北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】常寂光寺,本堂の伏見城客殿遺構は悲劇の武将小早川秀秋尽力の現存と京都一望で見守る多宝塔

2022-10-12 20:22:02 | 写真
■小倉山からの京都を見守る
 御祈祷処という扁額は伏見常照院宮の筆によるもので本堂に冠せられているものなのですが、ここは物語の様な滔々たる歴史と共に佇む。

 文学、京都は数多ある古典文学を育んだ街並みではあるのですが、なかでもこの嵯峨野の地は小倉百人一首、源氏物語と枕草子と縁あるところでして。歩み進めるごとに文学が花開く、こういう過度な表現はありませんが、なにか文章を残したくなる一角とおもう。

 本堂は伏見城の遺構という、つまり豊臣秀吉が造営したものでありまして、慶長年間の西暦1596年から1615年の時代に移築されたもの、もともとは客殿であり、本尊である十界大曼荼羅が収められています。旧本山は六条門流大本山本圀寺、不思議といえば不思議だ。

 伏見城の客殿を移築、開基であります日禎と豊臣秀吉の関係を考えますと、考えさせられるところはあるのですが、しかし、ここに移設された事で今は無き伏見城の遺構が、遠い嵐山の地にて壮健なのは嬉しく思います、しかし、移築に助力した武将の名を聞き驚く。

 小早川秀秋、伏見城遺構の常寂光寺への移築を助力しましたのは、歴史上に評価が分かれています小早川秀秋によるもの、と聞きまして、嗚呼、と呟いてしまうのは自然なのでしょうか、関ヶ原の戦いにて西軍から東軍へ寝返る事で西軍敗北を決定づけた張本人という。

 延壽院は開基で、小笠原秀政の実母であるとともに関ヶ原の戦いでは東軍として宇都宮城に籠城し西軍を牽制した武将、大坂夏の陣は天王寺口の戦いにて戦死しています、いわば東軍の人ではあるのですが、この本堂を移築した時代、非常に緊張が在った時代なのです。

 豊臣秀吉正室の高台院その甥に当る小早川秀秋、関ヶ原の戦いの後に移築したのかは興味湧くところですが、伏見城廃城は元和9年こと1623年、ただ関ヶ原の戦いに際しての伏見城攻防戦にて一旦城郭は大破、多くの構造物が焼失していますので、その前なのでしょう。

 多宝塔、この寺院は小倉山の中腹に、とは記したところですがもう一つ思い起こすのは階段の寺院、というところでしょうか。それはそのひと際高いところに多宝塔、といっても上るのには五分ほどという山と言うには低いのですが散歩のつもりの坂というには充分な。

 京都一望、こういう表現も大げさなのかもしれませんが、一段上り十歩進むとともに見え敵ます風景は開けてゆきまして、おや仁和寺がみえる、と五重塔を遠景に望みつつ、ああ京都タワーの奧に見える朱色の建造物群は清水寺だ、驚きというか感じ入る情景が徐々に。

 多宝塔の少し上まで散策できるようでして、これは拝観というよりも散策なのだなあ、と。仁和寺の奧に見える遠い伽藍は金戒光明寺であり、多宝塔が東山の山中にぽつんとみえるのはあれが永観堂だろう、するとその少し下ったところに見えるのが南禅寺、京都一望で。

 修学旅行の際にお勧めのところは京都だとどこでしょう、こう問われたことが。実は当方、何故か中学校が小学校の教員と、初対面の方に間違われる、不思議だ。間違える方の多くが教員の方、そんな方とお酒の席などで雑談しますと、こういう話題になるのですけれど。

 一望できる場所に先ず行きまして、京都も東山に北山に嵐山と洛中いろいろとありますので、とまあお茶を濁す話題を振り、お茶を濁しましたので、と緑茶ハイかロングアイランドアイスティを注文して笑いを添える、こう定型句を用意しているのですが、どうだろう。

 ロングアイランドアイスティ云々はともかくとして、京都タワーや京都駅のガラス越しアクリル越しではなく、少し高いところ、将軍塚はうしろがごとごと鳴動しそうで考えるところですが、高台から眺めて、その上で拝観の主題、テーマを決めては、とも思うのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】常寂光寺,仁王門茅葺包む緑の天蓋は石段と共に百人一首小倉山荘時雨亭の古き風情を伝える

2022-10-12 20:00:37 | 写真
■小倉山の緑包む石階段
 紅葉という季節はまだまだ先の話とはいえ鮮やかな青椛の青さは艶やかさを帯びていると感じますのは秋のひとときの風物詩です。

 常寂光寺、嵯峨の少し山の方に歩み進めますと京都の奥座敷というような風情が、この堂宇を包む木々と少しの木漏れ陽と感じさせられると共に、しかしこのすぐ隣の嵐山が日常から雑踏と喧騒という街中の様な観光地観光地している一角とは思えないよう感じる。

 日蓮宗の寺院、その創建は文禄5年こと西暦1596年という堂宇は、日蓮宗大本山本圀寺第16世日禎の隠棲に落ち着く庵として始まり、武将小笠原秀政の母である日野輝資、その養女の延壽院が開基となりまして当地に開かれました、見上げるのは小倉山、そう小倉山だ。

 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町、地名に小倉山と有ります通り藤原定家が小倉山荘時雨亭にて小倉百人一首の選歌を行ったいわば百人一首の聖地に鎮座しています、もう少し表現力を短くまとめられるようにと磨きたいものだ、こんな思いと共に拝観へと望むのです。

 常寂光寺、これはじょうじゃっこうじと読むのですが、本尊に十界大曼荼羅を奉じます日蓮宗の寺院でありまして山号はそのもの小倉山となっています。小倉山の標高はそれほど高くは無いのですが、本堂へ至る石階段は緑に包まれ、山を登るのだという実感ひとしお。

 石階段は美しい、いや紅葉の季節にも驚くほどに映えるのは判っているのですが、人がすくないからこその静寂を醸し出せるというものですから。わたしはこの日の散策にはEOS-7Dを、2011年以来10年以上使っているカメラを手元に散策していましたがさて。

 緑包む石階段、撮影すためにEOS-Rを手に待たれている方が居ましたので、私も並んで人の気配が静かになるのをふと眺めていたのですが、EOS-30D,昔からの友人と久々に話す機会がありましてつくづくEOS-7Dも物持ち良いと思いつつ、EOS-Rはどうなのだろう。

 茅葺となっていますこの仁王門の屋根はなにか懐かしいといいますかこれは既視感だなあと暫しの待ち時間にしこうをたぐってみましたが、そうかどこか東山の法然院と風情が似ているとことでしょうか、こう思いまして聞いてみますとここは茅葺ではなく藁葺き。

 仁王門は南北朝時代の貞和年間、つまり西暦の1345年から1350年の造営という、ただ、もともと当地に造営されたものではなく、京都市山科区御陵大岩にあります本圀寺の南門として造営されたものを元和2年こと西暦1616年に現在地に移築したということです。

 本国寺と呼ばれたいまの本圀寺、江戸時代初期に徳川家康が寺領安堵を行いましたのは元和元年と、つまりこの頃に本国寺の大改修が始りまして、建て替える際にここへ遷されました。本圀寺の名は水戸藩主徳川光圀が当寺にて、生母久昌院追善供養を行った事に因む。

 日禎、仁王門がもともと本圀寺の南門であることは記しましたが、開基であります日禎その人が、もともと本圀寺16世であるという所縁がありました、敬虔な日蓮宗の教えを守る日禎は不受不施義の教義を守り、かの豊臣秀吉方広寺大仏殿千僧供養に出仕を見合わせた。

 角倉了以、嵐山を散策していますと安土桃山時代から江戸時代にかけての豪商角倉了以の名を、例えば大堰川治水などで聞く事は多いのですが、この寺院は元々角倉了以の別荘地であったといい、日禎の権力に屈しない価値観が町衆の崇敬を集めていた事をしめします。

 水戸黄門こと徳川光圀公と所縁ある寺院という事で急に親しみ湧くと事なのですが、しかしこのお寺の歴史はもっと興味深い歴史の宝庫ということは、歩み進めるとその堂宇の歴史的背景に驚くところへ至るのですが、その話題はもう少し後ほどにて紹介しましょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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クリミア大橋崩落の戦略的影響と軍事的失態,1000回に攻撃に曝された”タンホア鉄橋”本来戦略橋梁は難攻不落

2022-10-12 07:01:43 | 国際・政治
■臨時情報ークリミア情勢
 ロシアのICRF連邦捜査委員会はトラック自爆攻撃という暫定結果を示しているようですが、まだ未知数です。

 橋梁攻撃は本来難しいものであるはずなのですが、案外とあっさりクリミア大橋ことケルチ橋において原因不明の爆発が発生し、しかも現地付近ではウクライナ空軍などの攻撃の兆候がなく、事件から時間がたつものの原因不明と思われているのは奇妙に感じます、橋梁攻撃はヴェトナム戦争においてタンホア鉄橋の攻撃での苦戦を思い出すのです。

 BBC報道では角度によっては橋梁が爆炎に包まれる直前に海面にブラストの様なものが映っている為に、海上からの特殊部隊浸透により海面上から破壊されたという可能性が示唆されていますが、ロシア側バストリキン連邦捜査委員長は、トラックがブルガリアからトルコを横断し北オセチアを経由してクラスノダールから橋に至った調査結果を出しました。

 ウクライナ政府は関与を明言していません、しかし、戦略的に重要な橋梁をどういった勢力が実施したかに関わらず、簡単に崩落させられる、この状況はロシア軍の後方警備が不充分だという事を示しています。重要橋梁、平時のテロではなく現時点では戦時であり、最大限の警戒と防備が敷かれていて然るべきなのですが、現実の状況は報道の通りです。

 タンホア鉄橋はヴェトナムの南部と北部を結ぶマー川にかかる自動車鉄道併用橋で、コンクリート製の165mの橋梁でした。クリミア大橋は19kmですので短い印象を受けるかもしれませんが、南北交通の要衝であるため、ヴェトナム戦争ではアメリカ軍の徹底した攻撃を受けます、しかし、航空攻撃では中々橋梁は破壊されなかった、という歴史がある。

 ヴェトナム戦争においてアメリカ軍が実施したものはアメリカ空軍と海軍航空隊によるもので1000回以上となりましたが、ヴェトナム軍が多数の高射砲に高射機関砲と地対空ミサイル、これらはソ連と中国が供与したものなのですが、防備を固めており米軍発表で攻撃により11機が墜落、ヴェトナム側は117機の撃墜を報道発表しているという激戦でした。

 1972年にアメリカ軍が導入したTV誘導爆弾とレーザー誘導爆弾により崩落し、復旧はヴェトナム戦争後をまつ必要がありましたが、撃墜機数は損傷を含むなど双方の言い分に差異はあるものの1000回の爆撃を行ったという数字は紛れもない事実です。しかし、クリミアの場合は、繰返しますがウクライナ軍が関与したかさえまだ不明となっている状況です。

 ロシア軍のクリミア大橋の防衛体制どの程度であったのか、未知数ではあるのですが半島の重要性を考えれば手薄、ということは軍事的にも考えられません。特に橋梁で移動できるかフェリーに乗るかではトラック輸送の効率性が全く違うのです。ロシア軍の防備はこの程度なのか、そこまでほかの戦線に警備兵力を引き抜いているのか、ここも未知数だ。

 重要施設であっても防衛できない状況であるのか、一見して重要施設であるもののロシア側からみれば警戒の必要性は低いという軍事優先度の認識であったのか、今回の一部崩落は幾つかの疑問符を突きつけることとなっていますが、クリミア半島に展開しているロシア軍部隊は今後海路か占領地の道路を経由しなければ兵站で干上がることとなるでしょう。

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