北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

鎮魂 忘れ得ぬ1.17 兵庫県南部地震・阪神淡路大震災から今日で17年が経ちました

2012-01-17 23:22:06 | 北大路機関特別企画

◆1.17から3.11、命の襷は次に繋げねばならない

 本日であの阪神淡路大震災から十七年が経ちました。東日本大震災の被害は大きかったのですが、阪神淡路大震災も直下型地震の災害としては戦後最大のものだったことは忘れてはなりません。

Img_7952 阪神淡路大震災、東日本大震災と異なり神戸とその周辺が大打撃を受けた直下型地震ではありましたが、揺れの周期が大きく被害が広域化する海溝型地震とは異なり、周期が小刻みの刺すような揺れと局地的に大きな被害が発生、特に関東大震災の揺れを想定していた建物であっても被害が生じ、犠牲者は6000を超えました。地震による犠牲者の多くは圧死で、その後の大火災による被害拡大は都市型災害への対策を全国的に進めなければならないことを人命と共に突き付けるかたちとなったのはまだ記憶されるところでしょう。

Img_7950 阪神淡路大震災では、災害への一次的な対処主管を担う地方自治体が完全に機能付随に至り、そもそも超法規での行動を厳しく制限されていた自衛隊への派遣要請が大きく遅れ、当時政治を担った革新政権も十分な対応が行えず、その責任の所在を曖昧として一部には転嫁しようとした事もまだ忘れられてはいないことですが、責任は次の選挙により、主権者から冷静に突き付けられることとなったのもまた事実でした。そのうえで前述の通り耐震補強等が行われ、加えて自衛隊への防災という位置づけが新しく認識されたことは、続く災害への減災に寄与したことは確かだと思います。

Img_7947 これは、1.17から3.11へ、被災者の犠牲からの教訓という命の襷が手渡されたからだと信じています。こうして、幾分かの準備とともに、阪神大震災から16年と2カ月ほどを経て、我が国は東日本大震災の災厄に見舞われましたが、M9.0という想像を絶する災害に対して、被害も桁外れではあったものの、元々からの防災教育と準備と共に、併せて行われた阪神大震災以降の準備は、その時、が訪れたあの日にあって、多少は被害の局限化、もしくは被害の拡大を防止することに寄与したことは疑いもなく、活かされたこと、というものはあったのだなあ、と正直に思ったものです。しかしその反面、次への備えはどうなのでしょうか。

Img_7936 前首相が唐突に、東海地震が切迫している、という表現を示しました。同じ首相は緊急時迅速放射線影響予測ネットワークの情報開示を作為か不作為か米国へは即日実施しつつ国民への情報開示は二週間近く遅らせた前科がありますから、なんらかの情報があるのではないかと疑心暗鬼を呼んだことでも思い出すのですが、切迫という表現は不適当としても、今日か半世紀後か、発生する事だけははっきりしています。東南海地震は中京地区伊勢湾沿岸の工業地帯を激震と津波で洗い、南海地震は四国南部と紀伊水道沿岸を激震で破壊し、阪神地区の中心部へ津波が押し寄せるとされています。

Img_7929 南海地震の津波は大阪市中心部へ到達、東南海地震で名古屋も中心部まで津波の危険性、東海地震は想定が修正され最大でM9.0クラスで発生し静岡県東海道全域が壊滅的な被害の危機に曝される、と考えられており、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋地震と同じ、海溝型地震として発生するものです。震災からの教訓と防波堤や社会基盤の脆弱性排除を含めた本格的な防災対策は、復興だけに政府が忙殺され、遂に来年度予算には大きく反映されませんでした。しかし、必ず襲う次に備えて、復興と共に次へ、命の襷を手渡すには相応の努力と覚悟を重ねる必要がある、そのように考えました。

北大路機関:はるな

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コメント (4)
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