北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】常寂光寺,常寂光土の情感と今を包むこの静寂は現代と過去を結び音の京都の古都たるを伝える

2022-10-19 20:22:18 | 写真
■景観と情感と織る音の古都
 音響といいますか時雨亭で選歌された小倉百人一首は風情と共に和歌の音韻も評価の対象であり、こう音というものは現代単純化させ過ぎているようで更に感じ入る余地があると思う。

 常寂光寺の庫裏を見上げつつ。常寂光土のような情感から開基となられました日禎が山号を常寂光寺と定めたとも伝わりまして、寂の音韻はなにかこう静寂と繋がるような、読経も葉鳴りも含めて、音というものがこのコロナによる静寂が何か京都を取り戻したよう。

 庫裏とともに鐘楼が隣り合っていまして、時と共にごうんという鐘の音を伝えるのですが、聞けば京都の梵鐘は都市計画に基づきその寺院の位置により音階が定められているとのことでして、それは北山と東山と嵐山と地域ごとに三つの音域に分かれていたという話が。

 鐘楼は寛永18年こと西暦1642年に破損していたものを再建したといいますが、その梵鐘は惜しくも太平洋戦争中の金属供出により失われていました、しかし1973年、京都工芸繊維大学の音響設計により音階を再現し鋳造されたものという、良い音が良い訳ではない。

 音の京都、考えますと景観保護区として外見は一時代の制定により一種標本のように画定させている京都なのですけれども、音というと考えられていない様にも。ただ、常寂光寺の人のいない季節の静寂は、静寂という一点、その音の京都を湛えているようで落ち着く。

 落ち着きのできる寺院、それとも多くの拝観者でにぎわう活気を感じられる寺院、歴史と信仰というものを感じる寺院なのか歴史で振興を図るのかということを考える分水嶺は、落ち着いて休める椅子など座れる場所の多さで決まるのか、総数でなく拝観者一人当たり。

 椅子が多い寺院は、人を迎えてゆったり時間を過ごす暇というものを考えているように思う、するとここは、多宝塔のあたりは別としまして、一望できる立地や鐘楼のあたりに座れる場所が多く、ここは振興より信仰という寺院なのだろうなあ、と思い巡らせる余裕が。

 信仰か振興かという命題、しかしこれもとある観光寺院、自称はしていないが他称が多少されるところ、観光寺院と呼ばれるところで聞いてみますと、いや人多く集えば数百人の一人の仏教と信仰へ関心を寄せる方が必ず出会いの場となる、こう説明されたものでして。

 観光寺院ではありません、こう明示されています寺院も昨今みるようになり、なんでも事情を聞けば過去、クラシックでゴージャスなSNS向きの写真を撮るためだけに撮影機材満載とオシャレ集団に荒らされたという、ここではないけれども寺院の方の話を聞きました。

 難しいなあ、こう思う。熱心な信徒かと問われますと、信仰もさることながら信仰の変容と社会の関わりがこの日本社会を歴史としてどのように形成したのかを知るために自社仏閣の価値観と哲学に興味が云々、こう説明しますと困った顔で及第点を色々な方から頂く。

 拝観謝絶、京都の寺院にはこういう寺院が一部に、いや実のところ拝観できる寺院は寺院の総数のなかでは圧倒的に少数です、大伽藍を維持する寺院は檀家さんの寄進では維持できないという理由もあるのかもしれませんが、大きな寺院は迎え入れてくれるところ多い。

 節度、こういう説明もなされるところなのですが、難しいのですよね、信仰に関心があるならば、天台宗の寺院の次に日蓮宗の寺院を探訪、ということはできないはずなのです、それは宗派の違い以上に歴史的な関係がありますから、すると無節操といえる拝観とは。

 拝観、この際に先ず最初に探訪した寺院とともに関心を持ち、その上で尋ねる機会があれば素朴な疑問を持つ、これが節度の一つのあり方なのかもしれませんが、すっごーい、とネコ科動物の擬人化の子の様な一過性の拝観で終えない効率的な観光なのかもしれませんね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】常寂光寺,東山と北山と洛中一望多宝塔は歌道宗匠藤原定家和歌選歌の時雨亭跡と小倉山に佇む

2022-10-19 20:00:34 | 写真
■藤原定家が眺めた俯瞰
 京都は最先端都市として平安遷都の頃から数多転機とともに歩んできましたが京都を包む山々の情景と情感は千年を超えて不変という。

 常寂光寺の多宝塔は、歴史ある本堂の奥の方へ歩み進めまして一つ京都の遠景が美しく見えたあたりに石階段が始ります、そしてその階段を、この斜面こそ小倉百人一首の小倉山だ、と昇ってゆきましたところに、静かに建っている、佇んでいるという表現でしょう。

 多宝塔は重要文化財に指定されているものです。この多宝塔は大坂戦役ののち元和6年こと西暦1620年に造営されたもの。高さは12mとなっていますが方三間の重層宝形造という構造で屋根は檜皮葺でして、並尊閣と記されています扁額は霊元上皇の宸筆勅額という。

 小倉山はそれ程も標高は高くないのですが、清水寺も金戒光明寺も南禅寺も永観堂さえも望見できるのですが。紅葉の季節には午後遅くに来ますと、嵐山は峰々が陽光を遮り鮮やかさが若干霞んでしまうのですが、遠景の東山に並ぶ伽藍は一際順光に輝くのでしょうね。

 本堂は平瓦葺き本堂となっていまして、池泉鑑賞式庭園がその裏手に広がっているのは山を降りてゆくところで静けさとともに気付かされるところなのですが、大坂戦役とともにこの本堂は伏見城から小早川秀秋が移設したというもの、考えれば不思議な立地といえる。

 高台院が豊臣秀吉没後に慕う気持ちを受け継ぐべく、小早川秀秋はやや離れた嵐山に移築したのかと考えると、そして伏見城から大坂城落城、焔と共に豊臣氏の滅亡は望見できたといいますが、当地からは山峯遮り、その悲劇を庵が眺めず済んだのは、どう思うべきか。

 時雨亭、藤原定家が小倉百人一首を編纂したのはまさにこの当たり、時雨亭という別邸にて選んだというものでした。5-7-5そして7-7という限られた文字に思いや情景と情感を込めて残す、これが千年以上前の和歌を2020年代の日本に歴史と共に伝え残しているもの。

 京極中納言藤原定家は応保2年こと西暦1162年から仁治2年こと西暦1241年までの時代を生き、正二位権中納言まで奉職し二条天皇から高倉天皇に安徳天皇と後鳥羽天皇そして土御門天皇と四条天皇まで10代の天皇に仕えたという、その最中に小倉百人一首を編纂へ。

 古今和歌集と新古今和歌集を編纂した事でも知られる藤原定家は源氏物語と土佐日記の現代解釈、といっても鎌倉時代の時点ですが、こうした文学に長けた歌道の宗匠でして、定家仮名遣という、鎌倉時代から明治維新まで標準語が生まれるまでの文体を創りました。

 明月記と熊野御幸記、藤原定家が記した日記は共に国宝に指定されていまして、当時の日記とは私的なものではなく一族氏族に教訓や教授と伝法の目的で記された、公開する為の日誌的な意味合いをもつものであり、平安朝末期から武家時代までの変容を遺しています。

 時雨亭、日本の木造建築物は維持管理さえ適切ならば非常に長期間、残ります。この歴史的建造物も鎌倉時代に室町時代と安土桃山時代に江戸時代と時代の移ろいとともに一部は倒壊するものの、実は庵室だけは昭和初期まで残っていたとの事ですが、最後は台風で。

 時雨亭跡と称するのが正しいのでしょうが、この何処かにあったという。いや、近くに二尊院がありまして、こここそが時雨亭跡なのではないかとも云われるところなのですけれども、結局わからないというところか。昭和初期に残った庵室が再建されないのは寂しい。

 文学の堂宇なのだ、歴史では色々ありましても、この小倉山から東山と北山の、愛宕山と高雄山に連なる峰から遠く比叡山と如意ヶ岳に東山の峰々と北山は衣笠山、そして遠く遠くに鞍馬山を感じつつ、今に至る日本語の原型と文学が育まれた事は、確かなのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キエフ攻撃のイラン製無人機,欧州連合が調査開始-ロシア軍事支援ならば対応示唆,イラン核合意再構築へ波及か

2022-10-19 07:01:23 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 新しい問題はこのウクライナ戦争が遠く中東へ波及するという厳しい可能性を示す事となりました。

 ウクライナ攻撃へのイラン関与についてEU欧州連合は確たる決意を持って具体的な証拠を探す、10月17日にEUのボレル上級外交代表がEU外相会合において述べました。これはこの数日間、ウクライナの首都キエフがロシアから飛来したイラン製無人航空機による自爆攻撃により少なくない死者が出ており、イランへの経済制裁を示唆したかたち。

 イラン核合意再建への影響は不可避となるのでしょうか、ちょうどこのほぼ一ヶ月前の9月12日、ドイツ政府はイラン核合意再開に向けての調整が難航している旨を発表、同じ日にイラン政府はIAEA国際原子力機関へ核合意へ復帰する用意があると表明しつつ、核関連施設への査察に難色を示し、言うなれば、査察抜きに経済制裁解除を要望していました。

 核合意とロシアへの無人航空機提供は全くの別問題ですが、核合意再建により経済制裁を解除した一方で無人航空機供与による別の経済制裁発動となった場合に、欧州各国とイランの関係を良好に保つ見通しはありません。他方、ロシアとの間で天然ガス供給遮断さえ受け入れる覚悟で経済制裁に望む欧州にとり、イランの行動は容認できるかという事に。

 無人航空機供与の重要な点は、今回の供与事実が確認された場合、これは2月にロシア軍がウクライナへ侵攻して以来、初めてロシアへ軍用品が提供されたこととなります。この事実の重さは、北朝鮮でさえロシア側が要請した軍事物資提供要請に応えていないという一点を指摘すると理解できるでしょう、欧州はイランに対し強くでざるをえなくなります。

 EUが本腰でイランを睨む背景には、この状況を看過した場合、北朝鮮製火砲や弾薬、北朝鮮は軍事境界線付近に展開させている火砲だけでフランス陸軍全火砲の30倍もの砲兵を展開させている、スーダン製戦車、スーダンは中国製第三世代戦車のライセンス生産を行っている、こうしたものがなし崩し的にロシアへ輸出されかねないという危機感が出てくる。

 イラン核合意のめどが立たない場合、イラン核開発を具体的に検証し阻止する枠組みが無くなります、これはイランが1979年のイラン革命以来国是としている"イスラエルの廃止"という方針を転じさせない以上、中東地域において大きな火種が育つことを看過するにほかなら無いのですが、ロシアに続くイランへの制裁、世界は恰も大戦に向かうようですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする