北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】城南宮,鳥羽院は院政始まりの地にみる日本の転換点ー律令国家回帰の夢は武家政治への入り口

2022-03-30 20:22:44 | 写真
■白河上皇と鳥羽上皇
 貴族政治が在って武家政治となり、武家政治が終わって天皇親政から民主主義が生まれた、とこうまあ歴史の流れを理解していますと収斂する先が必然のように思えますが時の為政者たちは未来など見えません。

 楽水苑という美しい梅園を散策していますと、成程洛中と称される京都駅よりも北の立地とはずいぶんと風情が異なるものだ、こう趣き深いものを感じるのですが、この寺院はもともと白河天皇が造営した鳥羽離宮というもの、その白河天皇は荘園を制限しています。

 律令国家は、平安遷都を含め日本が幾度も政情から首都をかえねばならない時代に後退期を迎え、これが地方貴族の興隆へと繋がり、大和朝廷と呼ばれた時代から中央権力強化の、ある種中国的といえた政治体制から地方分権の時代を迎える事となりましたが、懸念も。

 寛徳の荘園整理令として白河天皇が荘園の禁止を示したのは国土は遍く中央に、という律令国家再建の意気込みが反映されていまして、ここ鳥羽離宮では後拾遺和歌集選定の勅撰和歌集編纂という文化への統制をも踏み込みました、この改革は反発もあり時間もかかる。

 応徳3年こと西暦1086年、皇位は弟へと後三条天皇の遺訓が在りましたが実子に継承させ堀河天皇を即位、そして自らは上皇宣下し院政を始めるのですね。しかし1107年に堀河帝が若くして崩御すると出家していた孫を擁立し鳥羽天皇が即位、更に院政を強化しました。

 法皇として白河上皇は出家しますが、これが逆に当時一大勢力となっていた寺社勢力への影響力拡大が目的であり、院政は中央政界と宗教界に至る巨大な権力構造となります、この改革は同時に地方の反発を生み、既得権返還を求める中で武士階級が実力をつけてゆく。

 改革を進める為に反発があり、実孫の鳥羽天皇を護るための政権干渉は果たして政権とは朝廷に在るのか院に在るのか、この二重権力を白河法皇は実力を以て優位を示すために武士階級を重用し殿上地下問わず反発や叛乱に対しては軍事力により統制を試みたという。

 これでは内戦になる。白河法皇が崩御した後に院政を支えたのは鳥羽上皇でしたが危惧したのは行き過ぎた統制です。実際白河院は権力を誇示する為の栄華を建物で誇示しており、鳥羽殿には勝光明院という宝蔵が造営され、列島や大陸の膨大な美術品が並べられました。

 荘園という制度は必要の最中に広がったものであり、統制を強めても限度がある、鳥羽上皇はこうした視点を持ち、実際興味深いのは鳥羽治世では一度として荘園整理令が出されていません、このように国土割る為の強権国家よりは自由競争での繁栄を選んだといえる。

 鳥羽院の施策は荘園を新田開発と理解した上で規制せず、しかも荘園寄進は積極的に受けるというもの。寄進の見返りに国役免除や国司不介入の特権を認める、これは見方を変えれば国家財政の脆弱化も招くのですが、一旦生まれた既得権益を武力で収奪はできません。

 検非違使に北面は平氏を、受領に源氏を。鳥羽院の防衛に武士階級を登用したのも鳥羽院の施策であり、こうして城南宮に位置した鳥羽院は貴族の荘園寄進により大きな建物が建つ事無く、そして武士による警護の徹底という、洛南にもう一つの京都が生まれたことに。

 平忠盛の時代には瀬戸内の海賊を検非違使として討伐しましたが、武士階級を鳥羽院近くに寄進した荘園警護に用いたという事は、地方の荘園と中央警護という、いわば武士階級の中央地方関係が生まれる事となり、これが源平、続く武家政治時代へ下地を育みました。

 城南宮の周辺は荘園であった為に巨大寺院が林立する事無く、静かな建物の無い現代の立地となりました。そして当地は幕末に鳥羽伏見の戦い主戦場となりましたが、軍事力で解決し得る時代へ遷った事で結局幾度も戦火で更地となった、そんな歴史の上に建つのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】城南宮,梅花華やか極める社殿に歴史あり-後三条天皇は律令国家再建へ中央集権強化の遺構

2022-03-30 20:00:43 | 写真
■京都-梅の名所は城南宮
 この2022年は色々ありまして毎年ひみつの梅の花見ができなくなりまして梅花の頃に少し真面目に散策してみました。

 城南宮。ここは京都でも有数の梅の名所として知られています。京都市伏見区中島鳥羽離宮町に鎮座します社殿は、地下鉄竹田駅から少し西へ歩み進めた開けた立地に在り、京都は洛中の寺社仏閣が多いものの、高い建物の少ない開けた風情が聖域という気風を生む。

 中島鳥羽離宮町、地名にもあります通り此処は白河院や鳥羽院と、日本の中心が院と朝に分かれたころの上皇猊下が広げましたもう一つの政治舞台でもありまして、その遺構は多宝塔などのかたちで今も歴史を伝え、昔は車からあの多宝塔は何かと考えたものでした。

 伏見区は散策の際には京阪やJRに近鉄と鉄道線に沿って風景との出会いを愉しみますと、少し遠い立地と思います神社です、しかし、不動尊はじめ歴史の気風は今も色濃い。ただ、意外と、と冠しますのは洛中と比べればこの界隈は活気が一寸違う様にひろがっていて。

 慶応4年こと西暦1868年の鳥羽伏見の戦い、実はこの界隈はその主戦場となった歴史があるようで、成程京都では応仁の乱はじめ数多くの戦災を被っていますが、明治維新の廃仏毀釈などもあり地域復興から取り残され、現代都市として再生した名残なのでしょうか。

 城南大神、さてここ城南宮は主祭神に城南大神という八千矛神と息長帯日売尊と国常立尊、方角を司る神々を祀っています。その創建の頃は不詳といいますが平安遷都の際に国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合せ祀ったのが始まり。ただ、歴史はもう少し複雑という。

 平安京の南にあることから三柱を城南神と称したのですが、当地には真幡寸神社という社殿が平安遷都の前にありまして、いわば合祀のかたちをとったという。そして大将軍神社はじめ方角神を祀る社殿と並べますと神域は広大ですが、これにも背景があるようです。

 真幡寸神社、この一帯の地名が院政の舞台である事は前述しましたが、白河天皇が鳥羽離宮を造営しますと城南離宮の名を冠しまして、真幡寸神社はその鎮守社となるのですね。院の鎮守社となりましたことは神域の広まりへと繋がり、今日の隆盛へつながってゆく。

 院政の舞台、院が在ります故にそうした立地なのですが、院政と一言に言いましても後三条天皇の権力基盤強化を行った治暦3年こと西暦1068年の摂関政治からの脱却という一言に結論を見い出すのではなく、その様式は院を置く以外の共通点が逆に少ない実態がある。

 奈良時代の律令政治は国内の災害や疾病により停滞となり、律令国家体制が中央政府による現在のわたしたちが考える様な政治制度とは異なり、いわば後退という形で貴族に荘園を認める中央集権の衰弱を契機とする分権化がありましたが、後三条天皇は此処に改革を。

 延久の荘園整理令として後三条天皇は律令国家再建へ中央集権強化を期したものなのですが、これが逆に荘園権益保護への貴族の原動力を生む事となりました。実際後三条天皇の意気込みは強く、宇治の平等院の直接課税へ動いた話や宣旨枡の要領を勅令したことなど。

 白河天皇へ御世が遷った後にも中央集権強化の流れは続きまして、その権力を誇示する為に造営されたのが今の城南宮に立地する鳥羽殿を離宮とし、自らは洛中の東は白河に白河院、そして法勝寺を自らの氏寺として造営しています。そして当地の風景にも重なる動き。

 寛徳の荘園整理令として事実上新規の荘園を貴族が造営する事を中央が禁止するのですが、この流れに対する大きな反発が、ここ城南宮の一帯に大きな寺院を造営しない、されなかったという背景を醸成してゆく事となります、ある種自然である種必然の面白い歴史です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ロシア軍ーキエフ北方で大規模な撤退,トルコでの両国停戦交渉に"建設的な前進"と全土の遺棄兵器や撤収問題

2022-03-30 07:00:55 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 歴史的なウクライナ軍による反撃成功と視るべきでしょうか、野戦部隊の奮戦と共に今後この戦争は政治交渉の季節を迎えるのかもしれません

 ロシア軍がキエフ北方において大規模な撤退に転じたとのこと。歴史的といえる。当初二日で陥落すると懸念されていたウクライナの首都キエフは、開戦一週間でロシア軍の攻撃軸に対する交通統制や輸送計画の拙さから大規模な車両渋滞を引き起こし、車列は60kmという一時は国境まで100kmの大半が車列により埋まるという状況に陥っていました。

 チェルニヒウなどキエフ北方では先週からウクライナ軍の反撃がロシア軍を押し返し始めており、当初は大規模なロシア軍渋滞と云う格好の目標を叩くだけのウクライナ軍の作戦能力が無いとの分析もありましたが、航空攻撃の目標となる機械化部隊と歩兵部隊により浸透するように迂回機動を展開したウクライナ軍がロシア軍に看過できぬ損害を与えたか。

 トルコにて29日に開催されたウクライナロシア停戦交渉では、ウクライナがトルコやイスラエルにカナダなどを加えた新しい安全保障枠組を構築することを条件として、NATO加盟交渉の棚上げを表明するなど、キエフ北方での奮戦がロシア側に譲歩を引き出した形です。他方で、南部マリウポリでは戦闘が激化しており、戦場は南部と東部に遷ったかたち。

 撤退作戦が稚拙である。ロシア軍の印象は組織的な撤退訓練が不充分であり、かなり多数の戦闘車両を破壊せず放置し撤退しており、これらを鹵獲したウクライナ軍は例えば戦車保有数などで、ロシアとの戦闘で撃破された車輛を差し引いても鹵獲車輛を加えれば戦車保有数は開戦前より増加したとの分析もあり、今後の大きな課題となるかもしれません。

 ロシア軍の撤退は、今後ロシアが発表している通り、ウクライナ東部二州とクリミア半島周辺に主軸を移すための転進である場合、ウクライナとしては停戦交渉が妥結するまで戦闘を継続する以外の選択肢はありません、しかし無計画な撤退が行われているということは、西部を除く全域に膨大なロシア軍車両が遺棄されており、鹵獲され続けている構図だ。

 停戦が実現したとして、ロシア軍は陸軍の基幹戦力であるBTG大隊戦闘群相当数をつぎ込んでいる為、俄かには信じられない事ですがロシア軍の陸軍戦力の数%から10%以上がウクライナに遺棄される事となります、これを放置して後退し賠償代わりに譲渡するならば問題は起きないのかもしれませんが、撤収は装備の完全改修が条件となればどうなるのか。

 停戦が第一ですが、例えば国連防護軍や国連PKO部隊による兵力引き離しを行わなければ、撤収条件を履行する為に孤立部隊へロシア軍が停戦時間を利用し補給線を整備した場合、停戦条件が守られていないとの一方的な口実、核攻撃や化学兵器密造などロシアの一方的口実が再度繰り返され、戦闘となる可能性があります。関心を持ってみてゆきましょう。

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