■景観と情感と織る音の古都
音響といいますか時雨亭で選歌された小倉百人一首は風情と共に和歌の音韻も評価の対象であり、こう音というものは現代単純化させ過ぎているようで更に感じ入る余地があると思う。
常寂光寺の庫裏を見上げつつ。常寂光土のような情感から開基となられました日禎が山号を常寂光寺と定めたとも伝わりまして、寂の音韻はなにかこう静寂と繋がるような、読経も葉鳴りも含めて、音というものがこのコロナによる静寂が何か京都を取り戻したよう。
庫裏とともに鐘楼が隣り合っていまして、時と共にごうんという鐘の音を伝えるのですが、聞けば京都の梵鐘は都市計画に基づきその寺院の位置により音階が定められているとのことでして、それは北山と東山と嵐山と地域ごとに三つの音域に分かれていたという話が。
鐘楼は寛永18年こと西暦1642年に破損していたものを再建したといいますが、その梵鐘は惜しくも太平洋戦争中の金属供出により失われていました、しかし1973年、京都工芸繊維大学の音響設計により音階を再現し鋳造されたものという、良い音が良い訳ではない。
音の京都、考えますと景観保護区として外見は一時代の制定により一種標本のように画定させている京都なのですけれども、音というと考えられていない様にも。ただ、常寂光寺の人のいない季節の静寂は、静寂という一点、その音の京都を湛えているようで落ち着く。
落ち着きのできる寺院、それとも多くの拝観者でにぎわう活気を感じられる寺院、歴史と信仰というものを感じる寺院なのか歴史で振興を図るのかということを考える分水嶺は、落ち着いて休める椅子など座れる場所の多さで決まるのか、総数でなく拝観者一人当たり。
椅子が多い寺院は、人を迎えてゆったり時間を過ごす暇というものを考えているように思う、するとここは、多宝塔のあたりは別としまして、一望できる立地や鐘楼のあたりに座れる場所が多く、ここは振興より信仰という寺院なのだろうなあ、と思い巡らせる余裕が。
信仰か振興かという命題、しかしこれもとある観光寺院、自称はしていないが他称が多少されるところ、観光寺院と呼ばれるところで聞いてみますと、いや人多く集えば数百人の一人の仏教と信仰へ関心を寄せる方が必ず出会いの場となる、こう説明されたものでして。
観光寺院ではありません、こう明示されています寺院も昨今みるようになり、なんでも事情を聞けば過去、クラシックでゴージャスなSNS向きの写真を撮るためだけに撮影機材満載とオシャレ集団に荒らされたという、ここではないけれども寺院の方の話を聞きました。
難しいなあ、こう思う。熱心な信徒かと問われますと、信仰もさることながら信仰の変容と社会の関わりがこの日本社会を歴史としてどのように形成したのかを知るために自社仏閣の価値観と哲学に興味が云々、こう説明しますと困った顔で及第点を色々な方から頂く。
拝観謝絶、京都の寺院にはこういう寺院が一部に、いや実のところ拝観できる寺院は寺院の総数のなかでは圧倒的に少数です、大伽藍を維持する寺院は檀家さんの寄進では維持できないという理由もあるのかもしれませんが、大きな寺院は迎え入れてくれるところ多い。
節度、こういう説明もなされるところなのですが、難しいのですよね、信仰に関心があるならば、天台宗の寺院の次に日蓮宗の寺院を探訪、ということはできないはずなのです、それは宗派の違い以上に歴史的な関係がありますから、すると無節操といえる拝観とは。
拝観、この際に先ず最初に探訪した寺院とともに関心を持ち、その上で尋ねる機会があれば素朴な疑問を持つ、これが節度の一つのあり方なのかもしれませんが、すっごーい、とネコ科動物の擬人化の子の様な一過性の拝観で終えない効率的な観光なのかもしれませんね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
音響といいますか時雨亭で選歌された小倉百人一首は風情と共に和歌の音韻も評価の対象であり、こう音というものは現代単純化させ過ぎているようで更に感じ入る余地があると思う。
常寂光寺の庫裏を見上げつつ。常寂光土のような情感から開基となられました日禎が山号を常寂光寺と定めたとも伝わりまして、寂の音韻はなにかこう静寂と繋がるような、読経も葉鳴りも含めて、音というものがこのコロナによる静寂が何か京都を取り戻したよう。
庫裏とともに鐘楼が隣り合っていまして、時と共にごうんという鐘の音を伝えるのですが、聞けば京都の梵鐘は都市計画に基づきその寺院の位置により音階が定められているとのことでして、それは北山と東山と嵐山と地域ごとに三つの音域に分かれていたという話が。
鐘楼は寛永18年こと西暦1642年に破損していたものを再建したといいますが、その梵鐘は惜しくも太平洋戦争中の金属供出により失われていました、しかし1973年、京都工芸繊維大学の音響設計により音階を再現し鋳造されたものという、良い音が良い訳ではない。
音の京都、考えますと景観保護区として外見は一時代の制定により一種標本のように画定させている京都なのですけれども、音というと考えられていない様にも。ただ、常寂光寺の人のいない季節の静寂は、静寂という一点、その音の京都を湛えているようで落ち着く。
落ち着きのできる寺院、それとも多くの拝観者でにぎわう活気を感じられる寺院、歴史と信仰というものを感じる寺院なのか歴史で振興を図るのかということを考える分水嶺は、落ち着いて休める椅子など座れる場所の多さで決まるのか、総数でなく拝観者一人当たり。
椅子が多い寺院は、人を迎えてゆったり時間を過ごす暇というものを考えているように思う、するとここは、多宝塔のあたりは別としまして、一望できる立地や鐘楼のあたりに座れる場所が多く、ここは振興より信仰という寺院なのだろうなあ、と思い巡らせる余裕が。
信仰か振興かという命題、しかしこれもとある観光寺院、自称はしていないが他称が多少されるところ、観光寺院と呼ばれるところで聞いてみますと、いや人多く集えば数百人の一人の仏教と信仰へ関心を寄せる方が必ず出会いの場となる、こう説明されたものでして。
観光寺院ではありません、こう明示されています寺院も昨今みるようになり、なんでも事情を聞けば過去、クラシックでゴージャスなSNS向きの写真を撮るためだけに撮影機材満載とオシャレ集団に荒らされたという、ここではないけれども寺院の方の話を聞きました。
難しいなあ、こう思う。熱心な信徒かと問われますと、信仰もさることながら信仰の変容と社会の関わりがこの日本社会を歴史としてどのように形成したのかを知るために自社仏閣の価値観と哲学に興味が云々、こう説明しますと困った顔で及第点を色々な方から頂く。
拝観謝絶、京都の寺院にはこういう寺院が一部に、いや実のところ拝観できる寺院は寺院の総数のなかでは圧倒的に少数です、大伽藍を維持する寺院は檀家さんの寄進では維持できないという理由もあるのかもしれませんが、大きな寺院は迎え入れてくれるところ多い。
節度、こういう説明もなされるところなのですが、難しいのですよね、信仰に関心があるならば、天台宗の寺院の次に日蓮宗の寺院を探訪、ということはできないはずなのです、それは宗派の違い以上に歴史的な関係がありますから、すると無節操といえる拝観とは。
拝観、この際に先ず最初に探訪した寺院とともに関心を持ち、その上で尋ねる機会があれば素朴な疑問を持つ、これが節度の一つのあり方なのかもしれませんが、すっごーい、とネコ科動物の擬人化の子の様な一過性の拝観で終えない効率的な観光なのかもしれませんね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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