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《7月19日『ウクライナ東部におけるマレーシア航空17便の墜落について』鈴木克昌代表代
行・幹事長談話》
マレーシア航空17便が7月17日、ウクライナ東部で墜落し、乗客乗員298人の尊い命が失われる
という痛ましい悲劇が起こりました。
犠牲者及びご家族に心からの哀悼の意を表します。
この事故は、撃墜の可能性が指摘されています。国連安全保障理事会は7月18日、関係当事者に対
して完全で独立した国際的な調査を求めました。
日本政府が国際社会と連携し真相究明のためにできる限りの協力をするよう求めます。
サッカーワールドカップ・ブラジル大会優勝のドイツ代表チームのメンバーが祝勝イベントで決勝を争ったアルゼンチンチームを蔑視するパフォーマンスを演じてみせて、ドイツとアルゼンチンで批判の声が上がっているという。
《独 選手のパフォーマンスに批判の声》(NHK NEWS WEB/2014年7月17日 22時23分)
どのような批判の声が上がったかと言うと、記事は、〈優勝を争ったアルゼンチンへの配慮を欠く行為だとして〉と伝えているが、自分たちドイツチームが優勝したことに対する偉大さの感情と対比させてアルゼンチンチームがドイツチームに敗れ去ったことに対する偉大さとは正反対の感情を向けていたたのだから、「配慮を欠く行為」で片付けるべきではなく、蔑視の感情を込めたあるまじき行為としなければならないはずだ。
7月15日、首都ベルリンに凱旋帰国して、ブランデンブルク門の前で約40万人の市民を集めて祝勝イベントを開催した。
そしてアルゼンチン戦で決勝ゴールを決めたゲッツェ選手やクローゼ選手等代表メンバー6人がステージ上で、アルゼンチン代表を南米でカウボーイを意味する「ガウチョ」に擬(なぞら)えて、「ガウチョはこう歩く」と背を丸めながら小声で歌ったあと、「ドイツ人はこう歩く」と大きく胸を張って飛び跳ねるパフォーマンスをおよそ4分に亘って披露したという。
いわばワールドカップの優勝戦での勝敗そのままにドイツ人を評価し、アルゼンチン人を評価した。アルゼンチン人を卑小扱いし、ドイツ人を偉大だとした。
このようなパフォーマンスに対して記事は、〈アルゼンチン国内では「気分を害する行為だ」とか「挑発的だ」として反発の声が上がっているほか、ドイツの新聞も「強烈なオウンゴール」などと伝え、配慮を欠く行為だとして批判の声が相次いでい〉ると伝えている。
勿論ドイツが経済大国であることやノーベル賞受賞者の多さ等から判断した教育水準の高さ、国力の大きさも背景にあっただろうし、そういった自分たちドイツ人が築き上げた数々の事実からくる普段の自信や誇りにも裏付けられていたはずだが、彼らはサッカーワールドカップ決勝戦の勝ち負けの一事によって、その高揚感と共にドイツ人としての普段の自信や誇りをもそこに込めて、総合性としてのドイツ人の偉大さを表現し、そのことから比べたアルゼンチン人が劣ることを演じてみせた。
ここに民族差別意識がなかったとしたら、ウソになるはずだ。特に民族差別意識は何らかの民族的な高揚感が働いたときにより強く作動する。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災時の日本人による朝鮮人・中国人虐殺は地震の混乱に紛れて朝鮮人が井戸に毒を撒いたというデマに踊らされて生じた朝鮮人に対する激しい敵意が日本人として懲罰を与えるという民族的な高揚感を誘発して元々あった民族差別意識を刺激、中国人をも巻き込んで数々の凄惨なリンチの形を取ることになった、民族と民族を対峙させた全体像であったはずだ。
ドイツの場合、ヒトラーはドイツ民族を世界で最も優秀なアーリア人種に価値づけていて、第2次世界大戦で劣等視したユダヤ人の抹殺と世界支配を試みた。常に他民族に対して自民族を対峙させていた。
その時のドイツ民族優越意識は消えずに残っていて、サッカーワールドカップ優勝で選手たちの中でその血が頭を持ち上げたようだ。
スポーツに限らないが、個々のスポーツの優秀な成績や成績に貢献した個人個人のスポーツの優秀な能力を民族の血や能力に結びつけたとき、他民族を蔑視するような始末の悪い形で民族優越主義が露出されることになる。
試合終了後健闘を讃え合った姿はそうすることとなっている単なる習慣として行ったジェスチャーに過ぎなかったようだ。
正々堂々と全力を尽くして競技するスポーツマンの態度・精神を言うスポーツマンシップは民族優越意識には勝てなかったようだ。
日本人は第2次世界大戦中、海外の戦闘地域や支配地域で相手外国人に対して数々の残虐行為を行った。残虐になり得たのは元々日本人が人種や民族を、あるいは個々の人間自体さえ、上下で価値づける権威主義を行動様式としていたからで、他人種や他民族を日本民族よりも劣るとしていたから可能とすることができた。
もし対等意識があったなら、不可能な残虐行為だったろう。
個々の成績や個々の能力を民族の血や能力に結びつけることは日本人としても気をつけた方がいい。