわれている(心に残るスピーチ)。
 もっとも、思い通りにことが運ぶとは限らず、早くも暗雲が立ち込めてきた。
 上川氏は、法務・検察を敵に回しているため、首相になろうものならスキャンダルがマスコミにリークされるかもしれない(ついでに言えば、個人的には、日本で最初の女性の総理大臣はこの人(就活うつを吹き飛ばす)になって欲しいと思うので、上川氏に先を越されるのはちょっと困る。)。
 茂木氏も、いわゆる”外様”であるためか、平成研の世襲議員からの反発を買っているようだ。
 というわけで、どう転ぶかは分からないが、岸田首相の”ポトラッチ”が奏功しない場合には、麻生氏の主導で新しい内閣が出来る可能性があるだろう。
 そのときに自民党(麻生党?)が手を組む相手は、公明党ではなく、やはり国民ではないだろうか?
 そうなると、閣内・閣外いずれにあっても、維新がキャスティング・ボートを握ることになるのではないか?
 ”政界ガラガラポン”は、意外にもすぐやって来るのかもしれない。
 
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