NHK「日曜討論」石破が言う安全保障環境の時間と距離の短縮を和らげる外交努力を安倍晋三はしていのか

2014-07-08 08:48:05 | Weblog



 7月6日(2014年)のNHK「日曜討論」は「“行使容認”閣議決定 集団的自衛権を問う」と題した議論を各党幹事長クラスが出席して放送していた。

 集団的自衛権憲法解釈行使容認の閣議決定が先で、国会での議論が後回しになったことの批判を受けると、石破茂自民党幹事長は次のように答えている。閉じた口元にたっぷりと浮かべた笑みを細めた目にまで漂わせて質問者を見つめ、さも誠実そうに聞く様子は自民党政調会長の高市早苗そっくりだ。誠実そうな表情の裏に隠しようもなく陰険さを露わにしている。

 石破「閣議決定は法律を掛ける状態になった。ただそれだけです。そこに於いて議会に掛け、賛成なのか、反対なのかというご議論をきちんと頂く、ということです。

 それが民主主義というものですね。

 さっきから戦争に巻き込まれるという話がありますが、戦争は国連憲章で違法化されています。例外的な武力行使が自衛権。そこに個別と集団の区別はない。それは国連憲章のイロハです」――

 体裁のいいことを言っている。公明党の合意を得て、閣議決定してしまえば破綻なく維持できることとなった与党圧倒多数を前提としているのだから、議会に掛けさえすれば、あとは時間の問題で、成立を既成事実とすることができる。もうこっちのものだという思いを持っているはずで、そのうえで、民主主義を口にする。陰険・狡猾そのものである。

 戦争が国連憲章でいくら違法化されていても、如何なる国も国連憲章に則って行動するわけではない。自衛の戦争を認めていること自体が違法の戦争の存在を前提としている。

 そして何よりも厄介なことは、それが違法の戦争であっても、戦争を起こした当事国は正義の戦争とするということである。ロシアのクリミア併合にしても、それを自国の正義としているからであって、西欧諸国が国際法違反だ、国連憲章違反だと言うだけで制裁も加えずに眺めているだけだったら、クリミア併合でとどまらず自国の正義を推し進めるためにロシア軍は越境してウクライナに侵攻していただろう。

 海外で武力行使するということは戦闘行為をするということであって、相手はそれを正義の戦闘行為としているだろうから、なかなか引くことはせず、そうであることから戦闘行為というものが常に拡大しないという保証はなく、戦闘の拡大によって戦争に発展しない保証もないわけで、そうである以上、正直に戦争に巻き込まれることをあり得ると言うべきだろう。

 だが、「武力の行使」と言うだけで、戦闘行為であることを隠している。戦闘行為は間近に戦争を想起させるが、「武力の行使」は戦争を想起させにくい。戦争を遥か彼方の遠方に置くことになる。当然、戦闘行為と言わずに「武力の行使」と言うのはゴマカシを含んでいることになる。

 
 途中、大畑民主党幹事長が石破茂に対して次のような質問をした。

 大畠民主党幹事長「国民がなぜ迷っているのか。安倍さんのお友達が集まって報告書を出して、急遽与党内で協議が始まって、それも1ヶ月半ぐらい、13時間、それで合意したから、閣議決定した。その過程というものがよく分からない。

 国民が戸惑うのは当たり前。私は昭和47年(1972年)の閣議決定では集団的自衛権の行使は憲法上許されないとある。今回も、それを置いておいて武力行使の3条件というものを乗っけた。ここに無理がある。国民が戸惑うのは当たり前。ここまで無理の上に無理を重ねてきた」――

 「安倍さんのお友達が集まって報告書を出して」と言っていることは、安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が5月15日提出した報告書のことを言う。

 この私的諮問機関について機関の北岡伸一座長代理が懇談会の正統性について5月19 日の自民党会合で発言している。《安保法制懇「正統性あるわけない」 北岡座長代理》asahi.com/2014 年5月20日00時38分)

 北岡伸一「安保法制懇に正統性がないと(新聞に)書かれるが、首相の私的懇談会だから、正統性なんてそもそもあるわけがない。

 (メンバーに集団的自衛権行使反対派がいないとの報道についても)「自分と意見の違う人を入れてどうするのか。日本の悪しき平等主義だ。NHKだって必ず番組に10党で出すから、議論が深まらない。鋭い論法でやっていても、あとで視聴者から反発が起きる。安全保障の専門家は集団的自衛権に反対の人は殆どいない」――

 要するに「正統性なんてそもそもあるわけがない」報告書に基づいて自公が「1ヶ月半ぐらい、13時間」という短時間の協議に入り、「正統性なんてそもそもあるわけがない」報告書に基づいた協議の末に自公が合意し、閣議決定したということになる。

 NHKの「日曜討論」が10党それぞれの代表者の出演で、例え10党それぞれが自党の主張を譲らなくても、あるいはある党が別のある党の主張に共感を示したとしても、いずれの場合であっても視聴者にしたらどの政党がどのような立場でいるのかの理解に役立つ。理解は知識となり、情報となる。視聴者はそれらの知識・情報に基づいてそれぞれの主張に対して共鳴できるかどうかを決めていく。決して「悪しき平等主義」のみで片付けることはできない。

 北岡伸一は「安全保障の専門家は集団的自衛権に反対の人は殆どいない」と言っているが、それが事実だとしても、憲法解釈変更によるのか、憲法改正によるのか、行使容認の方法論は大きく分かれている。

 北岡伸一が言っていることは「安保法制懇」の報告書を正当化させるための強弁に過ぎない。

 大畠民主党幹事長の質問に対して司会者が補足した後、石破茂が答えている。

 島田司会者「昭和47年の閣議決定を踏襲して今回の閣議決定を積み上げたと言っているのだけど、あの政府見解には集団的自衛権は行使できないと明記してる。それを使うのは無理じゃないかという、その指摘は如何ですか」

 石破「あれをよく読むとですね、『そうだとすれば』という接続詞が入っているんだけど、あそこでボーンと論理が飛ぶわけなんですよ。

 『そうだとすれば』って、その前のところだけで使えないというところに、じゃあ、何で、何で、集団的自衛権行使すると、突然憲法に触れるの?必要最小限度超えるという説明がないんですね。

 ですから、そこんところはそこのところとして、やはり、安全保障環境が変わった、言うことなんです。時間が物凄く短くなった。何日単位が何時間単位になってきた。距離も物凄く短くなってきた。

 じゃあ、いよいよ自国が攻撃される状況になってから、個別で対応していたのでは、国家の存立が危うくなる。他国に対する攻撃であったとしても、それが自国の存立を危うくするということが認められれば、自衛権として行使をするのであって、決して戦争しにいくのではない。

 ましてや自衛権と何の関係もないのにアメリカと一緒になって外国で戦争するなどというのは、もうそれはタメにする議論です」

 大畠民主党幹事長「それはね、石破さん、ちょっと違うと思う。昭和47年の頃は、戦争を経験した自民党の代議士がたくさんいたんです。そういう歴史上から、そう言うことにしようということを決めたんですから、単に石破さんがおっしゃるような形ではないと思う。

 歴史から学んだものをここに乗っけたんですよ。安部政権は歴史から何を学んでるんですか、と私は思います」

 石破「突然言ったようなことをおっしゃらないでください。我が党は十数年、この議論をしてきたし、安倍さんのお友達だけを集めて突然と言いますけども、第1次安倍内閣から安全保障に関する懇談会があったんです。リポートも出ています。

 ここ何年にも亘って繰返された議論であって、突如として出てきた議論ではありません」

 何十年議論したからといって、それが国民に受け入れられる議論とは限らない。年数が問題ではなく、国民が受け入れるかどうかが基準となる。こんなことも分からない石破茂と来ている。

 石破茂は「じゃあ、いよいよ自国が攻撃される状況になってから」と言っているが、戦争を想定した言葉である。この想定は「戦争に巻き込まれることはない」という想定をウソにすることになる。

 石破茂の前半の「1972年の自衛権に関する政府見解」についての説明がよく理解できない。

 1972年の「自衛権に関する政府見解」の趣旨は自国への武力攻撃に対しては自衛の措置(いわゆる個別的自衛権と言っているところのもの)まで憲法が認めていないわけではなく、許されるが、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利としての集団的自衛権は憲法9条の関係から行使できないとしているに過ぎない。

 政府見解の最後の部分を引用してみる。

 〈平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉――

 要するに「そうだとすれば」という接続詞で前後を対置させたのである。前者の場合はこれこれの理由で憲法上許されるが、そのことを前提とするならばという意味で、「そうだとすれば」という接続詞を使って、後者は許されないとしたまでである。

 更に要約すると、前者は憲法は許していると解釈したのであり、後者の集団的自衛権まで認めていないと憲法を解釈したのである。

 そしてこの政府見解が安倍晋三が閣議決定するまで踏襲されてきた。

 1972年から各歴代内閣を通して踏襲されてきたなら、当然、一内閣が覆していいわけがなく、憲法改正を基本とすべきだろう。

 石破茂は「安全保障環境が変わった、言うことなんです。時間が物凄く短くなった。何日単位が何時間単位になってきた。距離も物凄く短くなってきた」と言っていることは、戦争や紛争、武力衝突がアフリカや中東だけの問題ではなく、その危険性がアジアにまで広がっていることが“距離の短縮”を意味し、国家間の軍事的緊張関係が所有している大量破壊兵器や弾道ミサイルを使用させた場合の不測の危険性が“時間の短縮”を意味しているのだろうが、では安倍晋三は軍事的な危険性を孕むこととなっている安全保障環境に於ける距離と時間の短縮に対して軍事的危険性を少しでも和らげる外交努力をしているのだろうか。

 安全保障環境の激変の対象としている外国とは関係のない外国を回って、前者の軍事的危険性を喧伝するだけでは、距離と時間の短縮を和らげる外交努力を心がけているとは決して言えないし、却って軍事的緊張を一層煽る事態となっている。

 安倍晋三が標榜し、各国を回って宣伝に努めている「積極的平和主義外交」は距離と時間の短縮を和らげる外交にこそ使われるべきであって、使わずに手付かずとしているのは積極的平和主義外交」は口先だけを正体とすることになる。

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