パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「上司の職務上の命令」の有り無し

2025年01月05日 09時47分53秒 | あれこれ考えること

兵庫県知事選とか豊橋市長選を眺めていると首長というのは
想像以上に大きな権力を持っていると実感する
地方自治体は二元代表制で首長、議員がそれぞれが市民から
独立して選ばれるので同等の力を持つと思われがちだが
実態は首長の権限のほうが圧倒的に大きい
それは大統領のような感じで、驚くべきことに県警等の予算は
知事の裁量の範囲だそうだ
(だからこそ斎藤知事の告発の場所は神戸地方検察庁と
 兵庫県警察本部に分かれているらしい)

以前、ここで首長に従う公務員のメンタリティというか
働き方についてあれこれ考えたことがあったが
今になって何となくわかった気になれたことがあった

以前考えたことは公務員の宣誓書のことで、新城市では
公務員になったときに以下のような宣誓書を提出する

「わたくしは、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し
 かつ、擁護することを誓います。
 わたくしは、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に
 運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実かつ公正に
 職務を執行することを誓います。」 

なんてことない文章だが、これを国家公務員のそれと比べると
その違いが気になる 国家公務員のほうはこうだ

「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。

自分が気になったのは、国家公務員の方に見られた(上司の職務上の命令に従い)の文章が地方自治体の方にはないことだ

この宣誓は国家公務員法とか地方自治法に由来するものらしいが
そこには大きな違いはなく、これらの法には(上司の職務上の命令に従う)
という言葉は見られる
つまりは、何故か地方自治体の宣誓文だけ(上司の職務上の命令に従い)が
抜けている

それは何故なんだろう?というのが以前の疑問だった
だが、それから時間が経って、社会のいろんな現実の出来事を眺めるにつけ
この言葉の有り無しの理由が何となくわかった気がした

それは冒頭に挙げた首長の権力の強大さに由来することで
公務員が没個性的に(感情のない非人間的に)業務に携わるだけだったら
それは時として大きな間違いを起こしかねないと想像したからではないか

もう少しわかりやすく言えば公務員も、人としての良心とか倫理観とか
そうしたものの上にたって行動せず、単なる命令を実行するだけだったら
権力を持った人物は何事もできてしまうことになる
(それは一歩間違うと法体系に沿っているからの一言で暴走できてしまう)

だからこそ公務員は個人として(常識的・倫理的)の判断も必要で
その証として(上司の職務上の命令に従い)が抜けているのではないのか

と、まあ毒にも薬にもならないことを想像してみたが
最近の世界は緩やかな独裁を望んでいるような傾向があるだけに
それに対する抵抗として、取り上げてみた

最近は、法的に問題ないとされているが、人道的・倫理的にどうか
と思われることが、多すぎはしないだろうか






 

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1月2日

2025年01月03日 08時47分27秒 | あれこれ考えること

昨日ボケ防止の日課、今年2回目をアップしようとしたら
管理画面から少しも動かない
写真のアップもできない
さては、、
とgoo絡み(NTT絡み)でなにか起きているかと検索すると
豈図らんや、どうやらサイバー攻撃に遭っているらしかった

そんな兆しはすでにあった
普段はあまり閲覧する人の多くない自分のページが
ここ数日、規則性のない時間に急激に増えていた
なんでだろう?
そんなに受けることは書いていないのに、、
と思ったが、これで納得した

つまりは、攻撃対象になっていたということだ
そういえば前年もこの時期あったような印象がある
つくづく世の中には変な人がいるものだと思う

昨日は初詣に鳳来寺山に出かけた
どうせなら「どうする家康」の年にいけばよかったのだが
そうでないところがどこか抜けている自分らしい

十年以上前に訪れただけの鳳来寺山の東照宮
駐車場は予想外の金額1,100円
繁忙期は高い価格設定になっている
(そういう世界だ)

駐車場から東照宮まで歩いている途中でお隣さんに出会った
教員をしていた方で退職後にいろんなところで働いていて
最近は鳳来寺山の駐車場の料金所にいるとは聞いていたが
ここで年始に会うとは!
聞くところによると勤務は6時までとか
結構長い時間で退屈しそう、、と余計な心配をしてしまう

道の途中、高いところからの写真を撮ってみた

こうした光景を見ると、もっと高い山に登っていた頃を思い出す
槍ヶ岳から雲海が「雲の海」という状態で見られた朝の時間
京都の龍安寺の石庭は雲海の中に浮かぶ山をイメージしたが
今はもうそうした光景は生では見られない
(体力不足と腰痛で登山はできない)

仕方ない、、と思いつつ東照宮へ

家康のお母さんの於大の方が鳳来寺山に子を授かるように祈ったところ
寅年に家康が生まれたと説明の看板に書かれてあった
でもちょいと地味な印象は拭いきれない

自分が来た頃(10時くらい)は駐車場はスキスキだったが
帰ることには満車状態になっていた

自宅に着く前に、桜淵公園の左岸でで行われているバイクのイベント
ニューイヤーミーティングの様子を見に行った
相変わらずのバイクの台数
バイク好きが勝手に集まって
勝手にバイクの話とか共通の話題で盛り上がるイベント
同じような感性の人と話すのは楽しいだろうな(と想像がつく)

ということで、午後に親戚が集まった何かと忙しかった1日
いきなり日課ができなくなった2日はこんな風に過ぎていった

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怖いのは大衆(民意)

2024年12月30日 09時14分23秒 | あれこれ考えること

なぜドイツ国民の多数はナチスを支持しあのような結果を招いてしまったのか
なぜドイツ国民はユダヤ人の虐殺をしてしまったのか
これらの事件に対してその根本的な原因を探るべく力を注いだのが
フロムの「自由からの逃走」とハンナ・アーレントの「全体主義の起源」
両者ともすぐに理解できるような著作ではなく理解には一苦労する
だがその著作の動機は必死さに溢れているかのように見える

今のうちに原因究明等に真剣に取り組んだほうが良いと思われることは
現在の日本にもありそうだ
今年自分的には一番ショックだったのは
都知事選、兵庫県知事選における大衆の動きだった
それは安易にオールドメディア対SNSの覇権争いという言葉で
説明できるほど簡単ではないと思う

少し客観的に見ればとても信じられないようなことが
何故か熱気を持って受け入れられ、それが民意の結果だとされてしまった2つの出来事
それは大衆は必ずしも理性的ではないことを証明してしまったかのように見える

ただ多数としての民意(石丸支持、斎藤支持)をこのように批判すると
頭ごなしにオールドメディアの洗脳されていると断定的に言い切る人の多いこと多いこと
それは自分にはとても恐ろしいことのように思えて仕方ない

自分が一番恐れるのは石丸氏でも齋藤氏でもない
自分好みの情報に頼って、自らは正義をなしているように思い込んでいる人たちの存在
それが不気味で仕方ない

そしてそれらはかつて日本が戦争へと進んだ過程を何処か思い起こさせる
昔読んだ「戦争と新聞」だったか「太平洋戦争と新聞」のどちらだったか忘れたが
ショックだったのは、国際連盟を脱退した松岡洋右が帰国したときの
日本国内の歓迎ぶりとそれを伝える新聞の興奮気味の記事
それは今から見ると異様としか思えない

今年の出来事を振り返ることのできる未来の人々は
なぜ、あんなモノに振り回されてしまったのだろうか?
と思うのではないだろうか

年の終わりのこの時期に、こんなことが頭に浮かんで不安を感じるのは
きっと良いことではない思う
でも、気づいてしまったのは仕方ない
なにかすべきことをする、、それが気づいてしまった人間の責任かもしれない



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宣誓内容と黙秘権 

2024年12月28日 08時50分00秒 | あれこれ考えること

裁判の証人尋問も百条委員会の証人喚問も、それが行われる前に
宣誓を行うことになっている
兵庫県の百条委員会でも前副知事の片山さんが用意された文章を
読み上げ署名捺印した
宣誓した内容は
「良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,また何事も付け加えないことを誓います」

嘘を言ったり証言を拒んだりすると刑事罰に問われることも
委員長から示されている

ぼんやりとYoutubeを見ていただけなので自信を持って言い切れないが
片山氏とは違う県職員の人証人喚問のときに、(彼も宣誓したのだろうと思っているが)
彼は宣誓文に反する行いをした
その質問は、県の内部文書が漏れたことついて、そのデータを持っているのは
証人との声があるが、そのような行為をしたのかどうかを聞いたとき彼は
答えることを拒んだ
訴追される可能性のあることだから話せない、、というのだ
これは宣誓文の「何事も隠さず」の部分と相反している

多分これは黙秘権というものだろうが、こうした尋問・喚問が行われるときに
片方はちゃんと話さないと法的な罰を受けると言い
片方は不利となることは話さなくても良いとしている
法的なことに明るくない自分は、いったいどっちが優先するのか?
と単純に思ってしまい頭が混乱してしまう

想像するに、百条委員会等の法的罰を受ける云々の法体系と
黙秘権の法体系はそれぞれが独立して出来上がっていて
その両者を一緒にして考えられてはいないのではないか

国会の政治倫理審査会でも「言わない」と心に決めている人に
いくら本当のことを話すように説いても無駄に終わり
残るのはモヤモヤ感だけとなる

宣誓はしても、その通りに行われるとは限らないのが人間社会の常で
世の中は残念ながらこうした例は多い
だからこそ法的には問題はないとされているが
倫理的には違和感が多いことが頻発する

何かがおかしいと思えて仕方ないが、残念ながら何がおかしいくて
どうすればいいかはわからない
それ故にストレスが溜まりそうだ

ところで同じように一体どっちが本当なのだろう?と思えることがある
豊橋市のアリーナ建設に関するゴタゴタで、建設中止を訴えて立候補した新市長は
公約通り当選後に進行中の工事契約解除の手続きに入った
新市長は念の為に、法務に市長権限でそれができるのか?と聞いたようだ
法務の答えはできるということで、契約解除手続きにはいったらしい

自分は違約金が発生するから、議会の承認が必要なのでは?と思ったが
市議会議員経験者の方から、工事契約の予算を市議会で可決したということは
契約書内に存在する契約破棄の場合も認めているということで
その契約書にある破棄の手続きで行えば問題ないと解説された

なるほど、だから法務は市長権限でできると答えたのか
と勝手に思っていたら、26日にとんでもないことが起きた

アリーナ推進派、反対派から住人投票案がだされ
問題はその投票日がいつになるかの問題だけと思っていたら
なんと住民投票は実施されないことになった
推進派が住民等法案を取り下げたのだ
そして多数派を占める議会内の推進派は
次には反対派が議案提案した住民投票案を否決した

ことはそれだけで終わらず、26日の夜中まで続いた豊橋議会では
違約金の支払い(承認)には議決が必要とする提案が出され
それが可決したというのだ
(当然ながら議会は違約金の承認はしないと想像できる)

ここで冒頭の「ちゃんと話せ!」と「黙秘権」が重なった時は
どうしたら良いのかとの同じような疑問が浮かんだ
議会は契約解除の方法とかを含めて工事委託会社と結んだ契約を議決した
市長が契約解除の方法に手続きに則って作業を進めようとすると
費用の承認には議決が必要と言い出した
このような場合、法はどういったことになっているのだろう
(議会は以前の議決責任を考えて行動したのだろうか?)

ただ言えることは、法的な問題のように思われるこれらのことは
現実的には政治的な力関係の戦いに見えてしまうことだ
どちらが豊橋市のために良いか?
ではなく、どちらが実態として力を持っているか、、
を問うような流れになっているみたいだ

隣町の豊橋市、
来年もこの混乱が続きそう
お互いが理性的に対応するのは難しいことなのだろうか








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ステレオタイプ

2024年12月26日 16時16分14秒 | あれこれ考えること

女性は理数系に弱い
血液型がB型の人は個性的な人が多い
これらはステレオタイプの例としてよく挙げられる

ステレオタイプはリップマンが「世論」の中で使った言葉で
多くの人に浸透している思い込み、先入観、固定観念のこと
問題はそれを信じる人が多いと、まるで事実のように思われてしまうことだ

現在、一番ステレオタイプの解釈がなされているのが
オールドメディアは嘘とか偏向が蔓延していて
SNSの中にこそ真実があるという考え方ではないだろうか

兵庫県知事選とか石丸氏に関してネット上にアップされるコメント
その中には「オールドメディアだから信用できない」
と無条件に断言しているものが多い

でも、そうだろうか?
冷静に振り返ってみるとそうばかりとは言えないのではないか
そもそもオールドメディア対SNSとの対立させて考えるのはいかがなものだろうか
ある人が呟いていたが、実は「本当のことと嘘のことの戦い」に過ぎないのではないか

オールドメディアの一つ、例えばテレビは嘘が報じられると
チェックが入りその放送局は謝罪と説明がもとめられる
ところが匿名のSNSは流しっぱなしで誰も責任を負わない
SNSでいちばん大事なのは閲覧数で、その数を稼ぐためには
(その数が収入源となる)
ひとの感情を刺激する負の部分の上手く活用している

比較の上で、どちらのほうが信用するに値するか?
を考えると、SNSの中に真実があるととは無邪気に言えない気がする

それでも現在は、「SNSの中にこそ真実がある」の主張は
かなりの数の支持を得ているようだ
そしてこのセリフは、黄門様の印籠のような使い方をされている

田舎のおっさんが心配するのはこの部分だ
世の中に蔓延するステレオタイプの解釈
その解釈を十分検証することなく安易に信じてしまうだけでなく
それを広めてしまう
そこには熟慮の過程が抜けている気がしてならない

ところでネット検索をしているとステレオタイプの特徴は以下のようだと紹介されている

・過度に単純化されていること
・不確かな情報や知識に基づいて誇張され、しばしばゆがめられた一般化・カテゴリー化であること
・好悪、善悪、正邪、優劣などといった強力な感情を伴っていること
・新たな証拠や経験に出会っても、容易に変容しにくいこと

いちいち頷くことが多く、それだけに不安は増すばかりだ

人は人を信用するのは良いが、適度に疑うことも必要だと思う
半ば常識となっていることも、本当にそうだろうか?
と疑ってみることも今の時代は特に必要と思える

「嘘も100回聞くと真実になる」という有名な言葉は
物事をよく知っている人には通じないそうだ
願わくば、一人ひとりが賢くなっていけば良いのだが





 

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多数派の中にいることで自信を持ってはいけない

2024年12月22日 09時41分43秒 | あれこれ考えること

何かの本で日本人の行動傾向を他国と比べたものがあった
それは行動の動機づけに関することで
イギリス人はその行動をすると勇敢だと思われるから行動し
ドイツ人はその行動は法的に定められているから行動するのに対し
日本人はみんながそうしているから同じようにする
と自虐的に紹介したものだった

日本人は確かにみんながやっているというものに弱い
流行りの食べ物とか写真映えのするスポットに行くとか
その他探せばもっといろいろ出てきそうだ

それはちょいと真剣な政治的な部分でも同様で
今では103万円の壁というキャッチーなことを取り上げた
国民民主党が評判になっている
そこから更に深い議論とか政策に結びつけば良いのだが
庶民にはあちこちに影響する話は難しいために
理解は初期段階に留まっている
そしてイメージとしてのみんなが理解しているとか
行動していることに従ってしまう

みんながそう思っているというのは悪用されやすい
例の問題が多い兵庫県知事選についてある新聞記事が話題になっていた


選挙後半になると多くの人が集まり異様な熱気を帯びた斎藤さんの街宣活動
その中には県外の40代の男性が多くきていたという調査の紹介だ
スマホの位置データからどんな人がどんな演説を聞いていたかを調べたものだが
記事タイトルにあるように県外の京都、大阪から40歳以上の男の人が来ていたらしい
気になるのは斎藤さんの街宣が終わっても集団はその場所から立ち去らなかったそうだ
それは斎藤さんの後は立花孝志氏が続いて街宣をおこなったからで
この立花さんの街宣は奇妙なほど斎藤さんのすぐ後同じ場所で行われることになっていた

ここで怖いのは、日本人のみんながやっていること思っていることに弱い傾向を
戦略として利用することがありうることだ
自分自身は確固たる自信はないが、みんながやっている(思っている)というだけで
自分に自信が持てるようんな気になってしまう
それはある意味プロパガンダに載せられていることだが
深刻なのはそれをそう感じない人が大半ということだ

数が多い方に流れる(従う)というのは
オルテガの「大衆の反逆」によれば、実は日本人だけでなく
そもそも大衆というのはそういうものだと説いている

だからこそ「民意」というものは危なっかしいものだと思う
最近「民意は正しい」と無邪気に思い込む人がいるが
「民意は正しいとは限らない」という事実は
過去の歴史から学ぶことができる
(例えばヒトラーを選挙で選んでしまったドイツなど)

昨今はオールドメディア対SNSとの戦いと一括りで語られることが多いが
すでに何人かの人が説いているようにオールドメディア対SNSとか
左派対右派の対立ではなくて、本当のこととデマとの戦いなのだと思う
問題は、感情を刺激するデマは、理解に時間を要する本当のことより
伝わりやすく、結果的に多数派を生じやすいといういこと
そして多いというだけで信じてしまう結果となること

さて、こうした現状をどうして解決していけば良いのだろう
一人ひとりが賢くなるに越したことはないが
それも現実的には難しそうだし、、、

ところで、兵庫県知事選で県外から訪れた人たちはその行動が
自発的だったのか、それとも何らかの動員があったのかが
気になるところだが、これを分析する方法はあるのなら
ぜひ調べてほしいものだ
(一部では動員が図られたと言う噂がある)











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負けるかもしれない」勝負にでること

2024年12月21日 09時44分23秒 | あれこれ考えること

昔、愛知県2番目の都市だった豊橋市は
近くの浜松市といろんなところで競っていた
ところがいつの間にか大きな差がついてしまった
差がついた理由にそれぞれの都市の住民の気風があるとされていた
「やらまいか」と「やめまいか」
前者が浜松市で、とにかく良いと思うことはやってみようとする精神
後者が豊橋市で、新しいことをするのはリスクがあるのでやめておこうとする精神
これが本当かどうかはわからないが、風評として広がっていたのは事実だ

愛知県の東三河の中心都市豊橋市
ここが揉めている
豊橋公園に建設予定のアリーナについて
計画には基本的に反対で当選したら進んでいる工事は契約解除する
と公約で謳った長坂氏が新市長に選ばれたので公約通りの作業に入ったところ
議会に対する新市長の説明がないということで議会が不満の意を表しているのだ

今年いろんなところで多く見られるのが首長に対する不信任案
一歩間違えると豊橋市もそういう状態になりそうな空気があったようだ
市長選が終わったばかりで議会が市長不信任案をだす
これは法的には可能でもどこか政争的で違和感を覚えてしまう

この事態を避けるためにアリーナ建設反対派からと賛成派の議員から
住民投票の実施を議員提案があるそうだ
これは部外者だがいい方法だと思う
特に評価したいのは双方が「負けるかもしれない」と思えても
とりあえず民意を聞いてみようとする姿勢だ

アリーナ反対派はすでに二回、地方自治法に定められた手順で
署名活動を行い住民投票の実施を訴えた
署名は規定数に達したが議会は住民投票の実施は否決した
建設を進める立場の人たちは住民投票でNOの結果がでると面倒なことになる
から否決したと想像できる
だが今回、二度住民投票の実施を否定した人たち(議員)も
直近の民意を聞いてみようということで
あれだけ嫌った住民投票を行う判断をしたようだ

今は立場が前回と違うことになっている
作業は反対派の望む方針で進めらようとしている
本来なら新市長の方針だから傍観していれば良い反対派も
「負けるかもしれない」住民投票の実施を訴えている
それは政治的な混乱と分断を避けるためらしいが
双方が「負けるかもしれない」住民投票を行おうとしたことは
少し感心した

他市の住民投票が気になるのは実は新城市でも2015年に
新庁舎建設について住民投票があったからだ
今でも腹が立って仕方ないのが「負けるかもしれない」
と恐れた(と思われる)人が奇妙な保険をかけた
その保険とは議会提案で行われた住民投票の選択肢が
誰でもすぐに分かるシンプルなものではなく
いかようにも解釈可能なへんてこな選択肢だったことだ
結果的にわかりにくいまま住民投票は行われ、わかりにくい選択肢の
都合の良い解釈によってその後の計画は進められていった
住民投票の選択肢がシンプルなものだったら
その後の混乱(リコール運動など)はなかったと思われる

最近気になるのは社会が「法的には問題がないが倫理的、常識的にはどうだろう」
と思われることが、平気でまかり通っていることだ
東京都知事選のポスターの掲示についても、法の不備というよりは
今まで社会がなんとなく築いてきた秩序を土足で踏みにじるようにしている
としか思えない

住民投票でも潔くシンプルな選択肢にすればいいものを
とにかく実施したことだけに価値を置いて
あとは有耶無耶にしてしまった我が市のことがあるから
豊橋市はシンプルな選択肢で実施され
そこででた民意を組んでほしいと思う


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「忠臣蔵」は、もはや社会の共通の記憶ではないそうだ

2024年12月18日 09時38分04秒 | あれこれ考えること

おばあちゃん子だった自分は、新城に2軒あった映画館に
(新城駅に近い方に)よく連れて行ってもらった
覚えているのは「忠臣蔵」「四谷怪談」「新吾十番勝負」
幼かったから自分好みがわかるはずもなく、これらは祖母の好みだったのだろう

忠臣蔵は浅野内匠頭の切腹のシーンをなぜか覚えている
多分「風さそう花よりもなお我はまた春の名残を如何にとかせん」
の歌がなぜこんな時に歌われるのだろうと違和感を持ったのだと思う

四谷怪談は夜にトイレに行くのが怖くなった
(昔はトイレは家の外にあった)
そして新吾十番勝負は「示現流」という言葉が何故か頭の中に残っている

12月14日は忠臣蔵の討ち入りの日
その日は母方の叔母の誕生日でもあった
母方の祖母は叔母に向かって
「お前の生まれたのは討ち入りの日だよ」
と繰り返し言っていたらしい

最近の若い人は「忠臣蔵」とか「松の廊下」とか「吉良上野介」
といってもピンとこないそうだ
「お岩さん」とか「お菊さん」も同様で、殆ど知名度はないらしい

ある年代以上では常識的な知識が全く途絶えているのようだ
そういえば、最近は12月14日になっても「討ち入りの日」
とニュースで伝えることはなくなっている
報道する価値がないとのことだろうが、個人的にあまり好きではない忠臣蔵でも
ある程度の日本人の心情を表すものだから、せめて教養としてこれらの事件は
覚えておいてほしいと思う
(もしかしたらお家大事は、お国大事の心情に繋がり
 ある種の危険性があることも含めて)

忠臣蔵が好きではないのは、主君の汚名を晴らすと言っても結果的に何十人もの人物の
命を奪うようなことになっているからで、そんなものは価値あるものとは思えないからだ
尤も、その当時の価値観は今と違うので否応なしにそう行動しなければならなかった
のかもしれない

忠臣蔵については歌舞伎のそれは、本当によくできている作品だと思う
感情に訴えるストーリーがいくつもあって、万人に受ける要素は納得できる
(ただし、物語は江戸時代ではなく前の時代となっている)

忠臣蔵には否定的だが大石内蔵助はやはりそれなりの人だったとは思う
赤穂藩が取り潰しになった時、武士はみんな失業者になるわけだが
藩に蓄えていたお金は低い身分の者に多く分け(今で言う退職金として)
身分の高い者は少なくしたエピソードとか
瑤泉院(浅野内匠頭の奥さん)から手渡されたお金は
使い道をきちんと記録していたとか
つまりは実務家として、人としては立派だったとは思う

でも、そうした記憶は今の人達に伝わっていない
流れ行く時間の中で、人々の中から少しづつ大事ななにかが忘れられていく
最近は12月8日の開戦記念日すら報道されなくなっている
それは、本当に良いことなのだろうか

何でもかんでも過去の事件に当てはめることが良いとは思わないが
それでも、過去の反省を踏まえるには過去のことは知らなくてはならないと思う
(最近はやたらと日本を美化する傾向が多いようで不安を覚えてしまう)



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書き残しておいた文章とか考え方

2024年12月17日 09時36分00秒 | あれこれ考えること

大河ドラマ「光る君へ」が終わった
多分、女性の捉え方とは違うと思うが楽しめた一年だった
女性は恋愛モノとして、自分はフィクションの見事さとして

ところで、これがきっかけではないが枕草子を現代文で読んだ時
(書き)残しておいたものがあった

枕草子  25  にくらしいもの

途中から

なんでもかでも人のことをうらやみ、自分のことについては泣き言を言い
人の噂話ばかりし、ほかのちょっとしたつまらぬことでも根掘り葉掘り知りたがって
しつこく話をせがみ、話してやらないと、うらんだり悪口を言ったりし
またほんの聞きかじった程度の話を、自分がもともと知っていることのように
他の人にも得得として受け売りしたりする。このような人も実にいやだ。

すぐに想起したのは、立花孝志氏がSNSで一方的に流した情報に
安易にのって拡散してしまった人たちのこと

その他に書き残しているものを見ていたら、こんなのが見つかった

自発的隷従論から(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)

少数者の支配

圧制者をその地位にとどめているのは、つねに4人か5人の者である。
彼のために国全体を隷従の状態に留め置いているのは、ほんの4人か5人の仕業であるということだ。

ことは次の様に進展してきた。まず、5.6人の物が圧制者の信頼を得る。次に自ら彼に近づくか、彼に誘われて、共謀して残虐な行いにふけり、逸楽の場に同伴し、淫行のお膳立てをする。また略奪したお宝のおこぼれにあずかる。この6人は、主君をうまくもり立てて、一味全体のために、主君がいっそう悪者になるようにしむける。その際彼は、自らの悪行のみならず、手下どもの悪行によって悪者となるのだ。この6人は、みずからのもとで甘い汁をすう600人を従え、そしてこの600人は6000人を登用し、所領の統治や租税の管理に当たらせる。こうしてこの6000人を欲深く残虐なままに任せ、必要とあらばそのような資質を発揮させ、更なる悪事を行わせるのだ。もっともこの6000人は、その悪行の際にも、上司の庇護のもとでしか生きながらえることができず、上司の命による以外は、法や罰を逃れることができないのだが。

現実論として圧制者が恐れるものは知恵ある庶民だが、それが育たないように彼らはこんな手をうつ

トルコの大王は、書物や学識というものが、ほかのいかなるものにもまして、人間に、自己を知り圧政を憎む能力と力を与えることを熟知している。だから彼は自分の領土に識者をほとんど置かず、そんな連中も求めたりもしないのだ。

なんかどこかの国もそうしているみたい
もう一つ同じ本からの引用を

自発的隷従論(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)から

農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことをすればそれで済む。だが、圧制者の周りにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るだけでなく、彼の望む通りのものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめ汲み取らなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは充分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くためには、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らなければならない。彼のことば、声、合図、視線に絶えず注意をはらい、望みを忖度し、考えを知るために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかねばならない。

 はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると言えるだろうか。この世に、これ以上に耐え難いことがあるだろうか。私は勇壮な人に語っているのでも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔をもつ人に対して語っているのだ。こんなふうに生きるよりも悲惨な状態があるだろうか。自分ではなにももたず、自分の幸福も自由も、からだも命も他人に委ねるとは。

想起するのはいつぞやの官僚さんたちのこと
そのように思う人は少なくないと思う

ところで「国家はなぜ衰退するのか」と言う本では結論として「少数者の収奪」
がある時は国家は衰退するとしている
確かにシリアとか、かつてのユーゴスラビア、マルコス時代のフィリピンなどに
その傾向は見られる
(果たして日本にはそれはないと言い切れるか?)

民意と言う言葉でまるで意思を持っているかのようでも
どこに向かうか心配が尽きない大衆とか庶民については
こんな指摘がある

群集心理から(第4章群衆のあらゆる確信がおびる宗教的形式)

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変わる傾向を有することを説いた。また過度の暗示を受けた群衆は、彼らに暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にすることを述べ、最後に、群衆は、強烈で極端な感情のみを知ることを説いた。群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感が生まれるやいなや憎悪に変わる。これら概括的な説明によって、すでに群衆の抱く確信の性質をうかがうことができる。

これらを読むと、冷静に世の中を眺めた過去の人も、現在自分たちが感じているものと
同じ思いをしていることがわかる
つまりは、過去の出来事はとても参考になるということだ

ただ問題は、こうした過去のことを知っている人と、知っていない人では
その先の考え方とか行動に違いが起きてしまう
いくら考え方には多様性があるとしても、教養としての、あるいは背景知識として
こうしたことを知っていることは、特にそれなりの立場の人には必要と思われる


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不安なこと

2024年12月16日 10時12分08秒 | あれこれ考えること

泉大津の市長選は、問題の立花孝志氏が立候補して
昨日投票の結果、現職の南出けんいち氏が当選した
投票率は44.07%で
南出けんいち 21,700 立花孝志 4,439 だった

初日こそ街宣車の周りに人だかりができたが
徐々に人が集まらなくなった立花氏
それは選挙を面白半分にしてはならないとする泉大津市の
市民の気持ちの現れと思えたのだが
4,439票の数はどのように理解したら良いのだろうか
個人的には多すぎると思うし、以前からの不安が消えることがなかった

いろんな考え方があるとしても、自分の頭が固くなっているとしても
自分はこの結果に不安を覚える
いくらかの数の人がこうした人に投票してしまう現実に

不安な出来事はもう一つある
被団協がノーベル平和賞を受け取るためにノルウェーに行った
テレビニュースを見たが、その人々の中に数人の高校生らしき女性が見られた
ちなみに授賞式の航空券とかホテル代は3名まで主催者持ちのようだから
彼女たちは自費、募金(クラウドファンディング)などで賄ったと思われる

不安なのはそこに若い男の姿が見られなかったことだ
とりあえず、若い女の子たちはいた
ニュース画面で自分たちの行動の意味を語る若い女性たちは
とてもしっかりしているように見える
ところが若い男の姿が見られない
単にテレビ画面に映らなかっただけなのか
それとも本当に若い男は少なかったのか、それはわからないが
なんとなく若い男の出不精というか覇気の無さが気になっているので
これが不安でしょうがない

日本の若い男どもは大丈夫か?単純にそう思う
多様性を認める様々な経験とか面倒なことよりも
心地よく過ごせる今の事態を過度に信じ切っている姿

世の中にこうした男女差があるとしたら、政治とか仕事分野で
男だけが上のポジションに居るというのは合理的でないし
内向き傾向が進んでしまいそうな気がする

これらが杞憂であれば良いのだが、、






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