北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】丸岡城(福井)霊峰白山臨む北陸に日本最古の天守閣巡る学術的歴史浪漫

2022-03-16 20:20:15 | 旅行記
■古風な笏谷石製石瓦の天守閣
 天守閣を登ると共に、土曜日の昼下がりにこの静けさが保たれているというのは嬉しいではないか。

 丸岡城。城郭といいますと犬山城や彦根城のように観光地観光地している印象か、大都市の中心部に二条城や大坂城に江戸城と名古屋城と広島城の様な印象があるのですが、こちらは観光地ではあるのですが、観光地観光地しておらず、都市でも無い静けさが嬉しい。

 天守台には天守閣と本丸御殿、これを囲むように豊原門と不明門、一段下がり本丸を守るように煙硝櫓と水の手櫓、本丸の東には内堀をにらむ花畑櫓が広がり、東の丸全体は馬場、そして東の丸は土橋を通じて裏門を構成していた。櫓も二層櫓が点々と続いていたもよう。

 二の丸は現存していないことが惜しいほどに壮大で、表門からL字型の土橋を通り大手門、その先が二の丸に続き、大手門からにの丸へは御多門という長櫓に設えた門扉を潜るのですが、その潜る際に太陽の方角を仰げば天守閣が山頂に位置するという、構造のようで。

 御殿。二条城に見慣れていますと、ふと気づかされた時にはっとするのですが、城郭本丸御殿が現存しているのは二条城くらい、あとは江戸城がかたちをかえて、他には掛川城や名古屋城等が復元している程度で、実は貴重なのです。すると丸岡城の現状は致し方ない。

 平時の城郭は行政中枢でありつつ、抑止力を考えた偉容というものを計算に入れた立地です。二の丸は内堀から眺めれば北櫓と丑寅櫓に守られた一見して憮然たる風格に守られていますが、その二の丸御殿は木葺の御殿にふさわしい優美な佇まいと、情景がありまして。

 北陸は遠く霊峰白山を借景とした小さな二の丸庭園とが郭に雅を立ち込ませていたという。いまでは石段と石垣に囲まれた佇まいではありますが、雄大な歴史は現存する天守閣とともに想像力をかき立て続けています。一方で、現存している天守閣というのもはなかなか。

 独立式望楼型二重三階の天守閣。日本最古の天守閣と考えられていたのですが、近年の研究で寛永5年こと1628年に造営されたと判明していまして、それまでは天正4年こと西暦1576年造営、つまり柴田勝豊の建造の天守閣と考えられていました。その近年というのは。

 福井城郭研究所年報研究紀要2019年に、寛永5年こと1628年に造営と結論付けられています。2019年、なんだコロナ前COVID-19時代より前か、と思われるかもしれませんが、つい先日判明した様なものでして、これにより日本最古の天守閣は犬山城となったのです。

 腰屋根方式という建築様式が犬山城天守閣と同じものでして、犬山城天守閣は当初は寺院の本堂の様な巨大な櫓の上に増築した事で最も古い歴史と新しい城郭の設計を相持つ方式となっています。そしてこの腰屋根方式から、長らく丸岡城は日本最古と信じられていた。

 笏谷石製の石瓦。丸岡城が古く感じられるのは城郭ですが瓦が石瓦の荒々しい様相となっている点が一役買っているのでしょうか、なにしろ光沢が無く敷石を被せた様な荒々しい迫力を醸しています、しかしこれには理由があるといいまして、北陸ゆえの理由という。

 天守閣に笏谷石製の石瓦を用いているのは、北陸の酷寒では冬の季節に雨滴が浸透して夜に凍結しますと簡単に罅割れる、もちろんそれならが名古屋城のような銅瓦とすればよいと反論されるかもしれませんが、日本海沿いの丸岡は風も強く、その為の石瓦なのですね。

 福井地震。しかしこの方式は寒風や酷寒には強くとも地震には脆弱性を有していたようでして、1948年の福井地震により天守閣は倒壊しています。ただ、建材の大半は再利用可能であり、七割を当時の建材活用により再建し、丸岡城は今もその威容を轟かせています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】丸岡城(福井)日本海臨む北陸は静かな城下町で見上げた十二現存天守閣

2022-03-16 20:00:16 | 旅行記
■霞ヶ城の名で親しまれる城址
 国道を福井から側道に入り暫く後に昭和の街並みを抜けたところでこの古城を見つけ出したときには、ほう、という感嘆の声が自然と湧きます。

 丸岡城、北陸本線沿線に日本では12現存天守と呼ばれる城郭の一つがありまして、北陸本線を京阪神と金沢を白い俊速で結ぶ特急サンダーバードにて金沢駅へ向かう途中、平野のただ中に緑がこんもりと集まる一角に小さいが印象的な城郭を見つけることができます。

 霞ヶ城の名でも親しまれる城址は、独立式望楼型二重三階の天守閣、寛永年間に造営された歴史ある天守閣を備えていまして、北陸地方では唯一の現存天守閣となっています。長らく慶長年間造営の天守閣と信じられており、日本最古の天守閣とも呼ばれていました。

 福井県坂井市丸岡町霞。天守は重要文化財に指定されています。2017年には坂出市に丸岡城国宝化推進事業丸岡城国宝化推進室が置かれ、丸岡城天守を国宝にする市民の会、なんてものも設立しているのですが、天守閣がある、というわけで一つ歩みを進めてみました。

 城郭それほど大きくはない、しかし、明治維新の動乱も太平洋戦争の戦災も免れた城郭は貴重です。坂井市、丸岡城の立地は坂井市丸岡町で最寄り駅は北陸本線丸岡駅、有名な福井空港もその近くなのですが、直線距離で4kmほどありまして、歩くには若干遠い距離で。

 福井駅で特急を降りた先に鈍行に乗り換えて駅からはタクシーを利用するかと考えていましたらば福井駅からバスがでているという。そのバスは国道8号線沿いに若干時間がかかりまして、方角は違いますが福井駅からの距離はあの有名な永平寺と同じくらいとも。

 北陸本線は特急の他に快速電車などは無く普通列車、新快速に慣れた身には鈍行は時間の有効活用には寂しいかなと思えばバスが福井駅から出ていたのは幸い。しかし、国道8号線は良いのですが側道に入りますと狭い道成に小さな神社や古民家が行儀良く並んでいる。

 令和ではいかないか平成初期の趣ある住宅の佇まいとともに並びまして、そして不思議と曲がりくねる道路の立地が、ここは城下町としての風情をまもっているのだなあ、こう考えさせられます。丸岡城は観光会館の隣に天守閣がそびえているもので近くから見上げる。

 観光会館と一言にいってしまえばそれまでですが、会館のあたりはもともと水手櫓という外郭がありまして、バスの駐車場付近は内堀であったという。水に浮く城郭であった、いまでは丸岡城は小さな城郭という印象は拭えないものですけれども、間近で見上げると。

 天守閣というものは偉大だなあと思い見上げるのですが、これを古地図などに遡りますと実際に非常に大きな城郭であったことがわかる、もっとも日本の城郭全般にいえることですが、まわりが民有地となったいまの城郭も不思議に近くでみれば雄大さを感じるのです。

 丸岡城は明治維新とともに破却されることになり、城郭は売りに出されることとなるのですが、その前の城郭は幅100mという水堀に守られた城郭であり、この掘割をいっそ水源や農業用池にでも役立ててくれればと思うのは明治維新の混乱を知らない身の上故の考え。

 江戸時代の城郭、その内堀は五角形、天守閣はいまとおなじ小山の上、城郭では南側に立地し本丸を構成、内堀に浮かぶ城郭は本丸と二の丸と東の丸が切り込みのはいる銀杏の葉が如く構成されていたといいまして、いまの小城という印象とはだいぶことなります。

 不思議なのは城郭の周囲を巡りますと、戦国乱世とか江戸時代ではなく、個人商店の軒先に自販機が置かれて、バス停に幼稚園に小学校と小さな喫茶店、バイパス道路は遠くなにかこう観光地然としていない、長閑な雰囲気が流れている点が、歩いていて楽しいのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ戦争-シリア義勇兵問題,シリア軍の市街戦経験の高さと相容れぬロシアの戦略

2022-03-16 07:00:23 | 国際・政治
■臨時防衛情報-ウクライナ情勢
 ウクライナ軍の徹底抗戦ぶりは各国の支援があるとはいえ物凄いものがあり、実際驚かされてばかり、日露戦争も各国はこのように日本を見守ったのでしょうか。

 シリア軍が何故市街戦で市街地にT-72戦車を突入させてほぼ全車が小破か中破程度で戻れるのかが昔は謎でした、ロシア軍はチェチェン戦争で首都グロズヌイに戦車部隊を突縫うさせ装甲車や自走砲など100両を短期間で喪失した事例がありますし、2000年代におけるアメリカのイラク治安作戦を見ますと戦車よりは歩兵戦闘が市街戦の肝要となっていた。

 ロシア軍はシリアからの義勇兵を募集しているという、シリア内戦の長期化により深刻な景気後退に陥っているシリアでは月給邦貨換算13万円という、要するに13万ルーブルか、収入はリビア内戦での傭兵よりも報酬が高く、ロシアとしては市街戦で経験を積んだシリア兵に期待している所が多いのでしょう。しかしロシアが思う短期決戦は、できません。

 BCT大隊戦闘群、ロシア軍の作戦基本単位であるBCTは800名規模の諸兵科連合部隊に歩兵が200名程度しかおらず、歩兵不足が深刻という状況もあるのでしょう、なにしろBCTは歩兵大隊と戦車大隊を支援する為に砲兵大隊とロケット砲兵中隊が置かれているのだから、人員が大量に必要となる市街戦にはこの歩兵では不足ですし、工兵隊も全く足りない。

 T-72戦車はシリア軍が大量に保有していて、故障した分をロシアの軍事援助により補填されていますが、ミサイルに対しての脆弱性が高いのはウクライナでの改良型T-90の苦戦を見れば理解できるでしょう、しかし、シリア軍は戦車を単体で突入させているようにみえて、市街戦の機動部隊として戦車を活用しているだけなのですね、どういうことなのか。

 歩兵が市街地の各所に監視所、無線機と地図と双眼鏡に携帯火器、そして食料と水を充分、こうした規模の部隊を配置し、市街地におけるシリア民主軍の動向を多数の監視網で網羅している。もちろん監視所と共に、戦車部隊よりも前方に都市部の頑丈な建物にはシリア軍歩兵部隊が展開していまして、可能な限り路上を移動せず建物同士を穴で結び移動する。

 陣取りのように少しづつ前進する。第一段階は歩兵部隊が十字路などに無防備に前進して適当に建物に射撃、すると応戦されどの方角の為物に敵が展開しているかを地図上に記す、大きな反撃が有れば砲兵を使うが、基本は戦車と随伴歩兵が前進する。この前進するのは前述の監視所を増設する為、占拠した建物を増やす為、時間は掛かりますが堅実ですね。

 戦車の前に歩兵を置くのは禁忌です、主砲の爆風や音速で飛散する装弾筒は重機関銃弾並に危険だからです、が、それは開けた地形の話であり、頑丈なコンクリート建築物に隠れて耳を塞いでいれば装弾筒や爆風はそれ程危険ではありません、そして戦車を支援する随伴歩兵は戦車の真後ろに待機し、戦車が射撃後の十秒間で土煙に隠れて前進すれば良い。

 建物を歩兵が占拠しますとシリア軍は街路の左右を幾つもの紐で結び、布や網で暗幕の様に垂らして対戦車火器が飛翔できない様にします。遮蔽物を避け至近距離で戦車を狙うとRPG擲弾などは最低射程内で炸裂さえしません。こうして陣取りの様に市街地の占領を広げてゆく。だからこそシリア内戦は長期化していますが国軍が損耗する事も避けられます。

 シリア軍は市街戦で強い、これは事実なのですが、ロシア軍は規格外の経済制裁により消耗していますので短期決戦を望んでいます。するとシリア軍が市街戦で長年蓄積した戦術は時間がかかるものですので、ロシア軍が意図した通りの作戦には向かないのかもしれません。短期決戦を望めば人的被害は増大します、傭兵とはいえ忍耐に限度はあるでしょう。

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