Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

6月のポトラッチ・カウント(1)

2024年06月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「第二部は武田孝史による能「籠太鼓」。松浦某の家来・関清次は喧嘩相手を殺害してしまったので牢に入っていましたが牢を破って逃げてしまいます。代わりに清次の妻が牢に入れられますが夫の行き先を問うても答えません。妻は夫恋しさに牢にかけた鼓を打ち鳴らして狂い舞いますが、それを見た某は夫婦ともに助ける事にすると、妻は正気に戻り隠れていた夫を尋ね探して仲睦まじく暮らすのでした。恋慕の余り狂乱となるのが主題ですが、夫の身を守ろうとする心の強い女性を描く、対話劇風に進行し緩急のある見せ場の多い演目です。」

 上演頻度は決して高くない「籠太鼓」(ろうだいこ)。
 題名のとおり、籠と太鼓という2つの小道具が登場するのが特徴的とされる。
 ストーリー的にはいわゆる「狂女物」の系譜に連なるが、解説の金子直樹さんは、清次の妻は狂気を演じている、つまり「佯狂」であると解釈する。
 そういえば、ハムレットは、ギルデンスターン&ローゼンクランツに対しては、
 「デンマークは牢獄だ
と述べて狂気の扮装を開始したから、「籠」に閉じ込められた清次の妻の「佯狂」という筋はあり得るだろう。
  さて、この演目が興味深いのは、罪人の親でも子でもなく、妻がターゲットとされているところである。
 「イエ」原理によれば、罪人とゲノムを共通にする「イエ」の構成員(親や子、きょうだい)は、問答無用で”連帯責任”を問われることとなる。
 「菅原伝授手習鑑」しかり、「熊谷陣屋」しかり、「ひらかな盛衰記」しかり…枚挙にいとまがない。
 だが、妻は夫とゲノムを共にしていないから、同じ根拠で”連帯責任”を問うことは出来ない。
 それでは、どういう根拠で「夫の代はりに籠舎」した、つまり、現代で言えば「人質司法」の手段を使ったのだろうか?
 
シテ(女)「・・・況んや偕老同穴と契りし夫の行方知らで 残る身までも道狭き なほ安からぬ籠の内 思ひの闇のせん方なさに 物に狂ふは僻事か
地謡「・・・無慙や我が夫の 身に代はりたる籠の中・・・花の間も添ひ果てぬ 契りぞ薄き灯火の・・・」
地謡「・・・五つの鼓は偽りの 契り徒なる妻琴の・・・」
地謡「・・・隠れし夫を尋ねつつ もとの如くに帰り居て 結ぶ契りの末久に・・・」

 最初、女は、
 「夫は我が身可愛さに、『偕老同穴』という私との『契り』を破って勝手に逃げた
と述べ、発狂する、あるいは狂気を演じる。
 これを見た清次の主君は、夫との『契り』の深さに心を打たれ、夫婦とも許すこととした。
 つまり、”連帯責任”の根拠は「契り」であり、かつ、罪を許す根拠もやはり「契り」だったのである。
 ここに、「主君のゲノムを守るため、自分や子を犠牲として捧げる」という、従来型の能・文楽・歌舞伎のメイン・ストリームとは異質の思考が現れているように思う。
 とはいえ、ここで対等な個人間の「約束」が含意されているとは断定し難く、妻の夫に対する・片務的な「奉仕」を意味している可能性もある。
 もしそうだとすると、この"契り"も、結局は「忠義としての自己犠牲」の一形態に過ぎないこととなるだろう。
 ところで、「身体拘束(人質司法)によって『契り』の深さを試す」例として、「芸能界大麻汚染事件」が挙げられる。
 但し、これは、「籠太鼓」とは正反対の結末となった。
 
 「77年9月29日、研ナオコのマンションにガサ入れがあり、3グラムのマリファナが押収された。そもそもの入手先は元恋人の男だったが、別れてからの入手先を追及されると、内藤やす子から譲り受けたことを自供したのだ。

 「籠太鼓」において、妻によるポトラッチは、主君の恩赦により未遂に終わったため、ポトラッチ・ポイントは0.5。
 
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ホールとサロン(7)

2024年06月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「テーマ:「ワーグナーとグレン・グールド――《ジークフリート牧歌》ピアノ版を聴く」
 カナダのピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)には、ワーグナー作品のピアノ・アルバムがある(1973年発売)。そこにはグールド本人の編曲による《マイスタージンガー》前奏曲、〈夜明けとジークフリートのラインへの旅〉、《ジークフリート牧歌》が収められていて、話題となった。どんな編曲で、なぜ録音したのか、そもそもグールドとワーグナーの関係はいかなるものだったのか――。彼が最晩年にトロント交響楽団員を指揮して《ジークフリート牧歌》の録音を残した事実もこの問いへの関心を高める。残された発言や関係者の証言を整理してグールドの描いていたワーグナーの世界を検討したあと、最後に彼の編曲版の《牧歌》を実演で楽しみたい。

 日本ワーグナー協会の今月の例会は、「ワーグナーとグレン・グールド」。
 私の大好物がカップリングされており、しかも「ジークフリート牧歌」のピアノ生演奏が1000円で聴けるのだから、これは絶対に行かなければならない。
 というわけで、宮澤淳一先生のお話と、高橋舞さんの演奏を聴きに行った。
 まず、会場が良い。
 会場は、一応「150人収容」と謳ってはいるが、広さは136.5㎡(13m✖10.5m)で、どう見ても「サロン」である。
 これは、とりわけピアノの演奏を聴く者にとっては大歓迎である。
 前半の宮澤先生のお話は、グールドとワーグナーの関係性から、グールドがなぜワーグナー作品のピアノ編曲版を作曲したかという流れで進んだ。
  グールドは、幼い頃から「トリスタンとイゾルデ」が大好きだったようで、「ワグネリアン」を自称してもいたのだが、筋金入りとまでは言えないようで、シュトラウスやシェーンベルクについて語る際の「参照点」たるにとどまっていたようだ。
 評価していたのは、「ワーグナー中後期」(つまり、初期はダメダメ)で、あくまで「居間で聴く音楽」と言う位置づけである(「わざわざバイロイトに行かなければならないのは、「指環」と「パルジファル」しかないのではないですか」と指摘している。)。
 そんな中途半端なワグネリアンであるグールドは、以下のように述べて、ワーグナー作品の編曲に乗り出す(表現は私なりにアレンジしている。)。

ワーグナーは、ピアノを本当の意味では理解していませんでした。
リストの編曲は、オーケストラに引きずられ過ぎている。選曲も良くない(「愛の死」もダメダメ)。
ピアノは、対位法的な音楽を表現するのに最適な楽器です。

 かくして、彼は、
《マイスタージンガー》前奏曲
〈夜明けとジークフリートのラインへの旅〉
《ジークフリート牧歌》
を編曲した。
 「マイスタージンガー」は対位法を駆使した曲なので、これが選ばれたのは納得が行くが、ほかの2曲が選ばれた理由ははっきりしない。
 「ラインへの旅」は、”ティンパニの連打”という、ピアノで表現するのが最も難しい(というより不適当な)パートが多く、これがグールドの野心を刺激したのかもしれない。
 「ジークフリート牧歌」について、彼は、
 「『ジークフリート』ではなく、『牧歌』です
という趣旨の言葉を残しているそうだ。
 この曲を、ピアノという打楽器の限界を踏まえつつ、非常に遅いテンポで演奏することが、彼にはチャレンジングなことに思えたのだろうか?
 後半、この曲の素晴らしい演奏を披露した後、ピアニストの高橋さんは、編曲については、「音が減衰してしまう箇所では『音を足す』工夫が見られる」、演奏については、「ピアノ的な『クライマックス』を沢山作っている」と指摘した。
 いずれにせよ、宮澤先生が指摘するように、「ワーグナーをピアノ音楽の巨匠に変えた」、「電子音楽の時代のリスト」というグールドの功績は大きい。
 特に、「ジークフリート牧歌」(そもそも「ホール」向けに作曲されたのではない:ホールとサロン(5))は、彼が心を込めて編曲・演奏した曲であり、「居間で聴くワーグナー」としては最適と思われる。
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おしゃべりクラシック(2)

2024年06月18日 06時30分00秒 | Weblog
  • チャイコフスキー: 『眠れる森の美女』よりワルツ〈ロシア〉
  • D.リルバーン:アオテアロア〈ニュージーランド〉
  • ワーグナー:歌劇『ローエングリン』第一幕への前奏曲〈ドイツ〉
  • バルトーク:ルーマニア民俗舞曲(弦楽合奏版)〈ルーマニア〉
  • マスネ:タイスの瞑想曲〈フランス〉 ヴァイオリン:西江辰郎(NJPコンサートマスター)
  • マスカーニ:『カヴァレリア・ルスティカーナ』より間奏曲〈イタリア〉オルガン付
  • マルケス:ダンソン・ヌメロ・ドス(Danzón No. 2)〈メキシコ〉
  • コープランド:クワイエット・シティ〈アメリカ〉イングリッシュホルン:森明子(NJPオーボエ&イングリッシュホルン奏者) トランペット:山川永太郎(NJP首席トランペット奏者)
  • 井上道義:ミュージカルオペラ『降福からの道』二幕より 「降伏は幸福だ」〈日本〉
  • エルガー:「威風堂々」〈イギリス〉オルガン付
 今年いっぱいで引退を宣言している井上道義氏の指揮・おしゃべりによるコンサート第2弾(第1弾は昨年9月17日の公演)。
 「世界漫遊記」という表題が示すとおり、世界各国の音楽10曲が演奏される。
 なんとまあ、みちよし先生のしゃべること!
 このオーケストラの公演について、私は個人的に「おしゃべりクラシック」と名づけていたのだが、佐渡さんの先人がいたのである。
 今回のコンサートは、半分以上の時間がおしゃべりの時間であり、前半が終わった時点で2時間近く経過していたと思う。
 興味深い話ばかりで、挙げて行くとキリがないが、いくつかピックアップしてみる(もしかすると記憶違いの部分があるかもしれない)。
① バレエの動きと指揮者の動きはまるで違う
 1曲目は、バレエ音楽「眠りの森の美女」よりワルツ。
 みちよし先生は、少年時代に鎌倉でバレエを習っており、そのために指揮をしているときに、最初は「音楽に乗る」ような感じになったそうである。
 だが、指揮者は「音楽の1秒前を行く」必要があるため、バレエの動きは指揮を阻害することになるそうだ。
② イタリアのオーケストラ団員との付き合い方
 3曲目は、歌劇「ローエングリン」より第1幕への前奏曲。
 カルロス・クライバーはワーグナーの指揮が得意だったそうだが、イタリアのオーケストラでは苦労したようである。
 というのも、彼ら/彼女らは、基本的に指揮者の言うことを聞かず、練習中も私語ばかりするからである。
 ところが、クライバーはそれをとがめたりしない。
 怪訝に思ったみちよし先生は、こう言ったそうである。   
 「イタリアでは、やっぱり、ムーティーのように、『警官のように』厳しくやった方がいいんじゃないですか?
 これにクライバーンは、こう答えた。
 「いや、私は、オーケストラの団員とは、友達の関係でいたいんだよ
③ 死は怖くない
 みちよし先生は、コンサートの間に何度か、「私はまもなく”死にます”(言葉ではなく、ジェスチャーで)が、全然怖くありません」と語った。
 その理由は、話を聞いているとよく分かる。
  初っ端から、先生が生まれた1946年、「すみだトリフォニーホール」近辺は焼け野原であり、その前に空襲でたくさんの人が亡くなっていたという話が出た。
 また、9曲目のミュージカルオペラ『降福からの道』二幕より 「降伏は幸福だ」では、実の父親がアメリカ軍の中尉であったことや、両親が移住したフィリピンでは戦争で多くの人が亡くなったことなどが語られた。
 ご自身の病気(かつて喉頭がんを発症されたそうである)のことについては
触れられなかったが、このことも、「死は怖くない」という理由の一つなのだろう。

 さて、本当のファイナル:12月30日のチケットは、争奪戦になりそうである。
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中和剤としての喜劇、あるいは関西人の役割

2024年06月17日 06時30分00秒 | Weblog
 「ロミオとジュリエット」や「オネーギン」などの悲劇ばかり観たり読んだりしていると、当然ながら、気分が鬱になる。
 なので、喜劇的なものが欲しくなるのは自然なことである。
 古代ギリシャでも、悲劇が演じられる場合には、セットで「サテュロス劇」という一種の喜劇が演じられていた。
 つまり、喜劇によって悲劇を中和するのである。
 そういう意味では、クランコ版「ロミオとジュリエット」を観る人がセットで観るべきバレエ公演としては、次のものが筆頭に挙げられるだろう。

 「6月1日大阪昼公演限定で実現した、松浦景子さんとトロカデロのコラボパフォーマンス。
 いざ幕が上がると、松浦景子さんとタカオミ・ヨシノで演じた「タランテラのパ・ド・ドゥ」のステージが想像以上に素晴らしく、観ていた日本公演スタッフは心打たれました。
 そしてありがたいことにSNS等のコメントでも、神戸公演や東京公演で再演してほしいとの声も沢山頂きました。
 そこで、バレエ団と松浦さんに再度このコラボを上演出来ないか。
無理を承知でお願いしてみましたところ、双方快く引き受けてくださり、日本公演千秋楽のステージで再演が決定いたしました!
(快諾いただいたバレエ団と松浦さんに感謝いたします)

 何と、バレエ芸人の松浦恵子さんとトロカデロのタカオミ・ヨシノさんが、男女逆転版の「タランテラのパ・ド・ドゥ」(おそらく世界初)を踊るのである。
 私は千秋楽を観たのだが、二人は古い知り合いだったこともあり、息の合った完璧なパフォーマンスであった。
 ちなみに、二人とも関西人である。

 「2008年にビントレー元芸術監督が新国立劇場のために振り付けた全幕バレエ『アラジン』を再演します。エンターテインメント性と芸術性が見事に調和した本プロダクションは、新国立劇場での初演後、英国バーミンガム・ロイヤルバレエや米国ヒューストン・バレエなどで上演され、ビントレーの代表作として国際的にも高い評価を得ています。振付の妙味に加えて、カール・デイヴィスの親しみやすい音楽、空飛ぶじゅうたんやランプの精の登場シーンなど夢いっぱいの華やかな演出も見どころです。バレエを初めてご覧になるお客様、そして大人から子どもまで全ての世代の方々にもお楽しみいただける人気演目です。

 「アラジン」全幕を観るのはこれが初めて。
 コリオでは、2幕のジーンの精(渡邊さんが熱演)を中心とした群舞が圧巻で、他の演目では絶対に味わえない迫力がある。
 これは必見といって良い。
 ダンス以外の要素にも注目すべきで、衣装や舞台だけでも一見の価値がある。
 見逃せないところとして、アラジンの細かい仕草(他のダンサーをいじりまくる、リンゴをかじって口に入れた状態で踊りだす、など)は、笑いを誘うよう仕組まれている。
 過去何度も踊っている福岡さんは、その点を十分把握しているようだ。
 それもそのはず、福岡さんは大阪出身のコテコテの関西人なのである。
 ・・・いや、アラジンを踊る速水さん(京都出身)、奥村さん(大阪出身)、福田さん(大阪出身)も、みんな関西人やんか!
 アラジンはカンサイジン!
 
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ロミオとトニオ、あるいは音楽の干渉

2024年06月16日 06時30分00秒 | Weblog
 「演じるダンサーたちが言葉を発していないのが不思議なくらい、主人公たちの感情がいきいきと伝わってくる──それが物語バレエの巨匠ジョン・クランコによる「ロミオとジュリエット」の魅力です。巨匠美術家ユルゲン・ローゼによる2層構えの壮大な装置をあらゆる場面で効果的に使い、二つの 貴族の家の対立や、民衆のざわめきと貴族たちの威勢を巧みに対比させる演出。有名なバルコニーの場面から教会での結婚式、寝室での別れ、そして最後の墓室の場面まで、まるで恋人たちの語らいが聞こえてくるかのような主役たちのパ・ド・ドゥと演技。全編をとおして温かい感情に溢れ、胸をしめつけるような感動が押し寄せてきます。

 バブル時代、女性が結婚相手に求める条件として、「三高」(高学歴・高収入・高身長 )というのがあった。
 そういう人たちにとって、「ロミオとジュリエット」の「一目惚れ」に始まる純愛は、冷静な判断を欠いた、幼稚で愚かなものに見えるのかもしれない。
 だが、そう言う前に、「ロミオとジュリエット」における「一目惚れ」について分析してみる必要があるかもしれない。
 これについては、原作(戯曲)とバレエ(クランコ版)でやや異なるが、基本的には、舞踏会場でロミオがジュリエットを見染めるという筋立てになっている。

ロミオ あのご婦人はだれなんだ、あそこで騎士に手をとられているあの女(ひと)は?
使用人 存じませんね。
ロミオ ああ、なんて美しい女だ!おかげで炬火の光もいっそう輝いて見える。真黒なエチオピア人の耳もとに垂れさがっているきらめく見事な宝石のように、あの女は真暗な夜の頬を燦然と飾っている。
 あの美しさはもったいなくて手も触れられぬ、立派すぎてこの世のものとも思えぬ!
 まるで烏の群れの真中に下りた純白な鳩だ、仲間の女たちにまじっているあの女の姿は。
 踊りがひとしきり終わったら、俺はあの女の所に行って、美しいその手に触れて俺のがさつな心を潔めてもらおう。
 ああ、俺の心は今まで真実恋をしていたのか?俺の眼よ、誓いを取り消せ!
 俺は今宵初めてほんとうに美しい女を見たのだ!
 
 原文(Act1, Scene5)では、”shows” が決め手となる単語である。
 つまり、ジュリエットの姿=「フォルム」こそが、一目惚れを惹き起こした要因なのだった。
 言うまでもないが、これは言語ではないし、「高学歴」「高収入」のような社会的要因とも関係がない(但し、白衣を着て医学部出身であることをアピールしたり、ポルシェを乗り回して金持ちであることをアピールしたりする、などといった非言語的手法はあり得る。)。
 このシーンを、シェイクスピアはややくどい言葉で表現したのだが、非言語的芸術であるバレエ(映画も)は、これを言葉ではなく、主にダンスで表現することになる。
 これが、バレエ「ロミオとジュリエット」の見せ場の一つであり、クランコ版のコリオはこの点をよく把握していると思う
 ところで、一目惚れを惹き起こすのが非言語的な要素であるとして、では、それは本当に「フォルム」だけなのだろうか?
 
 「金髪のインゲ、インゲボルク・ホルム。高くとがって入り組んだゴシック式の噴水のある、あの中央広場のかたわらに住むホルム博士の娘が、16歳になったトニオ・クレーゲルの意中の人だった。
 どういうきっかけでそうなったのか。彼はそれまでにも幾度となくこの娘の姿を見ていたのである。ところがある夜のこと、彼はある照明の下で彼女を見た。女友達と話をしながら、彼女は声をたててひどく陽気に笑った拍子に頭を横にかしげて、その手を、けっしてことさらほっそりもしていないし、けっしてことさら花車でもない小娘風の手をある種の仕草で後頭部へ持っていくと、白い紗の袖口が肘からずり落ちるのを彼は見た。また彼は、彼女がある言葉を、何かちょっとした言葉を一種の調子で口にすると、その声のうちに、ある暖かい響きがあるのを訊いた。と、ある恍惚感が彼の心をとらえた。」(p25~26)

 「フォルム」だけではなく、「仕草」(Bewegung)、(特定の響き:Klingenの)「声」(Stimme)なども、一目惚れを惹き起こす要因となり得る。
 つまり、前頭前皮質(記憶や言語を司る)ではなく、脳幹や身体に直接働きかけるようなもの(「三高」で言えば「高身長」?)が作用するのである。
 なので、プロコフィエフには申し訳ないけれども、バレエでは、本来ならここで音楽も止めるべきだろう。
 音楽が、「フォルム」と「仕草」(バレエでは「コリオ」と呼ぶ)以外の要因となって、干渉してくる可能性があるからだ。
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エスVS.伝承(10)

2024年06月15日 06時30分00秒 | Weblog
 とはいえ、モーセに関する出来事が、ユダヤ民族において「遺伝」しているというのは、常識で考えてあり得ない話である。
 ところが、フロイト先生は、「伝承」という言葉を持ち出しつつ、ここで大きな跳躍を行う。

 「伝承なるものの本来の正体はどこに存するのか、伝承なるものの独特の力はどこに基づいているのか、世界史に対する個々の偉大な男たちの個性的な影響力を否定することがいかに不可能であるか、物質的欲求からの動機だけが承認された場合、人間の生活の大いなる多様性に対していかなる犯罪的所業がなされる結果になるか、いかなる源泉から人間や諸民族の心を征服するような力を、多くの、とりわけ宗教的な理念は汲み取るのであるかーーー」(前掲「モーセと一神教」p94)
 「われわれがいまここで直面しているのは、このような伝承が、時とともに力を失って行くのではなく、幾世紀もの時の流れのなかでだんだんと力強くなり、後年に習性を受けた公的報告のなかにまで侵入して、ついにはこの民族の思考と行為にまでも決定的な影響力を振るうほど強靭になってしまったという実に奇妙かつ注目すべき事実なのである。」(同p120)

 ここでは何が主張されているのだろうか?
 渡辺哲夫先生によれば、
 「ユダヤ民族のエスがモーセの掟においてある」(p266)
ということだそうである。
 フロイト先生は、ユダヤ民族においては、「エス」が(モーセの)「伝承」を取り込んでしまう、つまり、「自然」(エス)=「歴史」(伝承)の等式が成り立ちうると言いたいようである。
 だが、これが生命科学の観点から誤りであることは既に指摘したとおりであり、「伝承」が「エス」に取り込まれて民族のレベルで「遺伝」することはあり得ない。
 なぜなら、「伝承」は、例えば、「或る人が或る橋を渡った」ということを内容とする意識の対象(イメージの如きもの)、つまり「パラデイクマ」(もっと分かりやすく言えば「出来事」)が言語化され、これが集団において伝えられるものであって、そもそも「自然」(エス)の次元にはないからである(「歴史を問う」2「歴史と時間」p91~)。
 ・・・というわけで、私ももっと「伝承」を勉強しなければいけない、というのが、私にとっての結論となった。
 
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エスVS.伝承(9)

2024年06月14日 06時30分00秒 | Weblog
 ダマシオは、フロイト先生に対する追撃の手を緩めない。
 批判の対象は、「エロス」にも及ぶ。
 ダマシオは、フロイト先生が「エロス」(この言葉のオリジナルはヘシオドスか?)に盛り込んだ意味内容は、スピノザからの借用であることを暴露する。

 「フロイトの理論体系は、スピノザが<コナトゥス>で明示した自己保存機構を必要とし、自己保存作用が無意識に関わっているとする概念を頻繁に使う。だがフロイトはけっしてスピノザに言及しなかった。この問題を問われたとき、フロイトはその手落ちを説明するのにひじょうに苦労した。1931年、ローター・ビッケル宛の手紙でフロイトはこう書いている。「スピノザの教義に依拠したことを、躊躇せずに打ち明けます。もし私が彼の名に直接言及したくなかったとすれば、それは、私が自説をあの学者についての研究から引き出したのではなく、彼が生み出した雰囲気から引き出したからです。」」(p332)

 そういうダマシオは、「エロス」という言葉ではなく、「ホメオスタシス」(恒常性)という言葉を用いるが、スピノザがこれにほぼ等しい概念を発明していたことをきちんと指摘する。

 「ポジティヴに調節された命の状態を実現しようという連続的な試みが、われわれの存在の重要で特徴的な部分であることは明らかだ。それはわれわれの存在の第一の現実であり、スピノザが直観したものでもある。スピノザは、存在するもの一つひとつの<自身を保持しようとする執拗な努力>(コナトゥス、ラテン語 conatus )を説いた。」(前掲p61)

 このように、ダマシオによれば、フロイト先生の「エロス」はオリジナルではないということになる。 
 だが、それでもなお、「死の欲動」は、今もなおフロイト先生のオリジナルというべきである。
 最新の生命科学の知見によれば、ヒトの体内には、わざわざ細胞を死なせるプログラムがゲノムのレベルで組み込まれていることが判明しているが、これは、「ホメオスタシス」の概念だけではおよそ説明出来ないからである。
 ちなみに、ヒトにおける「死」(通常は、「老いて、病気になって、死ぬ」)の感覚は、ほかの生物とは根本的に違っているそうである。

 「少し残酷な感じがしますが、多くの生き物は、食われるか、食えなくなって餓死します。これをずっと自然のこととして繰り返しており、なんの問題もありませんでした。つまりざっくり言うと、個々の生物は死んではいますが、たとえ食べられて死んだ場合でも、自分が食べられることで捕食者の命を長らえさせ、生き物全体としては、地球上で繁栄してきました。・・・
 事実、自身の命を引き換えに子孫を残す生き物、例えばサケは産卵とともに死に、死骸は他の生き物の餌となり、巡り巡って稚魚の餌となります。もっと直接的な例では、クモの一種であるムレイワガネグモの母グモは、生きているときに自らの内臓を吐き出し、生まれたばかりの子に与え、それがなくなると自らの体そのものを餌として与えます。まさに「死」と引き換えに「生」が存在しているのです。」(p163~164)

 考えてみれば、母乳は母の体液であり、元は身体の一部である。
 なので、哺乳類は、極端に言うと「親の身体を食べて育つ生物」と定義出来なくもなさそうである。
 それに、「共食い」という現象は、チンパンジーを含む哺乳類全般で広くみられることである。
 ・・・むむむ、そうすると、フロイト先生が指摘した「原父を殺害して食べる」という行為は、「記憶(痕跡)」ではなくて、ゲノムに組み込まれているプログラムの一つなのではないだろうか?
 「原父殺害・食人」は、「歴史」(伝承)における出来事ではなくて、「自然」(エス。但し、ここでは脳幹と身体)のレベルで把握すべき問題だったのではないだろうか?
 こういう風に考えて行くと、フロイト先生が述べた「記憶(痕跡)の遺伝」とあるところの、「遺伝」の部分は正しく、「記憶(痕跡)」のところが誤り(余計)だったということになるだろう。
 もっとも、当時、ゲノムの仕組みについては余り解明されていなかったので、これはやむを得ない側面がある。
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エスVS.伝承(8)

2024年06月13日 06時30分00秒 | Weblog
 ダマシオの仮説によれば、「自己」ないし「意識」は、「原自己」→「中核意識」→「拡張意識」という三層構造を成している。
 この仮説によれば、フロイト先生が用いた概念をある程度分かりやすく解明することが出来ると思う。
 出来るだけダマシオの表現に依拠しつつ、私なりに要約すると、以下のようになる(なお、道具概念VS.道具概念(9)、「意識と自己」、「単純化されたダマシオの意識のモデル図」をご参照)。
 
最も基底にあるのが「原自己」[proto-self]。脳の中に存在する「身体」のひな型(「身体マップ」)で、emotions (情動)や sensory input (感覚刺激)を”無意識に”(※ここ重要!)処理している。
次に来るのが「中核意識」[core consciousness]という単純な種類の意識。有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己の感覚を授けている。中核意識の作用範囲は「いま・ここ」である。対象を処理する有機体のプロセスによって有機体自身の状態がどう影響されるかについて、脳の表象装置がイメージ的、非言語的説明を生成し、かつ、このプロセスによって原因的対象(有機体の状態に影響を及ぼす対象)のイメージが強化され、時間的、空間的に顕著になると、「中核意識」が生じる。
最上位にあるのが「拡張された意識」[extended consciousness。以下「拡張意識」と表記]。多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は、有機体に精巧な自己の感覚ーーまさに「あなた」、「私」というアイデンティティと人格ーーを授け、また、生きてきた過去と予期された未来を十分に自覚し、また外界を強く認識しながら、その人格を個人史的な時間の一点に据えている。これは、記憶や言語を処理する際に立ち現れてくる。
上記3つは、身体・脳幹・大脳皮質(主に前頭前皮質のこと)という部位に概ね対応しており、脳幹は身体と大脳皮質を結んでいる。したがって、脳幹と身体の間の相互作用がなかったら意識は失われるし、脳幹と大脳皮質の間の相互作用がなかったら意識は失われる。
 「「原自己」、「中核意識」、「拡張意識」のうち、前者2つはたくさんの種に共通し、その大半は脳幹及びその種が持っている大脳皮質から生じているが、「拡張意識」だけは、限られた種が持つものだと思われる。
 
 以上を見ると、フロイト先生が
 「エスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。」と述べた際に念頭に置いていたものが、実はどうやら「原自己」と「中核意識」(ざっくり言えば「身体」と「脳幹」:「いま・ここ」のみが存在し、時間の観念はない)であることや、「超自我」(民族の「記憶痕跡」のヴィークル)と呼んでエスの中に取り込んでしまったものの正体が、実はどうやら(記憶や言語を司る)「前頭前皮質」であるらしいということが推測出来るだろう。
 つまり、フロイト先生は、「身体」・「脳幹」から「前頭前皮質」までを、十把一絡げに「エス」の概念にぶっこんでしまったのではないかと思われるのである。
 これは、ダマシオによる明快なフロイト批判と言うことが出来るだろう。
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エスVS.伝承(7)

2024年06月12日 06時30分00秒 | Weblog
 既に述べたように、フロイト先生は、おそらくはエスを救済するために、「記憶の遺伝」という明らかな誤謬に陥ったわけだが、誤謬に陥った原因の一つは、「記憶(痕跡)」という言葉の概念が不明確だったところにあるようだ。
 ちなみに、フロイト先生は、別の箇所ではこれを「伝承」(これは個人のレベルではなく集団のレベルで機能するもの)と言い換えたりして、わざわざ混乱を招いているかのようにも思える(前掲「モーセと一神教」p169など)。
 どう考えるかだが、この種の問題については、例によって、アントニオ・ダマシオの議論を参照するのが良いと思う。
 ダマシオによる単純化した「意識」のモデルによれば、「記憶」は、彼が言うところの「拡張意識」のレベルに存在していることになる(道具概念VS.道具概念(10))。
 また、このモデルを見れば、フロイト先生が「エス」と呼んでいろいろな機能を詰め込んできたものの正体は、どうやら「原自己」(Protoself)に近いのではないかと言えそうだ。
 但し、「原自己」は、「一人に一つ」しか存在することが出来ない。
 なぜならば、「原自己」は、「身体」を基礎として成り立っているところ、「身体」は、「一人に一つ」しか存在しないからである。
 以下、引用が長くなるが、「自己」を「自我」と読み替えると、ほぼフロイト理論への応答となっていて興味深い。

 「自分についての基準のことを 自己とか自分と言います。 我々の信号処理系の基準としては 揺るぐことのない何か、日々偏ることの少ない何かが必要です。 
 たまたま 我々の身体は単一です。身体は1つで 2つも3つもありません。これが出発点です。」(9:35~)
 「脳皮質を調べ脳幹を調べ、身体を調べると、相互の繋がりが分かりました。この接続において脳幹が身体ととても緊密に結合していて、自己の基盤を提供しているのです。
 また大脳皮質は、大量の情報から鮮やかに描きだされる 心の映像を担当します。それこそがまさに我々の心の実体で、普通はもっぱらそこが注目されます。
 当然のことで、それこそが、心の中で繰り広げられる映画なのです。
 しかし、矢印にも注目してください。見た目のために置かれたわけではなく、非常に強い相互作用があるから置かれているのです。
 脳幹と大脳皮質の間の相互作用がなかったら、意識は失われるでしょう。脳幹と身体の間の相互作用がなかったら、意識は失われるでしょう。」(14:10~)
 「自己には3つのレベルがあると考えます。原自己、中核自己、自伝的自己です。
 前者2つはたくさんの種に共通し、その大半は脳幹およびその種が持っている大脳皮質から生じています。自伝的自己だけは、限られた種が持つものだと思います。
 クジラ目と霊長類も自伝的自己をある程度持っています。家で皆さんが飼っている犬もある程度の自伝的自己を所有します。
 ここが新しい事柄です。」(15:46~)
 「自伝的自己は 、過去の記憶と 自分が立てた計画の記憶を基に 作られます 。体験した過去と予測する未来なのです 。
 自伝的自己は、拡張された記憶、推論力、想像力、創造する力、言語を生みました。
 そこから文化という手段が生まれ、宗教や正義、商業、芸術、科学、技術も生まれました。その文化の中で我々が 本当に獲得できるものはーここが新しいところですー 生物学により規定されたものだけではないことです。 
 それは文化の中で育まれたものです。人類の集合の中で育まれたものです。 これはもちろん 文化ー すなわち、その中で生みだされた 社会文化的な調節です。」(16:18~)
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エスVS.伝承(6)

2024年06月11日 06時30分00秒 | Weblog
 エスに関するフロイト先生の説明で注目すべきは、エスの「超(非)・歴史性」≒「不死」という性質である。
 しかも、フロイト先生の図式だと、エスは、「超自我」という外在的なものをも取り込んでしまう。
 つまり、エスは、≒「不死」であるが、閉鎖的・自己完結的なものではなく、外部からの進入も可能である。
 あるいは、外部にあるものの方が実は本体なのであって、個々の人間のエスはその”出先”(?)なのかもしれない。
 ・・・すると、ここで何やら怪しい匂いが漂い始める。
 「モーセと一神教」で激しく非難(というか、もはや呪詛)されているのは何よりもパウロであるが、何と、そのパウロの思考と似通った思考が、ここに立ち現れてきたように見えるからである。
 それは、永生する(霊の)「いのち」(<第二の生命>中心主義)という思考である。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 ここの「神」を「原父」に、「霊」を「エス」に置き換えて、さらに、
・「神の霊」→ 「原父(モーセ)を超自我として取り込んだエス」
・「キリストの霊」→「父の子(キリスト)を超自我として取り込んだエス」
と補足すれば、「モーセと一神教」でフロイト先生が言わんとしたところがいっそう明らかとなる。
 われわれの(個別的)エスは、実は、外部に存在する不滅の(集合的)エス(あるいは「原エス」)に由来するものであり、それゆえ≒「不死」の性質を持つというわけである。
 そして、こう考えると、フロイト先生が、生命科学の観点からは誤っているとしか言いようのない仮説を援用してまで、「自然」(エス)>「歴史」(伝承)という不等式を維持しようとした理由が分かるような気がする。
 すなわち、私見ではあるが、彼が「エス」において見出そうとしていたのは、生命の根源としての animus(命と壺(5))だったのではないか、それゆえライバルとも言うべきパウロをあれほど激しく攻撃したのではないか、という見方が出来そうなのである。
 ちなみに、これをフロイト先生の防衛機制論で言うと、おそらく「投影(Projection)」に該当するだろう。
 
 
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