■F-4EJ改エンジン音轟々と
エンジンの音轟々とファントムは往く航空祭の空へ。順光と青空を背景に次々と戦闘機が離陸してゆく情景を前にまさにこの構図を撮りたかったとカメラの構え方にも気合が入るものだ。
百里基地航空祭、茨城県の航空自衛隊基地で首都防空に当る第七航空団が展開しています。ここは航空自衛隊ファントム発祥の地であり、そしてF-15が配備開始されますと首都防空を担うべく二つの飛行隊がイーグル飛行隊に機種転換しましたが、21世紀は色々ある。
第七航空団は21世紀に入り顕在化した中国による南西方面での軍事圧力増大を背景に、沖縄の那覇基地に配備されていましたファントム飛行隊をイーグル飛行隊へ機種転換する必要が生じました、しかし既にイーグルは生産終了となっており新規生産などはできません。
北海道の第二航空団はロシア圧力を考えればイーグル二個飛行隊は引抜けません、小松の第六航空団も日本海の対岸が北朝鮮ですので引抜けません、九州の第八航空団も朝鮮半島最寄りの基地ですしイーグル飛行隊は一個だけですので無理、そこで首都防空が、という。
首都防空は重要ですが、東京はペトリオットミサイルや03式中距離地対空誘導弾システムにより幾重にも防空が確保されていますし、東京に長躯接近するのは鈍重な、中には俊敏な機種も居ますが、相手は爆撃機です、そこでファントムでもなんとかなるだろう、と。
ファントム飛行隊はこうして、一個飛行隊が那覇と交代しまして、イーグルとファントムの飛行隊となったのがこの航空祭を撮影した2012年でした。もっとも、このあともう一個の飛行隊も引抜かれまして、なんと二つともファントム飛行隊になるとか、想像できない。
航空祭を撮影した写真、百里基地航空祭へ初めて歩み進めたのは2012年という東日本大震災の直後だったのですが、考えてみますと痛感するのはカメラ性能の向上ですね。いやカメラ撮影が長くなりレンズを新型に切り替えたのも大きいのかもしれませんけれどもね。
SIGMA120-400OSを当時は愛用していました、150-500というものもあったのですが500mmはカメラがCANONでしたので将来にCANON純正への切り替えを考えますとCANON純正の500mmは単焦点になり手に負えません、それも色々な意味で凄いものだ。
CANON純正の500mmともなりますと、カメラレンズ、こうひとくくりにするにはちょっとテレビや冷蔵庫と比べるには厳しいものがあります。カールグスタフ並の重さと軽自動車の値段がする。いや重さだけならば冷蔵庫や大型テレビの方が凄いのですけれども。
ピントがなあ、とは思うところなのですが、まあ撮影できていないわけではないので。しかしこの頃はEOS-50DとEOS-7Dという二台のカメラを抱えて一方に広角ズーム、もう一つは望遠ズームという、レンズ交換の間を惜しんで撮影していたのですね。理由がある。
18-200mmIS、CANONがなぜか絶版にしてしまいましたが、これが実は望遠のSIGMA120-400mmよりも航空機撮影に威力を発揮しました、18-200mmは絶版になり18-135mmに切り替わっているのですが、CANONの技術的な問題もあったのでしょうか。
SIGMA120-400mmと並べて撮影すると望遠がたりないことは確かなのですがトリミングしますと使える構図と仕上がりはこちらのほうが多かったのですね。もっともこの18-200mmISについては老朽化しますとAFモーターが作動性に不確かなものがでますが。
航空機を撮影するには可能な限り18-200mmで追いかけ、射程外に出た際のみ120-400mmを使うという。ただ、試しにCANONの純正で所謂"白レンズ"、おもしろいと思って300mmF2.8ISを購入しますと、これが凄かった。いや、技術は必要なのです、それこそ。
300mmF2.8ISは撮影に技術が必要と云うのは、ピントが凄いですから、と実感するところが大きい。サンニッパと呼ばれるレンズ、油断すると戦闘機の誘導路を進む様子を撮影していても、気付けばターミナルにピントが正確に合っていたりしますので油断できません。
サンニッパ、これを一眼レフに装着しますとバッテリー込の重さと云うのが4.4kgと懐かしい64式小銃並となる、しかし、解像度が素晴らしいのですよね、飛行する機体のコックピットにピントを合わせればパイロットの表情はもちろん、名札まで読める解像度でした。
体力だなあ、と撮影を終えた後の疲れを想うのですが、昔はEOS-Kiss-Nに18-55mmと70-300mmISという軽量装備、それこそ小さなカメラバックに入る機材で適当に撮影していたものを、流石にサンニッパレンズだけで昔の機材より重いのだから疲れは当然と知る。
28-300mmIS、ああこれをレンズ沼というのだなあと実感しつつレンズをも一つ、18-200mmの望遠版のようなものを調達しまして、初めて使ったのは確か千葉の下志津でしたけれども、これも凄かった。なによりも撮影する全ての焦点領域をほぼカバーする。
白レンズの一翼を担う28-300mmISを本格的に運用しますと、あっというまにSIGMAは、いいレンズですよ、予備機種となる。28-300mmISと120-400mmOSでは400mmの方が望遠は利くのですが、なにしろ使える構図の比率となりますと白レンズはやはりすごいや。
100-400mmIS2、しかし驚くのはこののちに発表された新型レンズで、ズームレンズですのでサンニッパと比べれば軽量なのですが、性能がサンニッパに迫る、八割くらいか、描写力がありまして、これがEOS-7Dmark2と相性抜群だったのですよね。買ってよかった。
思い起こせば、過去の幾つかの行事に際して、この性能のレンズやカメラがあればなあ、そう思い返すこともあります。もっともそれは思い返す土台となる過去の写真があるからこそ。やっぱり写真というものは思い出を長く新鮮なままとできる、良いものなのですね。
偵察航空隊。RF-4の離陸です、大災害となりますとこのRF-4が緊急発進し写真偵察を行い、政府や自衛隊災害派遣部隊の情報収集に役立てる、というものはある時期では定番で、例えば映画の日本沈没や平成ガメラシリーズなどでも描かれていた描写であったのですね。
RQ-4グローバルホーク、ようやく2022年3月に日本へ到着しました後継機ですが、この偵察航空隊は2020年3月に廃止されていまして、いやはや、この2020年から2022年にかけて、東日本大震災のような大災害が起きなくて本当に良かった、冷冷やしていました。
RF-4戦術偵察機の前にはRF-86という第一世代戦闘機であるF-86戦闘機の派生型を配備していたのですが、このRF-86を運用する部隊として1961年に第501飛行隊が創設されていまして、1962年に基地を入間基地へ移動しています。移動には偵察機の特性があった。
戦術偵察機、この機体には航空祭を撮影するカメラの親分のような巨大なカメラと、こんなフィルムを使ってみたいという撮影者の夢と自分で現像しないからだよという事業者の視点のようなフィルムが搭載されている、これで目標を撮影し、画像情報を得る訳ですね。
松島基地で創設された背景には、当時F-86戦闘機の教育訓練部隊が置かれていた為なのですが、当時も今も、今と云うのは撮影時点のRF-4があった時代、フィルムを撮影しましたらば現像せねばなりません、そして現像した画像を送るまでが第一段階となるのですが。
入間基地へ移転した背景には、松島基地を基点に運用し、そして偵察機舞台に現像処理施設があるのですから現像も松島で行う必要がありますが、その現像した画像を伊達正宗公に見せるならば宮城県内ですが、東京の安倍総理大臣(当時)に見せるには少々距離が遠い。
東京に送るには入間基地が最適です。府中基地の方が近いといわれるかもしれませんが、滑走路が無い。FAXを使うべきと指摘されるかもしれませんが、この戦術偵察機の巨大なフィルムで撮影した画像はあまりに高精細で、FAXでは難しい。今の光ファイバーならば。
写真偵察は航空祭でも展示飛行を行うのですが、なんと驚く事に二回に渡り上空を航過飛行し、その後で現像し格納庫で展示するというものなのですが、航空祭に来場していた、恐らく五万六万の観衆、私も含めカメラバックまで判別可能なほどに写っていたのですね。
偵察画像、今の光ファイバーならばデジタル化して送信できるのかもしれませんが、まあ1961年の技術では感熱紙を使って送る伝送技術では無理と云わざるを得ません。そこで松島基地から入間基地へ移転されたのですが、その後にやや離れた此処百里基地へ移転した。
茨城県で遠くなったのではないか、こう指摘されるかもしれませんが残念な現実が。当時入間基地の滑走路はF-86戦闘機の発着には対応していたものの、F-4戦闘機の重量や最大装備の発着距離も、不充分という状況があったのでした。仕方なく1972年に移動します。
第501飛行隊は百里に移転しましてRF-4戦術偵察機を運用するのですが、これはRF-86とは段違いの高性能で速度も生存性の高さも凄かったのですが、なにより夜間偵察が可能になったのが大きかったようです。一方、偵察航空隊分遣隊としてRF-86も暫く残った。
偵察航空隊分遣隊というかたちで入間基地に一定数のRF-86が配備され、RF-4とともに二機種運用が行われていました。そんな時代も在った事を考えると、後継機が配備される前に偵察航空隊が廃止され、その後数年間に渡り綱渡りを行った、背筋が寒くなるよう思う。
F-2戦闘機あたりを暫定的な戦術偵察機に応用できなかったのか、個人的にはこう思います。なにしろ支援戦闘機として開発されたF-2には目標情報が不可欠なのですからF-2をRF-2というような専用機に改造しなくとも、既存のF-2に偵察ポッドを装着するだけでも良い。
MS-110広領域空中偵察システム。我が国では東芝がRF-15偵察機用偵察ポッドの開発を試み、そして失敗し偵察機は一時なかった事になりました、空幕広報の方も一時期偵察機を話題にすると笑顔を曇らせましたほど。しかし世界にはMS-110のような既製品がある。
東芝もこうした技術に果敢に挑んだのは評価しますが、東芝はガソリン車や旅客機に手を出さない様に、未経験の分野にいどむには、例えばM&Aで経験ある海外企業を子会社化するとか、航空技術事業部を立ち上げて充分研究する、この手間を省いて、防衛が危機に。
MS-110広領域空中偵察システムはF-16戦闘機用のポッドでレイセオン社が開発しました、戦術偵察機はRQ-4と比較しますと、広域防空ミサイルの脅威状況下でも敵戦闘機が接近する状況でも偵察が可能です、RQ-4で対応出来るならば戦闘機でなくとも空中戦が出来る。
有事はいつ起きるか分らない、それは東日本大震災のような形で在るかもしれないしロシア軍ウクライナ侵攻のような状況が北海道周辺で起こるかもしれない、だからこそ何とかなるだろうと考える事は安全保障の基本以前を理解していない事になる、そう思いました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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エンジンの音轟々とファントムは往く航空祭の空へ。順光と青空を背景に次々と戦闘機が離陸してゆく情景を前にまさにこの構図を撮りたかったとカメラの構え方にも気合が入るものだ。
百里基地航空祭、茨城県の航空自衛隊基地で首都防空に当る第七航空団が展開しています。ここは航空自衛隊ファントム発祥の地であり、そしてF-15が配備開始されますと首都防空を担うべく二つの飛行隊がイーグル飛行隊に機種転換しましたが、21世紀は色々ある。
第七航空団は21世紀に入り顕在化した中国による南西方面での軍事圧力増大を背景に、沖縄の那覇基地に配備されていましたファントム飛行隊をイーグル飛行隊へ機種転換する必要が生じました、しかし既にイーグルは生産終了となっており新規生産などはできません。
北海道の第二航空団はロシア圧力を考えればイーグル二個飛行隊は引抜けません、小松の第六航空団も日本海の対岸が北朝鮮ですので引抜けません、九州の第八航空団も朝鮮半島最寄りの基地ですしイーグル飛行隊は一個だけですので無理、そこで首都防空が、という。
首都防空は重要ですが、東京はペトリオットミサイルや03式中距離地対空誘導弾システムにより幾重にも防空が確保されていますし、東京に長躯接近するのは鈍重な、中には俊敏な機種も居ますが、相手は爆撃機です、そこでファントムでもなんとかなるだろう、と。
ファントム飛行隊はこうして、一個飛行隊が那覇と交代しまして、イーグルとファントムの飛行隊となったのがこの航空祭を撮影した2012年でした。もっとも、このあともう一個の飛行隊も引抜かれまして、なんと二つともファントム飛行隊になるとか、想像できない。
航空祭を撮影した写真、百里基地航空祭へ初めて歩み進めたのは2012年という東日本大震災の直後だったのですが、考えてみますと痛感するのはカメラ性能の向上ですね。いやカメラ撮影が長くなりレンズを新型に切り替えたのも大きいのかもしれませんけれどもね。
SIGMA120-400OSを当時は愛用していました、150-500というものもあったのですが500mmはカメラがCANONでしたので将来にCANON純正への切り替えを考えますとCANON純正の500mmは単焦点になり手に負えません、それも色々な意味で凄いものだ。
CANON純正の500mmともなりますと、カメラレンズ、こうひとくくりにするにはちょっとテレビや冷蔵庫と比べるには厳しいものがあります。カールグスタフ並の重さと軽自動車の値段がする。いや重さだけならば冷蔵庫や大型テレビの方が凄いのですけれども。
ピントがなあ、とは思うところなのですが、まあ撮影できていないわけではないので。しかしこの頃はEOS-50DとEOS-7Dという二台のカメラを抱えて一方に広角ズーム、もう一つは望遠ズームという、レンズ交換の間を惜しんで撮影していたのですね。理由がある。
18-200mmIS、CANONがなぜか絶版にしてしまいましたが、これが実は望遠のSIGMA120-400mmよりも航空機撮影に威力を発揮しました、18-200mmは絶版になり18-135mmに切り替わっているのですが、CANONの技術的な問題もあったのでしょうか。
SIGMA120-400mmと並べて撮影すると望遠がたりないことは確かなのですがトリミングしますと使える構図と仕上がりはこちらのほうが多かったのですね。もっともこの18-200mmISについては老朽化しますとAFモーターが作動性に不確かなものがでますが。
航空機を撮影するには可能な限り18-200mmで追いかけ、射程外に出た際のみ120-400mmを使うという。ただ、試しにCANONの純正で所謂"白レンズ"、おもしろいと思って300mmF2.8ISを購入しますと、これが凄かった。いや、技術は必要なのです、それこそ。
300mmF2.8ISは撮影に技術が必要と云うのは、ピントが凄いですから、と実感するところが大きい。サンニッパと呼ばれるレンズ、油断すると戦闘機の誘導路を進む様子を撮影していても、気付けばターミナルにピントが正確に合っていたりしますので油断できません。
サンニッパ、これを一眼レフに装着しますとバッテリー込の重さと云うのが4.4kgと懐かしい64式小銃並となる、しかし、解像度が素晴らしいのですよね、飛行する機体のコックピットにピントを合わせればパイロットの表情はもちろん、名札まで読める解像度でした。
体力だなあ、と撮影を終えた後の疲れを想うのですが、昔はEOS-Kiss-Nに18-55mmと70-300mmISという軽量装備、それこそ小さなカメラバックに入る機材で適当に撮影していたものを、流石にサンニッパレンズだけで昔の機材より重いのだから疲れは当然と知る。
28-300mmIS、ああこれをレンズ沼というのだなあと実感しつつレンズをも一つ、18-200mmの望遠版のようなものを調達しまして、初めて使ったのは確か千葉の下志津でしたけれども、これも凄かった。なによりも撮影する全ての焦点領域をほぼカバーする。
白レンズの一翼を担う28-300mmISを本格的に運用しますと、あっというまにSIGMAは、いいレンズですよ、予備機種となる。28-300mmISと120-400mmOSでは400mmの方が望遠は利くのですが、なにしろ使える構図の比率となりますと白レンズはやはりすごいや。
100-400mmIS2、しかし驚くのはこののちに発表された新型レンズで、ズームレンズですのでサンニッパと比べれば軽量なのですが、性能がサンニッパに迫る、八割くらいか、描写力がありまして、これがEOS-7Dmark2と相性抜群だったのですよね。買ってよかった。
思い起こせば、過去の幾つかの行事に際して、この性能のレンズやカメラがあればなあ、そう思い返すこともあります。もっともそれは思い返す土台となる過去の写真があるからこそ。やっぱり写真というものは思い出を長く新鮮なままとできる、良いものなのですね。
偵察航空隊。RF-4の離陸です、大災害となりますとこのRF-4が緊急発進し写真偵察を行い、政府や自衛隊災害派遣部隊の情報収集に役立てる、というものはある時期では定番で、例えば映画の日本沈没や平成ガメラシリーズなどでも描かれていた描写であったのですね。
RQ-4グローバルホーク、ようやく2022年3月に日本へ到着しました後継機ですが、この偵察航空隊は2020年3月に廃止されていまして、いやはや、この2020年から2022年にかけて、東日本大震災のような大災害が起きなくて本当に良かった、冷冷やしていました。
RF-4戦術偵察機の前にはRF-86という第一世代戦闘機であるF-86戦闘機の派生型を配備していたのですが、このRF-86を運用する部隊として1961年に第501飛行隊が創設されていまして、1962年に基地を入間基地へ移動しています。移動には偵察機の特性があった。
戦術偵察機、この機体には航空祭を撮影するカメラの親分のような巨大なカメラと、こんなフィルムを使ってみたいという撮影者の夢と自分で現像しないからだよという事業者の視点のようなフィルムが搭載されている、これで目標を撮影し、画像情報を得る訳ですね。
松島基地で創設された背景には、当時F-86戦闘機の教育訓練部隊が置かれていた為なのですが、当時も今も、今と云うのは撮影時点のRF-4があった時代、フィルムを撮影しましたらば現像せねばなりません、そして現像した画像を送るまでが第一段階となるのですが。
入間基地へ移転した背景には、松島基地を基点に運用し、そして偵察機舞台に現像処理施設があるのですから現像も松島で行う必要がありますが、その現像した画像を伊達正宗公に見せるならば宮城県内ですが、東京の安倍総理大臣(当時)に見せるには少々距離が遠い。
東京に送るには入間基地が最適です。府中基地の方が近いといわれるかもしれませんが、滑走路が無い。FAXを使うべきと指摘されるかもしれませんが、この戦術偵察機の巨大なフィルムで撮影した画像はあまりに高精細で、FAXでは難しい。今の光ファイバーならば。
写真偵察は航空祭でも展示飛行を行うのですが、なんと驚く事に二回に渡り上空を航過飛行し、その後で現像し格納庫で展示するというものなのですが、航空祭に来場していた、恐らく五万六万の観衆、私も含めカメラバックまで判別可能なほどに写っていたのですね。
偵察画像、今の光ファイバーならばデジタル化して送信できるのかもしれませんが、まあ1961年の技術では感熱紙を使って送る伝送技術では無理と云わざるを得ません。そこで松島基地から入間基地へ移転されたのですが、その後にやや離れた此処百里基地へ移転した。
茨城県で遠くなったのではないか、こう指摘されるかもしれませんが残念な現実が。当時入間基地の滑走路はF-86戦闘機の発着には対応していたものの、F-4戦闘機の重量や最大装備の発着距離も、不充分という状況があったのでした。仕方なく1972年に移動します。
第501飛行隊は百里に移転しましてRF-4戦術偵察機を運用するのですが、これはRF-86とは段違いの高性能で速度も生存性の高さも凄かったのですが、なにより夜間偵察が可能になったのが大きかったようです。一方、偵察航空隊分遣隊としてRF-86も暫く残った。
偵察航空隊分遣隊というかたちで入間基地に一定数のRF-86が配備され、RF-4とともに二機種運用が行われていました。そんな時代も在った事を考えると、後継機が配備される前に偵察航空隊が廃止され、その後数年間に渡り綱渡りを行った、背筋が寒くなるよう思う。
F-2戦闘機あたりを暫定的な戦術偵察機に応用できなかったのか、個人的にはこう思います。なにしろ支援戦闘機として開発されたF-2には目標情報が不可欠なのですからF-2をRF-2というような専用機に改造しなくとも、既存のF-2に偵察ポッドを装着するだけでも良い。
MS-110広領域空中偵察システム。我が国では東芝がRF-15偵察機用偵察ポッドの開発を試み、そして失敗し偵察機は一時なかった事になりました、空幕広報の方も一時期偵察機を話題にすると笑顔を曇らせましたほど。しかし世界にはMS-110のような既製品がある。
東芝もこうした技術に果敢に挑んだのは評価しますが、東芝はガソリン車や旅客機に手を出さない様に、未経験の分野にいどむには、例えばM&Aで経験ある海外企業を子会社化するとか、航空技術事業部を立ち上げて充分研究する、この手間を省いて、防衛が危機に。
MS-110広領域空中偵察システムはF-16戦闘機用のポッドでレイセオン社が開発しました、戦術偵察機はRQ-4と比較しますと、広域防空ミサイルの脅威状況下でも敵戦闘機が接近する状況でも偵察が可能です、RQ-4で対応出来るならば戦闘機でなくとも空中戦が出来る。
有事はいつ起きるか分らない、それは東日本大震災のような形で在るかもしれないしロシア軍ウクライナ侵攻のような状況が北海道周辺で起こるかもしれない、だからこそ何とかなるだろうと考える事は安全保障の基本以前を理解していない事になる、そう思いました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)