明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



欲動優先とはいえ、ペース配分だけは考える必要がある。長年の経験からそれなりに自信はあるが、始めてのモチーフであることと、ギリギリまで粘る諦めの悪さは最要注意事項である。 今の所決めているのは『寒山拾得図』『豊干禅師図』『一休禅師図』『四睡図』『虎渓三笑図』『蝦蟇仙人図』『鉄拐仙人図』『臨済義玄図』このうち最低でも寒山拾得は四カット、蝦蟇、鉄拐図はそれぞれ二カットはものにしたい。 例によって予定は未定だが、今の所、蝦蟇、鉄拐仙人を進め、同時に寒山と拾得の頭部を作る。その間、禅機図、神仙図の中から、候補作を選びたい。 あの頃は、あんな可愛いことを考えていたのか、なんて呆れることにならないようにしたいものであるが、棚からぼた餅のように、突然予告もなく降って来るイメージは如何とも抗し難い。私はこういう時、絵に描いたような“思い付いた!”という顔をするらしい。



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蝦蟇蛙を作ったとなれば、豊干禅師の乗る虎をどうするか考えないとならない。数年前、猫を撮影し、虎を見たことがなかった絵師の描いた虎の味を出そうと考えたが、マタタビの助けを借りても思ったような様子を撮るのは至難の技である。特に寒山と拾得と豊干と虎が仲良く寝る『四睡図』などは、動物園でぐうたらしている虎を撮った方が良いかもしれない。 そろそろ寒山と拾得の頭部に取りかかかりたい。多くの寒山と拾得のように、ただ無邪気な唐子調ではなく、謎の笑みが不可欠であろう。笑っていて笑っていない。目出度くもあり目出度くもなし。あれに私は、引き込まれたのだろう。一つ決めたら、すべてそうあらねばならぬという、案外融通のきかない所のある私であるが、今取り組んでいるモチーフは、それではおそらく上手く行かない。 寒山拾得展を予定しているのに、突然脱線し関係のない『虎渓三笑図』に走った。これがおそらく功を奏した。あれで先ず、私の”寒山拾得でなければならぬ“が壊れたからである。欲動のまま作るに限る。



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顔輝作が原点なのか、伝統のように、三本脚の白い蝦蟇蛙の後ろ脚を蝦蟇仙人が鷲掴みし、頭か肩口に乗せている。私も伝統にのっとり、と考えていたが、我が仙人、薮睨みの蛙顔であり、蛙を大きく作ってしまつたので、やってみると犬大の蛙が、勝手に乗っかっている方が面白いので、脚は掴ませないことにした。予定は日々変わっていく。もっとも、なんで蛙を作っているのだ、という話なので、これで良いのである。 作ってみると思いの外、カエル作りが面白いので、実物のカエルに触れずに済みそうである。



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日常  


コロナ禍の今、私には何のストレスもない。散歩嫌いだし。幼い頃妄想した、どこかの王様に石の塔に幽閉され“一生ここで好きなことだけやっておれ”に限りなく近い。変わったといえば外で酒を飲むことが少なくなったことである。 三十年通った居酒屋で判ったことは、男達は、人としゃべりたくて集まっている、ということであった。しかし、当プログを御覧の方はお判りだと思うが、私が話したいことなど、話したって迷惑なだけである。蝦蟇仙人の話しなど、話の弾みようがない。結局、聞き役に回ることが多くなる。もっとも、すぐには家に帰りたくない、とグズグズしている男達の諸相は興味深い。どちらに転んでも可笑しく哀しい、と相場が決まっており、男専門の人形作家である私は、様々な意味で格好な取材の場といえるだろう。自覚しないで入ってくる情報しか役に立たないので、ただ飲んでいれば良いということになる。 このご時世、あまり楽しそうにしているのも気が引けるが、これを嫌々作っているとしたら哀し過ぎるだろう。なのでことさら楽しそうにしている訳である。



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蝦蟇仙人が連れている三本脚のヒキガエルだが、本物のヒキガエルを使う可能性はまだ捨てきれないでいるが、その場合は人形の展示が出来ない。撮影にどちらを採用するか、は後で考えるとして、まずは粘土で作ることにした。今回のモチーフには、決まり事のような物があり、それに準ずるか、準じないかは自由だろうが、せっかく先達の末席に位置しようと思うなら、私に取って都合の良い所、すなわち作って面白そうな所はそうしたい。中国の顔輝作由来か、一本しかない後ろ脚を鷲摑みし、胴体は頭か肩口に乗せている。私の蝦蟇仙人はハゲ頭で、カエルの前脚がぺったり張り付いている所を作りたい。もう一カット、地面で踊る蛙を見下ろす蝦蟇仙人というところか。 15の時に好きな物は一生好きだと聞いたことがあるが、このモチーフは、もつと前の私も好きだろう。違うことといえば当時、カエルの尻に花火を突っ込んで平気で破裂させていたが、今は触るのも嫌である。犠牲になった連中には申し訳ないが、悪いことは早めに済ませておくべきである。



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昨年ふげん社での『没後50年三島由紀夫へのオマージュ展椿説男の死』は5月7日が初日であった。あの時の私に一年後、臨済義玄を作ってるぞ、といっても誰だそれ?というだろうが、臨済という名にピンと来て、『寒山拾得』始めたのか?というかも知れない。いつかはやるとは思っていたが、飯沢耕太郎さんとのトークショーの最後に、あれは社長の声だったか次は何を?に寒山拾得といってしまった。実は次、というより近い将来、くらいの心持ちであったが、あそこで言ったからこそ、ふげん社のふげんは、拾得が実は普賢菩薩の化身というところから名付けたと知り、二年後の個展も決まった。 私も昔であったら、すぐに寒山を作り始め、プレッシャーに追い詰められていっただろう。それが金魚を眺め、主役である寒山と拾得は未だ始めていない。さすがに自分の扱い方を学んだ結果だな、と思う訳だが、あまり余裕をかましていてもいけない.高校の夏休みに当てずっぽうで想像した“人生も夏休みのアルバイトの如し、慣れた頃に夏休みは終わる“がリアルに感じられつつある今日この頃である。臨済義玄の首制作の後、やたら眠く寝てばかりいる。



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当初、二人の乞食坊主と禅師一人に虎一匹による個展をするはずが、出演者が増えて来て、しまいには臨済宗開祖、臨済義玄の頭部まで作ってしまった。すっかり絵図が描き変わってしまった。だからといって、それではどうしよう、などと頭を使ってはいけない。間違いの元である。まだボディビルでいうところの筋肉量を増やすバルクアップの時期であろう。 朝食を済ませ日曜美術館で、蝦蟇仙人と白いガマをみた。『私の蝦蟇仙人はガマガエル調にしてしまったが、余計だったかなあ。』と思いながら睡魔に襲われ目が覚めたら4時過ぎ。どう考えても臨済義玄のせいたが、何だか良く判らないダメージで一日使い物に成らず、寝てばかりいた。小学生の時の、遠足ではしゃぎ過ぎた翌日の感じ、といえなくもない。



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普段、ひとたび寝ようと布団をかぶったら、おそらく十~二十秒で寝ているであろう私も、喝!といっている臨済宗宗祖、臨済義玄を作っていたら、布団をかぶっても寝られず、二時間ほどで目が覚め、すぐに義玄の首に手を伸ばして確認する始末。穏やかにお休みなさい、とは行かないモチーフである。 人形を作って写真作品にする醍醐味の一つは構図であろう。作っている時に効果的な構図を考えながら作っている。日本画、浮世絵の自由さを取り入れたい、と自由を疎外している元凶を陰影と定め、排除した石塚式ピクトリアリズムだが、古典絵画は、こと構図に関しては話が違う。古典絵画の肖像画と来たらほとんど斜め45度、たまに真横か真正面である。 友人が、どうせなら水墨画調にモノクロにしてはどうか、という。「モノクロなんて、自分で被写体を作ってないから、やれることで、せっかく色塗って、モノクロなんかでやれるかよ。」構図も同じことで、せっかく作っておいて、挙げ句に斜め45度だけ、なんて冗談じゃない。



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喝!  


ディアギレフはコクトーに「私を驚かせてみろ。」といったが、私は私に驚き呆れている。何で臨済義玄などという千年以上前の人物を作っているのか。今の所、頭の中には言い訳すら浮かんでこない。ただ欲望のままに作っている感じであるが、まあ来年秋の個展までに言い訳を考えれば良い。言い訳はしでかしてからで良い。 肝心の寒山と拾得はまだ作り始めてもいないが、それでも100メートル前方には背中が見えて来ている。やはり頭さえ使わなければ、なんとかなるものである。 最近、遙か昔の絵画を観ることが多いが、中国も日本も、先達の作品を写して来ている。それはアイデアをパクろうなんて了見ではなく、山河を写生するが如く、自然から学ぶのと変わらない姿勢のように思える。なので写した作品すら名品だったりする。



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毎年、大晦日は、昨年思い付かなかった事、作れなかった物が作れたか、振り返ることにしているが、ここに来て、先週思いもしなかつた物を作っている。臨済宗宗祖、臨済義玄は千年以上前の人物だが、それを14世紀に日本人曽我蛇足が描いた肖像画を元に作っている。あと二人ほど、と考えていた仙人が決まらず、そのつなぎ、といっては失礼だが、義玄の言葉を弟子が記録したという『臨済録』を慌てて注文した。 古来、これが臨済義玄といわれ続けて来たのなら、あくまでそれに準じるべきであろう。喝!という場面だが、残された肖像画は、言い終わりの口をしているが、もっと口を開け、喝のか、の状態にしてみた。 それにしても、先週考えもしなかった義玄を作り、急遽臨済録を読むことになるとは。こうやって自分のしたことに影響され、結果、思わぬ所に立っていることになる。それもこれもただ目の前にぶら下がったパンに食い付いて来ただけで、行き当たりばったり、ロボット掃除機みたいだが、終わると充電台に戻るらしいから、ちょっと違う。



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端午の節句といえばだが鍾馗様だが、今回、達磨大師と鍾馗は似たような顔して、また、あまりにポピュラーで作りたくない。同じ怖い顔なら臨済義玄にしてみた。ただあまり臨済宗だなんだは、流れ上そうなったが、完成したとしても、ごく端の方にひっそりと展示したい。大きな意味で言えば、この人がいたから、寒山拾得その他、此れ等のモチーフに辿り着いた、といえる訳であるが、会場で知りもしない禅について質問されても困る。 それでも作っているのは,昔から人間も草木と同じ自然物であるから、草木程度のことは、元々そなわっているので、へそ下三寸辺りから聞こえる声に耳を傾けていれば良い、と考えていたので、今回のモチーフは座禅などしなくとも私には可能だと信じ込んでいる訳である。 失敗するとしたら、下手に頭で考えた時であろう。それは私の過去の経験が示している。そのためにただ金魚を眺めるという策を考えたが、これは功を奏した。結果水槽内は金魚だらけとなったし、ベランダに出向となった金魚もいるけれども。

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あまり宗教がかった物にはしたくはない。一休禅師にしたところで、京の街をシヤレコウベを竹竿に掲げて歩く姿をただ作りたいだけである。ただし、寒山拾得縁の臨済宗の僧侶であることは頭の隅にはあった。 寒山拾得展にその程度の縁の一休宗純がいるくらいなら、開祖、臨済義玄がいてもおかしくはない。年代三けた時代の人物となれば、残された肖像もあてにはならないが、どうせあてにならないなら、と捏造するわけにはいかず、通例となった像を元にするべきであろう。となると、怖い顔して渇!といってる場面であり、もちろん、そんな場面だから興味が出ている訳だけれど。 頭で考えると、行き当たりばったりに暴走しているような気がするが、結果的には、こういうことをしようとしていたのか。となる予定なのだが?



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職員、母を含めて160人超、80パーセントの陽性者を出し、ニュースにもなった施設に「未だに平熱は続いていますか?」と電話すると「そうなんですよ。変わりないんです。」酸素濃度98パーセントだそうで、あと数日で2週間である。90過ぎているから予断を許さないものの、とりあえずは安心した。 職員の”そうなんです。変わりないんです。“の声の調子に含まれるニュアンスですぐに判った。自分だけは他の連中と違って、職員の手助けして感謝されてるのだ、と調子良くやっているに違いがない。電話口で息子です、と名乗ると、毎回この空気を感じる。どうもすいません、と口にしそうなのを、なんとか飲み込む。区だけでなく都も介入したそうで現在1Fフロアは医療機器だらけだそうである。差し入れも可ということなので、近々送ろう。 日曜美術館は「私は天使を描かない、なぜなら天使を見たことがないから」のクールベであった。陰影から足を洗って良かった、と天使ならぬ仙人を作っている私であった。



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連休  



『東京人』地図と写真で旅する探偵散歩。本日発売。表紙に使用した江戸川乱歩は、96年に最初に作った乱歩である。これを抱え、友人を見張りに撮影禁止の所などで随分撮影したものである。思えば作家シリーズで苦楽を共にした、というと、この最初の乱歩であろう。背景は線を引き、塗りつぶしたりして制作した浅草十二階である。乱歩が弟等らと団子坂で営んだ三人書房と、それを向かいの白梅軒から眺める明智小五郎のニカットも掲載されている。三人書房のシヨーウインドーの中には『ドグラマグラ』『虚無への供物』『黒死殺人事件』いわゆる三大奇書を並べてある。誌面では判らないし、もちろん、時代を無視した悪戯である。 いつもは連休、正月、お盆などは、社会人が休んでいるし、そこはかとなく漂う罪悪感も感じず制作に没頭出来るのだが、しかしここに至り、仙人を作りながら罪悪感もないだろう。

 



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