パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

もったいないこと

2025年01月21日 09時38分59秒 | あれこれ考えること

昔、まだ山に登れていた頃「もったいない」と思うことがあった
一つは上高地から明神、徳沢方面に梓川沿いに散策する人の中に
イヤホンをしていた人がいたことだ
多分お気に入りの音楽を聴いたりしていたのだろう
でも耳からの情報をイヤホンで遮断しているのは
川のせせらぎ音、鳥の鳴き声、葉のこすれ合う音、落ち葉の道を踏みしめる音
そこでしか味わえない自然の音を自ら放棄していることで
自分にはそれがとても「もったいない」と思えたのだった
(そちらのほうがいい音楽と思えたので)

もう一つは「もったいない」というのとは少し違うかもしれないが
常念小屋で署名を求められた時のことで、それは
「常念岳にロープウェイを設置する計画に反対してほしい」というものだった
「なんということ(計画)を!」と直ぐに署名したが
それは苦しい思いをしてたどり着いたところから見る槍穂高連峰の壮大な風景は
ロープウェイを使って楽して見えることになった風景とは見え方が違う
と想像したからだった

苦労したからこそ感動的に見える!
と一言で言いきってしまうのとは少し違う気がするが
登山道で経験する様々なこと、疲れてくると余裕が無くなって
自分自身に没入していき、それが自分との対話のようなもので
そのような貴重な体験なしに目的地に着くのはもったいないとしか思えなかった

最近はタイパという言葉で効率を求められる傾向がある
難しい概念や現象をわかりやすく説明することが求められる
例えば古典となっている書物は、殆どが苦労を伴わずに
読み終えることはできない
そして作者に対して「もっとわかりやすく書け」と
怒りを覚えるほどの気持ちになることもある
でも、実はなんとか理解しようとして四苦八苦している時こそが
著者と真に向かい合っている時で、それは知識と言うより
体験という形で刻まれると思う
体験は刻まれるが、その意味はわかるようになった時に初めて分かる
というもので、長い時間沈潜したままであることも少なくないだろう

つまりは難しい本は難しいということを実感したほうが得だということで、
長い本は長い時間をかけて読んだり、難しい本はわからないがとにかく読み終えて
しばらく放おっておいて、内的に今がその時期と思えるようになった時
再読するというのが、充実した楽しみの時間となると思う

なんでもかんでも効率と経済性を求められるが
その結果が引き起こしたものは、最近の社会の人々に余裕のない分断
昔を美化するつもりはないが、手っ取り早くいろんなことを身につける
ことのできなかった昔の方が、教養ある知識人が多かったような気がする
そして彼らがもう少し良い世界を導こうとしていたような、、、







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違和感を感じることの大切さ、わかりやすさの弊害

2025年01月20日 11時27分10秒 | あれこれ考えること

昨年の大河ドラマ「光る君へ」は、わざわざ説明しなくても
フィクションだと理解している人が多かった
道長と紫式部の関係は、歴史資料にもそれを匂わせる部分があるので
まるっきり作り事と言えないにしても
清少納言との接点はそれぞれが勤めている期間が違うので
ドラマのようなことはなかったとされている

実はドラマを楽しむのは想像の作り物を楽しむだけ
というような気持ちで向かわないといけないかもしれない
紫式部は「蛍」の中の物語論で、物語から導かれる真実は
歴史書よりも優れている面もあるとしていたが
こと感情に関わるところなどは確かにそうだとも言える

だから物語を楽しむのは、歴史的事実の把握とか理解を楽しむのではなく
人が持ちうる感情や情熱の不可思議さ楽しむべきだと思われる

だが人は自分が理解しやすいことを真実と思いたがる
兵庫県の公益通報から百条委員会、知事選、公職選挙法違反に関する告発
そして昨日報道された前県会議員の自死につながる一連の騒動は
オールドメディア対SNSと言われがちだが
むしろ事実対妄想との戦いのように思う

問題はその妄想が人の感情を強く惹きつけるという事実
特に下半身のことになると、人は結局は動物的な行動とか興味に振り回され
本質的なものは蔑ろにされるのが定番のようだ

昔、毎日新聞が大スクープをとった
西山太吉という記者が政府の人物(女性)から沖縄返還に関する秘密の条約を
聞き出してそれを表に出したのだった
ところが、そこから世論とか社会の空気となったものは(報道の量的に多かったものは)
スクープの内容自体の秘密の条約の良し悪しとか是非ではなく
この情報の聞き出し方が、記者と女性が男女関係にあり、それは倫理的に許されるか
情報の漏洩は法令違反ではないか、、という問題にすり替えられてしまった

このすり替えの世論醸成は都合が悪かった組織が意図的に行ったのかもしれない
だが、それがまんまと上手く行ってしまったという事実は
兵庫県知事選で一気に広がった県民局長の不倫の噂話の広がりを連想させる

困るのは人は何が真実かというより、自分が理解できるものを
理解したいように理解するということだ
それはいろんな情報を持って自分たちに批判的な人たちに対しては
「上から目線」の言葉でその知見をカットして受け付けない

最近、読んだ「赤松小三郎ともう一つの明治維新」では
歴史は記録と忘却によって作られるとの言葉の紹介があった
記録に残されたものはわかりやすいストーリー化され
その流れで教育され、ついには一般化される(長州中心の明治維新解釈)

ところが同時進行していたそれ以外の歴史(幕府側の民主主義の提案)などは
忘却という選択を意図的に取られてしまった

物事はわかりやすいという価値観だけで進められるのは良くないかもしれない
確かにわかりやすいことは気持ちがスッキリする
でも世の中にはわかりにくいことに満ちている
アインシュタインですら理解できなかった(認めたくなかった)
とされる量子論は勿論のこと、経済学も影響する要素が多すぎるので
再現性がなく科学ではなくむしろ信仰だとされている

わからないことを認める覚悟 
それはネガティブ・ケイパビリティとの言葉で語られるが
そうしたものは、本当に必要だと思われる

個々の人間がある問題に対して感じる違和感のようなものは
その時に自分に説明(理解)でなきなくても
後にハッと気づくこともあるだろう
肝心なのはその違和感を感じる感覚とか経験をもつということ
特にそれなりの年齢の人はそうあるべきと思う


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動画の情報提供は両者に差があるようだ

2025年01月19日 09時49分59秒 | あれこれ考えること

隣町、豊橋の新アリーナ問題は混乱の度を増して
直ぐ様には決着できる状態ではないようだ
建設反対の人たちが住民投票を求めたり
反対理由を解説する集会を通じてこまめに運動していたが
賛成派は新市長が公約通り契約解除し始めると
バスケットチームのホームグラウンドの建設の署名活動をして
それを市長に届けている

他市の人間なのでどちらに肩入れするということはなく
流行りの広報方法であるYoutubeで調べてみると
自分が調べた範囲内では反対派はいくつかの動画をアップしている
でも、推進派は自分たちの主張を解説したものは見つからない
反対派以外のYoutubeは豊橋市のゴタゴタを紹介するテレビニュースだけのようだ

この提供された情報量の差は、10年前新城市で行われた住民投票の時の
「身の丈にあった庁舎にすべし」と主張した人々のほうが
市役所機能を一体化した大きな市庁舎建設を求めた人々たちより
圧倒的に多かったのを思い出す

つまりは熱量が違った
何かを行うには熱量が必要だ
一歩間違うと熱量はおかしな結果を招くことにもなるが
新城とか豊橋のこのような例では、暴走していることもなく
常識の範囲内で情報提供は行われていると思う(兵庫県知事選のようなことはない)

ところで、新城にも豊橋にも関係のない人たちでも
以下の動画は興味を覚えると思われるが、見終わったらどのように思われるだろう

【豊橋新アリーナ:お金の話】総事業費350億円以上、複数の不正疑惑が発覚、市は運営権を失い運営費も補填、多数派議員が契約解除を妨害(ゆっくり解説)

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気持ちがはわかるけど、方法論はついていけない

2025年01月15日 13時26分19秒 | あれこれ考えること

ボケ防止の日課 頭に浮かんだのは3つのネタ
●サッカーのPK戦は何故か活躍した人が報われない事が多いことについて(高校サッカーの決勝はPK戦だった)
●選挙の投票率が上がることは良いとされていたが、少し前の兵庫県知事選を顧みると
投票率が上がると前提知識のない人々が感情に任せて行動するので必ずしも良い結果にはならない可能性があること
●日本製鉄によるアメリカのUSスチールの買収とか、セブンイレブンのカナダの企業からの買収などは
(金融)資本主義の必然的な結果の現れに過ぎないのではないかということ

どれにしようかと考えたが、今の気分で一番フィットしたのは最後の問題だった
最近のテレビは異常に保険のCMが多い
数日前のニュースでは新入社員の初任給が日本で一番の保険会社では破格の数字が算出されたとあった
企業がお金を儲ける手段は最終的には金融関係!となるのはどこか必然のように思える
例えば、江戸時代の呉服の越後屋は時を経て三井銀行に、
ソフトバンクも楽天もソニーも収入の柱として金融関係は馬鹿に出来ないし、農協も稼ぎ頭は金融関係という話もある
つまり資本主義はいずれそのような形になるということで、これは昔読んだレーニンの帝国主義論を思い浮かべた

と言っても、理解したのは大雑把には、単なる決済機関である銀行が富を蓄えるようになると
身軽な商品としてのお金は世界中にその利益を増やすように稼働するとの理解で
事細かく覚えているとか完璧に理解しているとは言えないので、昨日と同様にChatGPTに尋ねてみた

あなた:
レーニンの帝国主義論はどんな内容ですか

ChatGPT
レーニンの帝国主義論は、彼が1916年に執筆した著作『帝国主義論──
本主義の最高段階』の中で展開されており、
マルクス主義経済学に基づいて帝国主義を資本主義の発展の最終段階として分析しています。
その内容を簡潔にまとめると以下のようになります

1. 帝国主義の定義
レーニンは帝国主義を「資本主義の最高段階」とし、以下の特徴を持つ経済・政治体制と定義しました

1. 生産と資本の集中:資本の集中によって独占企業(巨大な金融・産業資本)が経済の支配権を握る。
2. 金融資本の支配:金融資本が経済の中心となり、銀行と産業資本が結びついて強力な独占体を形成する。
3. 資本輸出の重要性:商品の輸出よりも資本(投資)の輸出が重要となり、富裕国から植民地や従属国への資本流出が進む。
4. 国際的独占資本主義:独占資本が国境を越えて連携し、世界を分割する。
5. 世界の分割完了:列強による植民地分割が完成し、新たな市場や資源を求めて再分割の争いが生じる。

2. 帝国主義の経済的基盤
レーニンは、資本主義が発展すると以下の現象が生じると指摘しました

・市場の過剰化と利潤率の低下により、資本家は新しい市場を求めて国外進出を図る。
・資本輸出が新たな利潤源となり、植民地や従属国での搾取が進む。
・結果として、少数の大国が他国を経済的・政治的に支配する体制が確立される。

3. 帝国主義と戦争の関係
レーニンは、帝国主義の競争が必然的に戦争を引き起こすと主張しました
・列強の間で植民地や市場を巡る争奪戦が激化し、それが帝国主義戦争として現れる。
・第一次世界大戦を、こうした帝国主義間の矛盾が爆発した例と位置づけた。

4. 帝国主義の政治的影響
帝国主義のもとでは、次のような政治的動向が進むと分析しました
・国内では、労働者階級の分裂が進む(「労働貴族」の出現)。
・富裕国の資本家は植民地から搾取した利益の一部を自国労働者階級の一部に分配し、革命意識を低下させる。
・他方で、植民地や従属国では被支配層の貧困と抑圧が激化し、革命の条件が醸成される。

5. 革命の必要性
レーニンは、帝国主義が資本主義の矛盾を深化させるため、社会主義革命を通じてこれを打破する必要があると主張しました。
彼は特に、植民地や従属国における反帝国主義闘争とプロレタリア革命の連携を重視しました。

まとめ
レーニンの帝国主義論は、資本主義が高度に発展した結果としての帝国主義の矛盾を明らかにし、
それが世界的な不平等や戦争を引き起こすと論じています。
この理論は、帝国主義時代の現実を批判的に分析し、社会主義革命の理論的基盤を提供するものとして
20世紀の共産主義運動に大きな影響を与えました。

こうして眺めてみると、自分の理解はあながち間違っていなかったと安心したが
それでも植民地主義にいたるところは、すんなりとはいかなかった
お金が世界中に出回るようになるのはわかるが、植民地とか国家間の紛争に云々はどこか飛躍があるように思えたのだった
でもお金が世界中に出回るようになると、その事業を運営する国の人間も必然的に世界中に出かけることにある
その人数は多いか少ないかわからないとしても、国はその人達の安全を守るという理由で武力をもった組織を
移住させることもある
そしてそれが先進国から見れば遅れた社会を植民地化することになる
利益を生むのは生産コストが低いほうが良いので、今でも見られるが不公平な貿易とか賃金体系(搾取)が行われてしまう
そしてこれは時が経って今でも少なからず、いたるところで見られるような気もする

問題はマルクスもそうなのだが、社会・現状分析までは理解できるのだが
その先の解決方法としての革命については、大きな武力衝突が生まれるだけに共感できないところがある

のんびり構えてなどはいられない、とする切実感はわからないでもないが
もう少し穏やかな方法はないものか、、と個人的には思う

変わるとき、変えるときは一気に変えるのが良いのか、それとも徐々に変化するほうが良いのか
結局はその実効性はどちらが良いのかと言う問題に行き着きそうだが
そこからの判断は個人の生き方とか育ち方で変わってきそう
でも、できるだけ武力衝突がないことが個人的には最善の方法だと思う

いつも思うが、社会に関して田舎のおっさんがこうした考えを持っているとしても(投稿しても)
それはどのような意味があるかは全く不明どころか、意味ないことかもしれないとは思う
でも、そうした方が良いとは何となく思えている
それは自分で自分を褒めることにつながっている
(自分が褒めなきゃ誰も褒めてくれないし)

 

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MMTとゲームの理論を〇〇に聞いてみた

2025年01月14日 08時47分30秒 | あれこれ考えること

解らないことは残念ながらたくさんある
量子力学とか相対性理論とか、音楽の対位法とか和声法とか
経済学のMMTとかゲームの理論とか
つまりは世の中は知らないことだらけだ

わかっているのは自ら経験した身の回りの些細なことだけ
これが実態なのかもしれない
でも悔しいので、少しは分かった気になりたいというのも本音

そんな時に便利なのがチャットGPTで、
その答を盲信してはいけないと注意しながら、いろんなことを聞いてみた
まずはMMTについて
(ザイム真理教とか山本太郎さんに通じる話と勝手に思って調べた)

問 MMTとは何ですか この理論の不安なところは何ですか
答 数秒後にスラスラと出てきた

**MMT(Modern Monetary Theory、現代貨幣理論)**は、国家の財政政策に関する経済理論の一つです。この理論は、特に通貨発行権を持つ政府(自国通貨を発行できる政府)の財政運営において、新たな視点を提供するものです。以下、MMTの基本的な主張と、その懸念点を説明します。


MMTの基本的な主張

  1. 政府は自国通貨を発行できるため、財政赤字は必ずしも問題ではない

    • 政府は税収や国債の発行に依存せず、必要であれば通貨を新たに発行することで支出を賄うことができる。
  2. 財政赤字は民間セクターの資産になる

    • 政府が支出(赤字)を増やせば、その分だけ民間の資産が増加する。これにより経済全体の需要を刺激できる。
  3. インフレが制約条件

    • 政府支出の拡大には制約があり、それは「インフレの加速」。つまり、需要が供給を超えた場合にインフレが進むことが最大のリスクである。
  4. 税金は主にインフレ調整や富の再分配のためにある

    • 税金は政府の支出資金を調達するためではなく、経済全体の需要をコントロールしたり、所得の不平等を是正するために使われる。

MMTへの批判・不安な点

  1. インフレリスクの過小評価

    • MMTは「インフレが起きるまで政府支出を拡大できる」と主張しますが、実際にインフレを適切に予測し制御するのは非常に難しいです。インフレが加速し始めた場合、それを抑えるために適切な政策を迅速に実行できるかどうかが疑問視されています。
  2. 市場の信頼の喪失

    • 通貨発行の拡大が過剰になれば、通貨の信頼性が低下し、為替市場で通貨の価値が大きく下落するリスクがあります。特に、海外資本に依存する国では影響が大きいとされています。
  3. 政治的リスク

    • MMTの考え方では政府支出を大幅に拡大することが可能ですが、これが政治的に悪用される可能性があります。必要以上の支出や人気取りの政策が採用されることで、経済の安定が損なわれるリスクがあると指摘されています。
  4. 国際的な影響

    • 通貨発行権がある国であっても、グローバルな経済環境や外国との貿易における信頼関係が影響を受ける可能性があります。例えば、自国通貨の価値が下がれば輸入品の価格が上昇し、国民の生活水準が低下するリスクがあります。
  5. 実証的エビデンスの不足

    • MMTの理論は学術的には注目されていますが、実際に長期的に成功した例が少なく、その有効性や限界が不確定です。

MMTは従来の経済理論とは異なるアプローチを提案しており、特に不況時の財政政策において議論を呼んでいます。ただし、その実用性やリスク管理の面での懸念が依然として強く、これを全面的に採用することには慎重な意見が多いのが現状です。

ゲーム理論とは、複数の意思決定者(プレイヤー)が関与する状況において、それぞれが自分の利益を最大化しようと行動した場合にどのような結果が生じるかを分析する数学的な理論です。経済学、政治学、心理学、生物学など、さまざまな分野で利用されています。


ゲーム理論の基本概念

  1. プレイヤー

    • ゲームに参加する意思決定者。個人や組織、国などが該当します。
  2. 戦略

    • プレイヤーが選択できる行動や意思決定のルール。
  3. 報酬(利得)

    • プレイヤーが選択した戦略の結果として得られる利益や結果。
  4. ナッシュ均衡

    • すべてのプレイヤーが自分の戦略を変更することで得られる利得を最大化できない状態。つまり、どのプレイヤーも一方的に戦略を変えても状況を改善できない均衡点。
  5. ゼロサムゲームと非ゼロサムゲーム

    • ゼロサムゲーム:一方のプレイヤーの得点が他方の損失と正確に一致する場合(例:チェス)。
    • 非ゼロサムゲーム:プレイヤー間の利益や損失が必ずしも相殺しない場合(例:国際貿易)。

代表的なゲーム理論の例

  1. 囚人のジレンマ

    • 2人の囚人が協力するか裏切るかを選択するゲーム。両者が協力すれば最善の結果を得られるが、個々の利益を優先すると結果的に双方が損をする。
  2. チキンゲーム

    • 2人のドライバーが正面衝突する可能性がある状況で、どちらが先に道を譲るかを決めるゲーム。譲らないことで大きな損害を受けるリスクがある。
  3. ハトとタカのゲーム(進化ゲーム理論)

    • ハト(協調的戦略)とタカ(攻撃的戦略)の間での競争をモデル化し、進化的に安定な戦略を分析する。

ゲーム理論の応用分野

  1. 経済学

    • 企業の価格競争、オークションの設計、取引交渉などで活用。
  2. 政治学

    • 国際関係や軍事戦略(例:核抑止理論)における意思決定。
  3. 生物学

    • 動物の行動や進化の分析(例:捕食者と被食者の関係)。
  4. 人工知能(AI)

    • マルチエージェントシステムや意思決定アルゴリズムの設計。

ゲーム理論の限界や課題

  1. 現実の複雑性の簡略化

    • モデルは現実を単純化しているため、すべての要素を考慮することは困難。
  2. 完全合理性の仮定

    • プレイヤーが常に合理的に行動することを前提としているが、実際には感情や情報の不完全性が影響を与える。
  3. 動的状況の考慮

    • 多くのゲーム理論モデルは静的な状況を分析するが、現実では時間経過による変化が重要。

ゲーム理論は、複雑な意思決定や相互作用を理解するための強力なツールですが、現実の状況に適用する際にはその限界や仮定に注意が必要です。

これは少しかじった時、結局は自分だけの利益を選択するより多くの人の利益を選択するほうが
効率が良いというか、利益も多い!とあって、そりゃそうだと妙に納得したような記憶があったが
これを国益優先とするトランプさんとか、他の国の同様な政策をしたがる人は
どのように理解するのだろうか?と気になってしまう

それは、なまじっかいろんなことを知ってしまうと何もできなくなる
知らないものの強みで暴走したほうが一時的に得をする可能性は十分ある
と考える人は存在するだろう
でも、理論ではそれは多分短期間だけでしっぺ返しを食らうとでていたような記憶がある


やはり人間社会ではモラルとか倫理観とかこうした人間性に依存するブレーキが必要と想像するが
今の世の中はあるでブレーキのない列車のようだ

確かに何かを知るということは慎重になりブレーキをかけたがる傾向はあるだろう
でも、それでも何かを知るということは、知らないでいることより価値あることだと思う

さて今日は何が言いたかったのか?
ただ吐き出したいだけだったのか

 

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なぜなのだろう(しらんけど)

2025年01月13日 09時36分03秒 | あれこれ考えること

大阪でよく使われる「しらんけど!を、前もって宣言しておくが
なんだか変だなと感じることが昨日あった
それは地区の公民館で行われた市議会議員と国会議員との
「共産党と政治を語る会」を見聞きしたあとに湧き出た思いだ

自分は共産党員ではない、実際に滅多なことでは共産党に投票しない
だが市議会議員A氏の活動にはいつも驚きと一種の感謝を覚える
弱者とか運悪く恵まれない人たちに対する思いとか
行政の理不尽な判断とか行為に対して丁寧な調査による批判とか
こうあって欲しいという未来への提案は納得できるものだ
市議会議員だけでなく国会の中継を見れば共産党の議員の質問は
その質の高さは際立っていて、今の日本の問題点がわかってくる

そしてその印象は昨日の会合でも同じような印象をもてた
国会議員も市議会議員もまずは人間として、自然と湧き上がる
同情とか怒りに対して政治的な解決法とか問題指摘が行われた
(そして会合に来ていた一般社会人の党員の方々も真面目な質問を行った)

会が終わって全体を通しての印象は「真面目な人達だなあ」ということ
だがそこで不思議に思ったのは
何故この人たちが多くの支持を得られないのだろうか?
という疑問だった(前回の選挙は芳しい結果とは言えなかった)
それは別の党の人間だが小川淳也氏を映画監督の大島新氏が見続けていて
「クソ真面目なこの人が何故こんなに苦労しなければならないのか?
 何故、報われないのか?」という疑問を覚えたのと同じだ
(「なぜ君は総理大臣になれないのか」という映画のきっかけは
 この思いだったそうだ)

しらんけど!と自信をもって表にするが、マルクスの「資本論」は
その内容の多くは有名な剰余価値とか搾取の記述ではなく
貧困に悩む人々への共感とそれを許している社会への怒りだそうだ
そこにはジャーナリストとしてのマルクスの面目躍如らしい
(読んでないので、らしいとしか表現できない)

なぜか報われない人々
そういう人たちが世の中には存在する
そして悲しいことにそれは真面目故に報われないのかもしれない
とさえ思えてきた
今の世の中は権威主義が、つまりは強いものが弱いものを支配し
それが持続している世の中に思えるし、そこには真面目さとか人間的要素より
立場をわきまえた処世術に長けることと、その場しのぎの弁舌の巧みさが
必要とされているような気がしてならない

多分、共産党にも広がりを実現出来ない致命的な何かがあると思われる
それが何か?を考えるのは当事者たちとなるが
それでも彼らの真面目さ人間ぽいところを見ると
もう少し報われても良いような気がしてならない

人間、歳を重ねると保守的になると言われ
自分にも確かにその傾向はあるかもしれないが
それでも変だなと思えることには正直に向かい合いたい

まとまらない話








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毎日行うこと、作り続けることは難しい

2025年01月11日 09時19分33秒 | あれこれ考えること

バッハもモーツァルトも多作だった
創作意欲に富んでいたというよりは依頼されて作ったものが多い
バッハは教会から、モーツァルトは貴族などから
それぞれジャンルを指定されて職人として音楽を生み出した

多作ということは一つの才能だと思うが
これが自発的に可能かと言えばそれはなかなか難しい
このボケ防止の日課も、あっという間にネタが尽きる
そしてネタ探しに四苦八苦する

だから週ごとのテーマを決めて実行するとか、
新聞記事からの寸評とか読書の感想を定期的にするとか
つまりは機械的に行う方法も一つの手段だ

毎日の献立に困る女性は、機械的にローテーションする
メニューを決めておくのも賢い方法とされているが
その日になって、そのメニューでは気分が乗らない
ということもあるので、考えておいたほど実践的ではないようだ

多作を可能にするにはテクニックが必要だと思う
バッハは無尽蔵に音楽を作り出したというよりは
一種の作曲のパターンを身に着けていたようだ
作曲のパターンと言うよりはメロディの作り方の方法が
技術論で処理されているような気がする

バッハの音楽(メロディとかモチーフ)の変形の仕方は
ジャズのそれに似ているといつも思う
それと比べるとモーツァルトは、多少パターン化された癖があるかもしれないが
気の向くまま感情の赴くまま生まれている気がする

クラシック音楽のもう一人の大物ベートーヴェンは
本質的には思索をイメージさせる音楽だが
ときに意外とメロディメーカーを思わせることがある
(これはジョン・レノンの音楽を連想する)

ということでベートーヴェンを除いて、多作の要因は
他人からの依頼が必要ということだ
尤も、現代社会でも出版社から依頼があった故に多作だった人もいた
松本清張は一時期いくつもの作品を同時進行して
書き続けていたらしい(話が混乱してしまわないのは凄い)

そしていつもそうした人の行動で驚きを覚えるのは
一発で完成原稿に近いものを作成する能力で
三島由紀夫などの原稿用紙はすごく綺麗だったのを
見た記憶がある

ベートーヴェンみたいに一つ一つ手直ししていたら多作は不可能だ
ただし、ベートーヴェンの手直しは完成品の完成度からすれば
そういう過程が必要不可欠だったといえる

つまりは個人の性格とか特徴によって音楽も小説も完成していく
ということなのだが、それでも適度な創作のきっかけは
誰にでも必要なんだろうなとは思う

自発的にとか内的ななにかに動かされて創作するというのは
実はなかなか難しいと思えるこの頃

いつものまとまらない話

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「上司の職務上の命令」の有り無し

2025年01月05日 09時47分53秒 | あれこれ考えること

兵庫県知事選とか豊橋市長選を眺めていると首長というのは
想像以上に大きな権力を持っていると実感する
地方自治体は二元代表制で首長、議員がそれぞれが市民から
独立して選ばれるので同等の力を持つと思われがちだが
実態は首長の権限のほうが圧倒的に大きい
それは大統領のような感じで、驚くべきことに県警等の予算は
知事の裁量の範囲だそうだ
(だからこそ斎藤知事の告発の場所は神戸地方検察庁と
 兵庫県警察本部に分かれているらしい)

以前、ここで首長に従う公務員のメンタリティというか
働き方についてあれこれ考えたことがあったが
今になって何となくわかった気になれたことがあった

以前考えたことは公務員の宣誓書のことで、新城市では
公務員になったときに以下のような宣誓書を提出する

「わたくしは、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し
 かつ、擁護することを誓います。
 わたくしは、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に
 運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実かつ公正に
 職務を執行することを誓います。」 

なんてことない文章だが、これを国家公務員のそれと比べると
その違いが気になる 国家公務員のほうはこうだ

「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。

自分が気になったのは、国家公務員の方に見られた(上司の職務上の命令に従い)の文章が地方自治体の方にはないことだ

この宣誓は国家公務員法とか地方自治法に由来するものらしいが
そこには大きな違いはなく、これらの法には(上司の職務上の命令に従う)
という言葉は見られる
つまりは、何故か地方自治体の宣誓文だけ(上司の職務上の命令に従い)が
抜けている

それは何故なんだろう?というのが以前の疑問だった
だが、それから時間が経って、社会のいろんな現実の出来事を眺めるにつけ
この言葉の有り無しの理由が何となくわかった気がした

それは冒頭に挙げた首長の権力の強大さに由来することで
公務員が没個性的に(感情のない非人間的に)業務に携わるだけだったら
それは時として大きな間違いを起こしかねないと想像したからではないか

もう少しわかりやすく言えば公務員も、人としての良心とか倫理観とか
そうしたものの上にたって行動せず、単なる命令を実行するだけだったら
権力を持った人物は何事もできてしまうことになる
(それは一歩間違うと法体系に沿っているからの一言で暴走できてしまう)

だからこそ公務員は個人として(常識的・倫理的)の判断も必要で
その証として(上司の職務上の命令に従い)が抜けているのではないのか

と、まあ毒にも薬にもならないことを想像してみたが
最近の世界は緩やかな独裁を望んでいるような傾向があるだけに
それに対する抵抗として、取り上げてみた

最近は、法的に問題ないとされているが、人道的・倫理的にどうか
と思われることが、多すぎはしないだろうか






 

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1月2日

2025年01月03日 08時47分27秒 | あれこれ考えること

昨日ボケ防止の日課、今年2回目をアップしようとしたら
管理画面から少しも動かない
写真のアップもできない
さては、、
とgoo絡み(NTT絡み)でなにか起きているかと検索すると
豈図らんや、どうやらサイバー攻撃に遭っているらしかった

そんな兆しはすでにあった
普段はあまり閲覧する人の多くない自分のページが
ここ数日、規則性のない時間に急激に増えていた
なんでだろう?
そんなに受けることは書いていないのに、、
と思ったが、これで納得した

つまりは、攻撃対象になっていたということだ
そういえば前年もこの時期あったような印象がある
つくづく世の中には変な人がいるものだと思う

昨日は初詣に鳳来寺山に出かけた
どうせなら「どうする家康」の年にいけばよかったのだが
そうでないところがどこか抜けている自分らしい

十年以上前に訪れただけの鳳来寺山の東照宮
駐車場は予想外の金額1,100円
繁忙期は高い価格設定になっている
(そういう世界だ)

駐車場から東照宮まで歩いている途中でお隣さんに出会った
教員をしていた方で退職後にいろんなところで働いていて
最近は鳳来寺山の駐車場の料金所にいるとは聞いていたが
ここで年始に会うとは!
聞くところによると勤務は6時までとか
結構長い時間で退屈しそう、、と余計な心配をしてしまう

道の途中、高いところからの写真を撮ってみた

こうした光景を見ると、もっと高い山に登っていた頃を思い出す
槍ヶ岳から雲海が「雲の海」という状態で見られた朝の時間
京都の龍安寺の石庭は雲海の中に浮かぶ山をイメージしたが
今はもうそうした光景は生では見られない
(体力不足と腰痛で登山はできない)

仕方ない、、と思いつつ東照宮へ

家康のお母さんの於大の方が鳳来寺山に子を授かるように祈ったところ
寅年に家康が生まれたと説明の看板に書かれてあった
でもちょいと地味な印象は拭いきれない

自分が来た頃(10時くらい)は駐車場はスキスキだったが
帰ることには満車状態になっていた

自宅に着く前に、桜淵公園の左岸でで行われているバイクのイベント
ニューイヤーミーティングの様子を見に行った
相変わらずのバイクの台数
バイク好きが勝手に集まって
勝手にバイクの話とか共通の話題で盛り上がるイベント
同じような感性の人と話すのは楽しいだろうな(と想像がつく)

ということで、午後に親戚が集まった何かと忙しかった1日
いきなり日課ができなくなった2日はこんな風に過ぎていった

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怖いのは大衆(民意)

2024年12月30日 09時14分23秒 | あれこれ考えること

なぜドイツ国民の多数はナチスを支持しあのような結果を招いてしまったのか
なぜドイツ国民はユダヤ人の虐殺をしてしまったのか
これらの事件に対してその根本的な原因を探るべく力を注いだのが
フロムの「自由からの逃走」とハンナ・アーレントの「全体主義の起源」
両者ともすぐに理解できるような著作ではなく理解には一苦労する
だがその著作の動機は必死さに溢れているかのように見える

今のうちに原因究明等に真剣に取り組んだほうが良いと思われることは
現在の日本にもありそうだ
今年自分的には一番ショックだったのは
都知事選、兵庫県知事選における大衆の動きだった
それは安易にオールドメディア対SNSの覇権争いという言葉で
説明できるほど簡単ではないと思う

少し客観的に見ればとても信じられないようなことが
何故か熱気を持って受け入れられ、それが民意の結果だとされてしまった2つの出来事
それは大衆は必ずしも理性的ではないことを証明してしまったかのように見える

ただ多数としての民意(石丸支持、斎藤支持)をこのように批判すると
頭ごなしにオールドメディアの洗脳されていると断定的に言い切る人の多いこと多いこと
それは自分にはとても恐ろしいことのように思えて仕方ない

自分が一番恐れるのは石丸氏でも齋藤氏でもない
自分好みの情報に頼って、自らは正義をなしているように思い込んでいる人たちの存在
それが不気味で仕方ない

そしてそれらはかつて日本が戦争へと進んだ過程を何処か思い起こさせる
昔読んだ「戦争と新聞」だったか「太平洋戦争と新聞」のどちらだったか忘れたが
ショックだったのは、国際連盟を脱退した松岡洋右が帰国したときの
日本国内の歓迎ぶりとそれを伝える新聞の興奮気味の記事
それは今から見ると異様としか思えない

今年の出来事を振り返ることのできる未来の人々は
なぜ、あんなモノに振り回されてしまったのだろうか?
と思うのではないだろうか

年の終わりのこの時期に、こんなことが頭に浮かんで不安を感じるのは
きっと良いことではない思う
でも、気づいてしまったのは仕方ない
なにかすべきことをする、、それが気づいてしまった人間の責任かもしれない



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