明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



例によって行き当たりばったり。気が付けば、この間まで考えもしなかったことに手を染めている。ずっとこの調子で枝葉を延ばして来た。一休を描いた弟子の曽我蛇足の一休にシャレコウベを持たせたが、表情の面白さで、蛇足描く臨済宗開祖、臨済義玄を作ってしまった。やり過ぎだった、と思った、坐禅をしたこともない私だったが、一番大事なのは、浮かんだイメージを取り出し、やっぱり在った、と確認することである。であれば怖い物を知らないうちに作ってしまえ、と。反省や後悔は後でするものである。仏罰が当たるとしても、もう少し先の話しであろう。 しかしながら私なりの思いもある。禅宗では不立文字、言葉文字では伝わらない、とされ禅宗芸術ともいうべき物が発達、残されている。それに感化され、国宝の肖像画の立体化まで仕出かしている私は、ある意味でいえば、それらに何かを感じ、受け取っているといえるのではないか? 何はともあれ。和尚が帰る前に、甕の中の水飴を舐めてしまえ、という一休さんの心境である。

 



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母がホームに入って間もなくコロナ禍となり、母のホームも、クラスターでニュースに出る騒ぎであった。無症状ではあったが母もコロナになった。ちょっと前まで仕事をしていたせいで、外交的で楽しそうにやってくれているのが何よりであった。近々ウチから3、4キロのホームに移れそうである。 コロナで数ヶ月ぶりに顔を見に行っても、昼ごはんを一緒に食べ、しばらくすると、常に母の方から〝もう帰って良い”という感じになる。ある時「今何作っているの?」答えると「もう帰って作りなさい。」それを聞いて納得した。ホームに入る前に、一年ほど同居をした。18以来であったが、その時私が寝ている時以外は時には食事しながらでさえも何かを作りっ放なしなのを見て、子供の頃とちっとも変わっていない、と呆れていた。母がもっとも心配したのが、教師が私の声が聴こえていないのかも?と難聴を疑うくらい、好きなことへの極端な執着ぶりであったが、結果、たかだか人形作って写真を撮ることに落ち着き、需要を考えずやっていることを別にすれば、単なる仕事熱心である。なので「もう帰って良いわよ。」も、母なりの親心なのだ、と思って大人しく帰ることにしている。



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達磨大師、慧可断臂図で第ニ祖慧可禅師は作ったが、創作によるので別にすると、頭部だけを含め、臨済義玄、蘭渓道隆、無学祖元、一休宗純。まさか一休より古い方が増えるとは思わなかったが。こう並べてみると、坐禅を一度もしたことないのに、と改めて思ってしまうが、立派な人間を作るのが、必ずしも立派な人間ではない訳である。 鎌倉五山の『建長寺』の開山、蘭渓道隆師は、建長寺のホームページのトップに載っている木像ではなく肖像画を立体化したが、肖像画は御多分に洩れず斜め45度向いているので、七百数十年の間に、立体化を試みた人がいなかったとすれば、こんな感じだったろう、という珍しい物を見ていることになる。 建長寺は創建時、つまり蘭渓道隆開山当時の建造物は災害その他で残っていない。残っているのは国宝である鐘とお手植えとされる天然記念物の柏槇(ビャクシン)の巨樹だけである。鐘も良いけれど、七百数十年育ったビャクシンを背景に立たせたい、と考えている。このぐらいのモチーフになると、誰も当時を知らな過ぎて、過去の再現ではむしろつまらない。現在のビャクシンの樹の前に立つ肖像画バージョンの蘭渓道隆師。これが最初に私の頭に浮かんだイメージであり、養老孟司氏のいう〝人間は浮かんだ物を作るように出来ている”という仕組みに、今回も従ったことになる。

蘭渓道隆

 



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高僧の肖像画(頂相)を残すのが禅宗でも臨済宗の特徴であることを知らず、印象的な肖像を見てはこれも臨済宗か、と縁だと勘違いしていたことは何度も書いたが、中国から伝わった迫真の表現は感銘深いものがある。最新の蘭渓道隆は七百数十年前の人物で、重文の木像と国宝の肖像画が残されているが、顔が大分違う。さらに木像のエックス線像により、下に潜む表情も一味違う。 私は宗代の中国より本人が携えて来たといわれている斜め45度の肖像画が、より実像に近いと判断。立体化により、おそらくこんな顔だった、という誰も見たことのない蘭渓道隆師の正面の顔を私は見ていることになる。当然、鎌倉五山第一位、初の禅寺である『建長寺』のホームページに載る開山蘭渓道隆師の木像とは違う。 かつて松尾芭蕉の門弟達が師の肖像画を残しているのにかかわらす無視され、いい加減な老人像が乱造されているのを呪いながら門弟の残した物だけを参考に作った。それも画力の違いを考慮し、パーツを取捨選択した。そんなことを続けていると、参考資料としての写真には、残念ながら画質不足?を感じてしまう。写真で散々やってきたおかげで、陰影がなく、ディテールのないはずの画像を立体視出来るようになっだ。結果、写真の立体化は味気も醍醐味も感じられなくなってしまった。〝考えるな感じろ”で行けば、行くべき道が矢印付きで見える。



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ジャズ、ブルース好きが高じて人形制作を始めたが、その頃よく眺めた写真集が長濱治さんの『Hell's Angels -地獄の天使』である。ところが当時の私は、映画や写真を監督や撮影者で観る習慣がなく『ブルータス』の表紙を撮っていただき「次はならず者シリーズだ」なんていっていたのに長濱さん作と気付かないまま。後年、ブルースをテーマの作品を拝見してやはり感銘を受けた。 写真撮影に興味がないはずの私が90年代、一時人形制作を放って技法習得に夢中になったのは、大正期の野島康三の油性絵の具を使用する、ピグメント法による肖像写真であった。オイルプリントの初披露の頃、古典技法を試みる人も多い現在と違い、修験者の術の如き手法に、観る人の目に、明かりは灯り難いものだ、と思っていた。その頃『月刊太陽』の人形特集の撮影にみえたのが、須田一政さんで慌てた。二眼レフで撮っていただいたが、私の知らない私が写っており、写真家というものは、こんなものを撮るのか!と被写体になってビックリした。撮影が終わり、話のついでにオイルプリントをお見せしたら面白がっていただき、個展にもお邪魔し、そのチャレンジ魂に感銘を受けた。陰影のない手法の初個展を前に、須田さんならと数十年ぶりにお知らせすると、体調が悪く、出かけることもないが、面白そうなので伺います、とのメールをいただいたが、間に合わなかった。 番外。実をいうとカメラを持つ男性写真家の男性性みたいな物が苦手で、好きなのは女性写真家が多く、一番はシンディ・シャーマンであった。可愛いらしかったし。



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テレビである工芸の産地の紹介をしていた。〝こういう物があったら良いな”と思われるような物を作りたい、と女性作家が言っていた。一方私は〝こういう物があったら良いな、と思われるようなら終わりである。2011年の『三島由紀夫へのオマージュ男の死』の前に、喫茶店で、友人に三島が死んでる所なんて買う人間なんている訳ない!と説得されたが、私にはそれが妙なる音楽に聴こえた、と先日書いたが、それは本当の話しである。昨年の『寒山拾得展』のおり、先に会場に着いた友人が、「さっき来た客、来るなりまた変なことを、と口に出してたぞ」と言った。それが今挨拶した飯沢耕太郎さんだと知っていた私は満面の笑みだったのはいうまでもない。私が完売作家なんてものになったとしたら、絶望で首を括る恐れがある。しかし何で笑っていられる、といわれるけれど、テレビで見た女性作家より、笑いながら生きて行く自信がある。



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壁に向かって座禅する禅師も、陰影がなければ、壁など気にせず禅師に剣を向ける蒙古兵という主題のみを描ける。6年前のゴールデンウィークの深川江戸資料館の個展の直後から、日本画、浮世絵ばかり眺め、陰影の呪縛から解放したお陰である。 悪戯気分で、どれだけリアルに出来るか、とやってみた火焔太鼓を届ける途中に一杯やってしまっている古今亭志ん生だが、写真的にリアルなだけで、私の求めるリアルとは違った。子供の頃も、遠足に行った後、教室で頭の中の遠足を描くのが好きなのであった。もし実写と見まごう物を作りたい私であったなら、AIの時代に向け憂鬱だったろう。粘土の質感丸出しのまま作り続けて来たのも、このためだったということだろう。性能の悪い頭で策を弄せず〝考えるな感じろ”で行けばちゃんと進むべき方向に導かれる。実際、浮世絵の遠近法まで写真に取り入れようとしたのは、とんだ愚策に終わった。 鎌倉建長寺開山、大覚禅師こと蘭渓道隆の頭部、仕上げを残し完成。

 

 



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一人坐禅する禅師に剣を向ける蒙古兵。宋の寺の内部など描かず、シンプルに無配景にするつもりである。 壁に向かって座禅を組む曹洞宗に対して、壁に背を向ける臨済宗だが、達磨大師は面壁九年という、元々壁に向かってする物だった。となると調べると臨済宗が壁に向かわなくなったのは江戸時代、白隠禅師の頃といわれている、と本日知った。という事は前述の場面では面壁坐禅中に元寇に剣を向けられたことになる。私が想定していた構図は、斜め45度を向いた禅師にほぼ正面を向き剣を向ける蒙古兵である。それが面壁坐禅だとしたら壁の中からカメラを向ける事になる。昔なら頭の中で思い付いた構図が変えられない私は慌てるところだが〝安心して下さい陰影ありませんよ” 壁などどこにあろうが関係ない、そもそも陰影有りのままであれば、こんなモチーフを手掛けるはずもない、



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禅師二人とモンゴル兵の頭部が一つあり、続けて正面向きの達磨大師の頭部を、と思ったが止める。何があるか判らない。あれを作れば良かった、と死の床で後悔する確率を下げるには、先の予定を立てず、目の前の物に集中すべきである。四人はちょっと多い。一作に数年かかるような作家は、若ければともかく、途中挫折の恐怖をどう克服しているのだろう。 独学我流者の勘は、学べば、知れば良い訳ではない、どうせなら、独学我流の特徴を保つべきだと。ここまで来れば、周囲を見渡しても誰も居ない。結果的には良かった。 それはともかく、知らなければその方が良いことは実際にある。制作中の禅師が亡くなった年齢が、今の私の歳だったこと。もう一人の禅師は、参考にした木像が、禅僧の彫刻では最高傑作といわれている。なんてことは、知って良いことなど一つもなく、出来れば知らずに済ませたい情報であった。



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頭部さえ出来て仕舞えば完成は目に見えている。禅師とモンゴル兵の二つの角度など組み合わせを見て構図を決める。背景は首を見せるためのものでしかない。宗の寺のシーンだが、陰影がない手法は何も無い無地が可能である。しかし、二人作っても、あっちからこっちから撮ることはなく、完成するのは一カットだけである。なので写る所だけで済ませたいのはやまやまだが、展示出来るように、全て作る予定でいる。ただ脇役のモンゴル兵は、どうするかはまだ判らない。しかしここまでやって、写真の主役は被写体である。と、大きな顔が出来る。かと言って、撮らせていただいている、という気遣いは無用であるし、私の作品になんてことしゃがる。なんて言われることもない。実在した作家のように、遺族のことに気を使うこともない、とは言いながら、武装集団に「礼拝物不敬罪だ!」と銃口を向けられる夢ぐらいは観ることになったけれど。まぁ所詮〝夜の夢”である、



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連休を残し、思ったよりスムースに進行し、禅師二人と元寇一人の頭部がほぼ完成した。展示が出来るか判らないのに、相変わらず行き当たりばったりだが、もとより需要など考えるような私ではない。なのでがっかりすることもない。経験上自らを人間ダウジングロッドと化し、考えるな感じろの方が結果が良いことを知っている。そもそも三島由紀夫が死んでいる様子だけの個展を二度もやってしまうと、もう余程の歯応えがないと耐えられない。 昔、四キロ四方誰も住んでいない北関東の廃村で工芸学校の先輩二人と焼物をやっていたことがあり、その先輩と久しぶりに話した。ある時、先輩二人が粘土を仕入れに行くと、出かけたきり、一週間帰って来なかった事がある。言われたことは全てやり、犬一匹と、何もやる事がない。食糧も尽きるとなると人間バカバカしいことを考えるものである。全裸で過ごしながら、そういえば生まれて以来、肛門に太陽の陽が当たった事があっただろうか? 制作中の禅師が、日本に禅が根付いていないことを知り、七百数十年前に、宗の時代の中国から来日したが、亡くなったのが、今の私の年齢だったことに本日気付いた。



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誰である必要のない元寇(モンゴル兵)なので頭部の制作。途中なんだか江夏みたいな顔だな、と思いながら、夕方頃にはケンドーコバヤシ調に。つまり絵に描いたようなモンゴル兵だが、脇役でもあるし、主役を引き立たせるためにも、そのぐらいで丁度良い、と兜を被せる。 最初は宋の寺を襲い、一人寺に残って坐禅する禅師に剣を向ける役どころなので、悪漢顔だったが、禅師の唱える詩を聞き、剣を納め出て行く。中国語を元寇が理解したことになるが、それはともかく、そこらに転がっている兵隊ではなく、それなりの人物でないと成立しない場面だ、と気が変わり、それに応じて、いかにもな悪漢顔から、それなりの顔付きに変わった。 せっかくの連休なので、トラックドライバーの連中と飲もうか、とも思ったが、どうもモンゴル兵を作ってる方が楽しそうだな、と。



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幼い頃から大の写生嫌い。目に見える、その場の様子を描くのが嫌いで、遠足の様子などを後日教室で描くのが好きだった。そこにすでに在る物撮ってどうする、写真に興味が持てなかったのも、その辺りに原因があったのだろう。 人間も草木同様自然物、肝心な物はすでに備わっているはず、それが〝外にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想”ということに至ったのだろう。近頃、制作用の資料の中に〝禅というものは仏を外に求めず、自らのなかに在ると信じた。”なんてことを目にすると、行き当たりばったり、考えるな感じろで行くと、自然にこういうことになるのか、と。もっとも二十歳の頃は、自分の事は良く知っており、これは私が全て考えたことだ、というタイプであったが、ことごとくスベリまくり、よほどの馬鹿じゃなければプランの間違いに気付いて当然であった。



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元寇  


二人の禅師の頭部が思いのほかスムーズに完成した。これが近々には発表が出来ないかもしれないのに作っている。という心持ちが逆に作用したとしたら、私の変態性も拍車をかけたことになる。明日より一人目の禅師に剣を向ける元寇の頭部の制作。名場面なのだが、今のところ描かれたものを見ていない。宋代の中国からの、来日前のエピソードだからだろうか。計算すると禅師41歳時、ということになる。笑っている訳ではないのだが、口角が上がっているという珍しい頂相(高僧の像)で、穏やかな性格が顔に出ているかのようである。元にした木像は黒漆がムラに禿げている状態なので、肌色の禅師を早く見てみたい。元寇つまりモンゴル兵だが、特定の誰でもないので、作るのは問題はない。日本人と変わらないようだが、朝青龍と白鵬の額のカーブは日本人の男性では見た記憶がない。兜を被せるので必要ないけれど。

 



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某禅師が宋代の中国で描かせ、来日時に携えて来た説のある国宝の肖像画だが、それに対し、寺の公式ホームページに載っている重文の木像は、亡くなった前後の作だといわれている。肖像画の方が、より迫真的で実像を伝えている、と判断したが、頭頂部、目鼻耳口の形、違いがあるが、X線写真によると、下に、より肖像画に近い形が残されているようで、木像の制作者も肖像画を参考にした可能性があるかもしれない。後世の修復者がより武張った像にしてしまった。仕事した爪跡を残したい、と余計なことをする輩はいつの世にもいるようである。 しかし、以後数百年の間に、私のように肖像画の立体化の試みがなされなかったとすれば、それはひとえに立体である木像が在ったからに違いない。系列宗派の寺や、信徒が禅師の像を作らせた事は当然あったろうが、その場合も木像を元に作られたはずである。彼らはX線写真を見ていないし。 数年前の引っ越し前なら、禅師の首をポケットに、飲みに行ったところだが。テーブルに味の素が置いてある定食屋で一人祝杯を上げた。ゴールデンウィーク後半を前に禅師二人の頭部が完成。



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