今朝も涼しいうちにチャチャッと済ませておこう
ステイホームが求められ、会う人が少なくなると
どうしても話題が少なくなる
必然的にネタがなくなって、同じパターン(話題)の繰り返しになる
もっともそれが個性なのかもしれないが
またもや本の話題
夏は暑くてたまらん!
と何をするのも面倒で、やる気が起きないが、今年の夏は何故か面倒くさい本を読んでいる
こんな時期だから手軽な本を読めばいいと思うが、軽いものだとなんだか物足りないというか
刺激が足りなくて、ついつい難解な本に向かっている
最初は付箋のついたところだけを抜き出して読むつもりだった
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」
だが思いのほか次々と関心のある部分が続いて、とうとう読み返してしまった
ところが、読み返して少しショックだった
以前読んだ時と印象が全然違うのだ
いったい自分は何を読んできたのか、、と落ち込みそうなくらい違う
本は結局は印象に残る部分部分の集合でしかないし
その結果としての全体の印象となるのだし
人には読むべきタイミングがあるにせよ
結果的に何も知っていなかったんだ、、
と再確認するのはちょいとばかり悲しい
ヨーロッパ人の知識人は結局のところ、ルターやカルビン、マックス・ウェーバーや
ドストエフスキー、マルクス、キエルケゴール、ニーチェなどの思想が
ベースになって出来上がっていることに改めて気がつく
他の知識人の本を読んで上記の人の思想はよく出てくるので
今回はすんなり抵抗感もなく、知っている話題として受け入れられた
「自由からの逃走」は「自由から」というのがミソで、「自由への」ではない
近代人の自我が確立されるような時代変化(経済的変化)の後
「人はなんでも自由だが、そのかわり全責任は自分にある」
とされてしまった世の中で、拠り所を失った人間はどうしたら
正気を保てるか、、に視点をあわせて考察しているが
この本はフロムが心理学者なので心理学的要素が多いのは当然としても
読んでいて最後の方は「教養小説」ではないのか、、と思えるような部分が
いくつかあった
つまり、この本は感じやすい内面的な人間に対する応援歌的な要素のある
作品と思えたのだった
この捉え方は、今回読んだ時に感じたことで、また別の機会に読めば
全然違う印象を持つだろう
何故ドイツ人はナチをあんなにも容易に受け入れてしまったのか、、
命令に従うことは、自らの自由の放棄ではないのか、、、とした
考察こそがこの本の本質だろうが、今回はその部分ではなくて
少しばかり自分のようなタイプの人間は、今の自分のままで良いのだ
と感じさせるようなところがあったので、、そこが何よりも印象に残ったのだった
最後に今回付箋を付けた部分の紹介
もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば
かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち、かれは外界とは構成された一つの全体の
部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての
疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが、強迫的にでも
自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消滅する。
かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、
それは生きる行為そのものであることをみとめる。
この部分、なんか嬉しかったな
リルケの「ドゥイノの悲歌」の「一度だけ、、、、」にも通じるような気もした