国民の命と平和な暮らしを守るための集団的自衛権行使だと言うなら、行使容認の条件を直接国民に問え

2014-07-02 09:04:37 | Weblog




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       《7月3日(木)小沢一郎代表と堀茂樹教授のちょっと硬派な対談Part5(FINAL)生中継》

       [テーマ]「21世紀 日本のグランドデザイン」
       [日 時]7月3日(木)16:00~18:00
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      《7月1日(火) 集団的自衛権行使を容認する閣議決定を受けて 小沢代表声明発表》

      本日、安倍内閣は集団的自衛権行使を容認することを閣議決定しました。
      これを受けて小沢一郎代表が声明を発表しました。
      生活の党HPからご覧ください。

 自民・公明両党が7月1日、集団的自衛権などを巡る与党協議を開催、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する閣議決定案で合意、これを受けて同夕方、臨時閣議を開催、閣議決定を行い、同6時から安倍晋三が記者会見を行った。

 発言は、首相官邸HP《安倍首相記者会見》(2014年7月1日)に拠った。 

 集団的自衛権行使の目的を、「国民の命と平和な暮らしを守るため」だと、6回言っている。そのうちの1回は「国民の命と平和な暮らしは守り抜いていく」、もう1回は「国民の命と平和な暮らしを守ることを目的としたものであります」と表現は少し違っているが、言っていることは同じである。

 「国民の命と平和な暮らしを守るため」の集団的自衛権行使だと言うなら、国民自身に行使容認の条件を直接問うべきだろう。問う方法は衆院を解散して、国民の選択に委ねるもいいし、国民投票法を活用してもいいはずだ。

 安倍晋三は冒頭発言早々、「いかなる事態にあっても国民の命と平和な暮らしは守り抜いていく。内閣総理大臣である私にはその大きな責任があります」と言っているが、首相としての安倍晋三に永遠性があるわけではない。「守り抜いていく」という永遠性を担うことができるのは総合性としての国家であって、「国家にはにはその大きな責任があります」とその永遠性を総合性としての国家に担わせるべきを、それをさも安倍晋三個人のみが担っている永遠性であるかのように言うのは、いくら自分を売ることに長けているとしても、不遜の至りとしか言い様がない。

 安倍晋三は海外の紛争からの脱出日本人を米軍が保護・救出し、安全地帯への海上輸送中に攻撃された場合に自衛隊がその米艦船を守ることを集団的自衛権行使の例として挙げて、いわば集団的自衛権行使とはその程度のことなのだからという意味を持たせて、そのことを根拠に、「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれる」というのは「誤解」であって、「外国の防衛それ自体を目的とする武力行使は今後とも行いません」と断言している。

 そして「仮にそうした行動をとる場合であっても、それは他に手段がないときに限られ、かつ必要最小限度」の軍事的行動でなければならないと制約を設けるかのように言っている。

 中東やアフリカ等の海外の紛争地からの脱出日本人を米軍が海上輸送中に攻撃された場合は日米が協力した敵攻撃の撃退で済むこともあるかもしれないが、敵側部隊の影響下にある紛争地帯で日本人を救助・保護下に置いた米軍を敵部隊が襲った場合の自衛隊の集団的自衛権行使からの共同自衛行為が戦闘の拡大を招かない保証があるわけではあるまい。

 要するに救出日本人を輸送中の米軍艦船に対する敵側攻撃と自衛隊の防護参加は全般的な例とはなり得ないということである。

 と言うことは、軍事力行使に関しても武器使用に関しても常に「必要最小限度」であるという保証もないことになる。

 既に触れたように安倍晋三は集団的自衛権行使とはその程度のことなのだからと思わせる情報操作を行ったに過ぎない。あるいは虚偽情報を流した。

 この情報操作・虚偽情報は次の発言からも見ることができる。

 安倍晋三「日本国憲法が許すのは、あくまで我が国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置だけです。外国の防衛それ自体を目的とする武力行使は今後とも行いません。むしろ、万全の備えをすること自体が日本に戦争を仕掛けようとする企みをくじく大きな力を持っている。これが抑止力です」

 「外国の防衛それ自体」を初期的目的とする武力行使は考えていないとしても、如何なる国に於いても外敵に対する一つ一つの軍事力行使(=戦闘行為)が国の防衛と国民を守る「自衛の措置」を出発点としているのであって、自衛隊が集団的自衛権のもとそこに参加した場合、結果として「外国の防衛それ自体」の協力ということになる。

 もしこの論理が否定されるとしたら、外国に派遣された自衛隊の道路建設や学校建設等のPKO活動は武器を持って外敵と戦い、その勢力を駆逐して平和を確立することの一翼を担ったわけではないからという理由で、その国の平和に貢献したとする論理は成り立たないことになる。

 例え軍事力を以って平和の確立に参加しなくても、自衛隊のPKO活動は平和に備えた活動、あるいは平和を目的とした活動なのだから、そのようなことを出発点とすることによって平和に貢献したとすることができるはずである。

 当然、それが単発的な戦闘であったとしても、自衛隊が集団的自衛権を行使して防衛行動に参加した場合、軍事力行使(=戦闘行為)が広範囲に拡大し、あるいは全国土的に波及しない保証はない以上、途中で降りることは許されないだろうから、自衛隊が結果的に戦争に巻き込まれない保証もない。

 この無保証は「万全の備えをすること自体が日本に戦争を仕掛けようとする企みをくじく大きな力を持っている。これが抑止力です」と言っていることの無保証に波及しない保証もない。

 安倍晋三は紛争地からの保護・救助の日本人を海上輸送中の、攻撃を受けた場合の米艦船を守るために自衛隊が集団的自衛権行使する理由として、「人々の幸せを願って作られた日本国憲法がこうしたときに国民の命を守る責任を放棄せよといっているとは私にはどうしても思えません。この思いを与党の皆さんと共有し、決定いたしました」と言って、日本国憲法を「人々の幸せを願って作られた」と最大限に持ち上げているが、安倍晋三は日本国憲法を占領軍が作った占領憲法だからと言って、日本人自身の手で改正し直すを持論としている。

 集団的自衛権行使の国民の理解を得るために「人々の幸せを願って作られた日本国憲法」といった持ち上げに過ぎないはずだ。

 「人々の幸せ」とは、「国民の命と平和な暮らし」の保障であるはずである。その保障が「人々の幸せ」を約束し、日本国憲法がその約束を謳っているという意味の安倍発言となる。

 だとすると、集団的自衛権行使の目的を「国民の命と平和な暮らしを守るため」だとすることは日本国憲法が既に保障している集団的自衛権行使ということになって、憲法解釈変更は矛盾することになる。

 実際には日本国憲法は集団的自衛権行使を保障していない。安倍晋三が言っている「人々の幸せを願って作られた日本国憲法がこうしたときに国民の命を守る責任を放棄せよといっているとは私にはどうしても思えません」は日本国憲法の平和主義にかこつけた憲法解釈変更のための詭弁に過ぎない。

 安倍晋三は冒頭発言最後に次のように言っている。

 安倍晋三「私は、今後とも丁寧に説明を行いながら、国民の皆様の理解を得る努力を続けてまいります。そして、国民の皆様とともに前に進んでいきたいと考えています」――

 国民の理解を得る努力は努力すればいいというものではなく、国民の理解を確かな方法で確かめなければならない。安倍晋三は記者との質疑で、集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更は「憲法の規範性を何ら変更するものではない」と断言しているが、それは安倍晋三とその一派の解釈であって、逆の解釈をする憲法学者やその他の識者も大勢いる。

 確かめもせずに「国民の皆様とともに前に進んでいきたい」は矛盾そのもののご都合主義に過ぎる。

 確かな方法による国民の理解の確認は国民がどちらの解釈に与(くみ)するのかの確かな方法による確認でもある。衆院を解散して、国民の信を問うなり、国民投票法を活用して決着をつけるなりすれば、その結果に国民にしても、直接集団的自衛権行使によって戦闘に参加する自衛隊にしても納得するはずである。

 安倍晋三みたいな国家優先の国家主義者に国民の命と平和な暮らしを守る責任を一人で担っているような気負いを持たせることは、そこの国家優先の力学が働くこととなって、危険きわまりない。

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