■小倉山からの京都を見守る
御祈祷処という扁額は伏見常照院宮の筆によるもので本堂に冠せられているものなのですが、ここは物語の様な滔々たる歴史と共に佇む。

文学、京都は数多ある古典文学を育んだ街並みではあるのですが、なかでもこの嵯峨野の地は小倉百人一首、源氏物語と枕草子と縁あるところでして。歩み進めるごとに文学が花開く、こういう過度な表現はありませんが、なにか文章を残したくなる一角とおもう。

本堂は伏見城の遺構という、つまり豊臣秀吉が造営したものでありまして、慶長年間の西暦1596年から1615年の時代に移築されたもの、もともとは客殿であり、本尊である十界大曼荼羅が収められています。旧本山は六条門流大本山本圀寺、不思議といえば不思議だ。

伏見城の客殿を移築、開基であります日禎と豊臣秀吉の関係を考えますと、考えさせられるところはあるのですが、しかし、ここに移設された事で今は無き伏見城の遺構が、遠い嵐山の地にて壮健なのは嬉しく思います、しかし、移築に助力した武将の名を聞き驚く。

小早川秀秋、伏見城遺構の常寂光寺への移築を助力しましたのは、歴史上に評価が分かれています小早川秀秋によるもの、と聞きまして、嗚呼、と呟いてしまうのは自然なのでしょうか、関ヶ原の戦いにて西軍から東軍へ寝返る事で西軍敗北を決定づけた張本人という。

延壽院は開基で、小笠原秀政の実母であるとともに関ヶ原の戦いでは東軍として宇都宮城に籠城し西軍を牽制した武将、大坂夏の陣は天王寺口の戦いにて戦死しています、いわば東軍の人ではあるのですが、この本堂を移築した時代、非常に緊張が在った時代なのです。

豊臣秀吉正室の高台院その甥に当る小早川秀秋、関ヶ原の戦いの後に移築したのかは興味湧くところですが、伏見城廃城は元和9年こと1623年、ただ関ヶ原の戦いに際しての伏見城攻防戦にて一旦城郭は大破、多くの構造物が焼失していますので、その前なのでしょう。

多宝塔、この寺院は小倉山の中腹に、とは記したところですがもう一つ思い起こすのは階段の寺院、というところでしょうか。それはそのひと際高いところに多宝塔、といっても上るのには五分ほどという山と言うには低いのですが散歩のつもりの坂というには充分な。

京都一望、こういう表現も大げさなのかもしれませんが、一段上り十歩進むとともに見え敵ます風景は開けてゆきまして、おや仁和寺がみえる、と五重塔を遠景に望みつつ、ああ京都タワーの奧に見える朱色の建造物群は清水寺だ、驚きというか感じ入る情景が徐々に。

多宝塔の少し上まで散策できるようでして、これは拝観というよりも散策なのだなあ、と。仁和寺の奧に見える遠い伽藍は金戒光明寺であり、多宝塔が東山の山中にぽつんとみえるのはあれが永観堂だろう、するとその少し下ったところに見えるのが南禅寺、京都一望で。

修学旅行の際にお勧めのところは京都だとどこでしょう、こう問われたことが。実は当方、何故か中学校が小学校の教員と、初対面の方に間違われる、不思議だ。間違える方の多くが教員の方、そんな方とお酒の席などで雑談しますと、こういう話題になるのですけれど。

一望できる場所に先ず行きまして、京都も東山に北山に嵐山と洛中いろいろとありますので、とまあお茶を濁す話題を振り、お茶を濁しましたので、と緑茶ハイかロングアイランドアイスティを注文して笑いを添える、こう定型句を用意しているのですが、どうだろう。

ロングアイランドアイスティ云々はともかくとして、京都タワーや京都駅のガラス越しアクリル越しではなく、少し高いところ、将軍塚はうしろがごとごと鳴動しそうで考えるところですが、高台から眺めて、その上で拝観の主題、テーマを決めては、とも思うのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
御祈祷処という扁額は伏見常照院宮の筆によるもので本堂に冠せられているものなのですが、ここは物語の様な滔々たる歴史と共に佇む。

文学、京都は数多ある古典文学を育んだ街並みではあるのですが、なかでもこの嵯峨野の地は小倉百人一首、源氏物語と枕草子と縁あるところでして。歩み進めるごとに文学が花開く、こういう過度な表現はありませんが、なにか文章を残したくなる一角とおもう。

本堂は伏見城の遺構という、つまり豊臣秀吉が造営したものでありまして、慶長年間の西暦1596年から1615年の時代に移築されたもの、もともとは客殿であり、本尊である十界大曼荼羅が収められています。旧本山は六条門流大本山本圀寺、不思議といえば不思議だ。

伏見城の客殿を移築、開基であります日禎と豊臣秀吉の関係を考えますと、考えさせられるところはあるのですが、しかし、ここに移設された事で今は無き伏見城の遺構が、遠い嵐山の地にて壮健なのは嬉しく思います、しかし、移築に助力した武将の名を聞き驚く。

小早川秀秋、伏見城遺構の常寂光寺への移築を助力しましたのは、歴史上に評価が分かれています小早川秀秋によるもの、と聞きまして、嗚呼、と呟いてしまうのは自然なのでしょうか、関ヶ原の戦いにて西軍から東軍へ寝返る事で西軍敗北を決定づけた張本人という。

延壽院は開基で、小笠原秀政の実母であるとともに関ヶ原の戦いでは東軍として宇都宮城に籠城し西軍を牽制した武将、大坂夏の陣は天王寺口の戦いにて戦死しています、いわば東軍の人ではあるのですが、この本堂を移築した時代、非常に緊張が在った時代なのです。

豊臣秀吉正室の高台院その甥に当る小早川秀秋、関ヶ原の戦いの後に移築したのかは興味湧くところですが、伏見城廃城は元和9年こと1623年、ただ関ヶ原の戦いに際しての伏見城攻防戦にて一旦城郭は大破、多くの構造物が焼失していますので、その前なのでしょう。

多宝塔、この寺院は小倉山の中腹に、とは記したところですがもう一つ思い起こすのは階段の寺院、というところでしょうか。それはそのひと際高いところに多宝塔、といっても上るのには五分ほどという山と言うには低いのですが散歩のつもりの坂というには充分な。

京都一望、こういう表現も大げさなのかもしれませんが、一段上り十歩進むとともに見え敵ます風景は開けてゆきまして、おや仁和寺がみえる、と五重塔を遠景に望みつつ、ああ京都タワーの奧に見える朱色の建造物群は清水寺だ、驚きというか感じ入る情景が徐々に。

多宝塔の少し上まで散策できるようでして、これは拝観というよりも散策なのだなあ、と。仁和寺の奧に見える遠い伽藍は金戒光明寺であり、多宝塔が東山の山中にぽつんとみえるのはあれが永観堂だろう、するとその少し下ったところに見えるのが南禅寺、京都一望で。

修学旅行の際にお勧めのところは京都だとどこでしょう、こう問われたことが。実は当方、何故か中学校が小学校の教員と、初対面の方に間違われる、不思議だ。間違える方の多くが教員の方、そんな方とお酒の席などで雑談しますと、こういう話題になるのですけれど。

一望できる場所に先ず行きまして、京都も東山に北山に嵐山と洛中いろいろとありますので、とまあお茶を濁す話題を振り、お茶を濁しましたので、と緑茶ハイかロングアイランドアイスティを注文して笑いを添える、こう定型句を用意しているのですが、どうだろう。

ロングアイランドアイスティ云々はともかくとして、京都タワーや京都駅のガラス越しアクリル越しではなく、少し高いところ、将軍塚はうしろがごとごと鳴動しそうで考えるところですが、高台から眺めて、その上で拝観の主題、テーマを決めては、とも思うのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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